【豊臣兄弟!】秀吉と秀長はどのようにして織田信長に仕えるようになったのか?

  • 2026/01/13
:歴史学者・作家・評論家

 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第2回は「願いの鐘」。

 秀長の兄・秀吉は年少の頃に故郷の尾張国中村を飛び出し、諸国を放浪。紆余曲折を経て、尾張の織田信長に仕えることになります。秀吉が信長に仕えた時期には諸説あり天文23年(1554)というものや永禄元年(1558)というものがあります。

 後者の説をとるのは『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が描いた秀吉の一代記)です。同書によると、秀吉は以前仕えていた遠江国の武士・松下加兵衛から頂いた金を持ち逃げして身支度を整え、路上にて、信長に仕官を直接訴えるのでした。その際、秀吉は自分の父が織田大和守(敏定)に仕えていたことを持ち出して、自らもまた織田家に仕えたいと願うのです。信長は秀吉の直訴を聞き「顔は猿に似ているが、気がよく利きそうだ」ということで仕官を認めます。

 秀吉に軍師として仕えたことで有名な竹中半兵衛重治の嫡子に重門がおりますが、彼は秀吉の伝記『豊鑑』を纏めています。『豊鑑』にも秀吉の仕官の経緯が簡略ですが記述されているのです。信長と接点がなかった秀吉は、信長が川を逍遥した帰り道に待ち受け、仕官したい旨を大声で告げるのでした。信長はそれを許し、秀吉は清須で朝夕、宮仕えすることになります。『太閤記』も『豊鑑』も仕官については直訴説を採っていると言えるでしょう。

 さて秀吉の弟・秀長が信長に仕えた時期は定かではありません(遅くとも永禄8年=1565年以前には仕えていたと言われていますが)。『武功夜話』(尾張国の吉田家に伝わる先祖の武功を記した古記録。偽書との説もあり)には、中村で百姓をしていた小一郎(秀長)を久方振りに秀吉が訪ねてきたと言います。それは永禄5年(1562)のことでした。秀吉はその頃、信長から足軽頭を仰せ付けられておりました。しかし頼みとする親族は周りに誰もおらず、秀吉は弟・秀長に自分の側にいて力を貸して欲しいと懇願するのです。秀吉の説得に心動かされた秀長は鍬を捨てることになります。こうして「豊臣兄弟」の戦国乱世における長い旅路が始まるのです。


【参考文献】
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。