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若き秀吉の恩人は「別人」だった? 歴史の記述がすり替えた松下家当主

「松下加兵衛、日吉丸を見る」(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
「松下加兵衛、日吉丸を見る」(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 豊臣秀吉の出世譚で必ず登場するのが、松下加兵衛之綱(まつしたかへえゆきつな)という武将です。彼は「遠江国浜松の頭陀寺(ずだじ)城主で、若き秀吉が最初に仕えた人物」として広く知られています。のちに天下統一を果たした秀吉は、之綱に対して「自分が仕えていた時の恩に報いるため」に一万六千石の領地を与え、遠江久野(くの)城主としました。

 しかし!実はこの話には、少しおかしな点があるのにお気づきでしょうか?

 秀吉が松下家に奉公を始めた天文20年(1551)当時、頭陀寺城主だったのは、松下家当主である松下源左衛門長則(ながのり、之綱の父)なのです。ですから、秀吉が松下家に仕えていたのなら、本来は「長則に仕えた」となるはずです。にもかかわらず、一般的に「秀吉は之綱に仕えた」とされています。

 なぜ、このような“人物のすり替わり”が起きたのでしょうか?そこで今回は「若き秀吉は一体誰に仕えていたのか?」を考察してみたいと思います。

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そもそも秀吉は松下家に仕えていたのか?

 まずは「誰に」ではなく、「松下家に仕えていた」こと自体が事実なのかを確認しましょう。

 秀吉の伝記として有名なのは、後世(江戸時代)に書かれた小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』です。秀吉が確実な史料に登場するのは永禄7年(1564)、28歳の時であり、それ以前の若き日の記録は「伝説」や「逸話」に近いと言わざるを得ません。

 一方で、言論界の重鎮だった徳富蘇峰(とくとみそほう)は『近世日本国民史 豊臣秀吉・秀吉の素生《二》』において、

「秀吉の放浪生活については、当人以外何人も知る者はない。(中略)多くの異説中に、ただ秀吉が遠江に赴き、松下氏に仕えたる一事だけはいずれも認めている。」

と述べています。つまり、「秀吉が松下家に仕えていた」ことは史実として見て良い、と判断されているわけです。

 当時の頭陀寺城付近は、天竜川(総別川)が流れ込む「浜松の重要な港町」だったと考えられます。『太閤素生記』では、秀吉が針売りをしながら今川家への仕官を目指して浜松に来たところで之綱に拾われたことになっています。多くの商人で賑わう港町に、針売り秀吉がやってきた可能性は十分考えられます。

 この時の秀吉の風貌について、『太閤秀吉公出生記』は、次のように表現しています。

「異形の者である。人かと思うと猿、猿かと見ると人である。」

 相当目立っていた当時の秀吉が、之綱の目に留まったと考えれば、やはり松下家に仕えたことは真実だったのでしょう。

松下家と秀吉の事績

 松下家は宇多源氏佐々木氏の庶流とされ、当初は西条姓を名乗っていたようです。松下姓を最初に名乗ったのは松下壱岐守高長で、『寛政重修諸家譜』には、移り住んだ土地の名前を姓にしたことが分記されています。

「壱岐九郎、左衛門尉、出雲守西条壱岐三郎氏綱が男。母は二階堂義賢が女、はじめ遠江国笠原庄平河郷に居住し、また三河国松下にうつり住す。」
『寛政重修諸家譜』より

 松下家が遠江浜松の頭陀寺へ住むようになったのは、之綱の父である長則の代からです。長則は槍術をもって諸国をめぐり、今川義元に仕えるようになったといいます。このタイミングで三河から今川領の遠江浜松へ移住してきたのでしょう。当時、浜松を治めていた国人領主・飯尾氏(引間城主)の寄子として、長則は頭陀寺に城を構えたと推測されます。

 そして天文20年(1551)、松下家に秀吉がやってきます。この時、秀吉と之綱は14歳(実は同い年!)であり、長則は40歳です。年齢的にみて長則が当主だったことは間違いないでしょう。秀吉は松下家に3年間仕えた後、ここを離れます。

 その後、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、遠江国人領主による今川家への反乱「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」が起こり、頭陀寺城は焼失。のちに松下家は頭陀寺城跡に屋敷(松下屋敷)を構えます。

 永禄11年(1568)、徳川家康による遠江侵攻の際、松下家は徳川の傘下に入ります。『浜松御在城記』には、

「引間の家臣はいうに及ばず、堀江の大沢左衛門、高薗の浅原、頭陀寺村の松下加兵衛之綱、(中略)群参出仕」

とみえますので、この時の松下家当主は既に之綱に代わっていたことが分かります。

 之綱はその後、頭陀寺の松下屋敷を息子の暁綱に託し、自らは浜松城下の下垂(この時期、下級武士が多く住んでいた地域)に屋敷を構えます。しかし、領地はわずか三十貫なので、どちらかといえば冷遇されていたようです。

 天正2年(1574)の第一次高天神城の戦いで、徳川軍の籠城側に松下加兵衛の名が見えますが、高天神城が武田軍に落とされると、之綱は秀吉のもとへ行ったと考えられます。なぜなら、翌3年の長篠の戦いの陣立図には、「秀吉の配下」として「松下かへえ、兵一〇〇〇」とあるからです。之綱はこの陣立図で秀吉の親衛隊に配備されているので、秀吉から既に信頼を得ていたことが見て取れます。

 天正11年(1582)には丹波国に三千石の領地を与えられ、秀吉の天下統一後の天正18年(1590)10月には、之綱は一万六千石の大名として遠州久野城主となり、秀吉の「恩返し」が果たされました。

 ちなみに、之綱が亡くなったのは慶長3年(1598)。秀吉も同年に亡くなっています。

 この後の松下家について簡記すると、大名松下家を継いだ之綱の長男・重綱は最終的に陸奥国の二本松城主として五万石の大名になっています。しかし、その子である長綱の時に「乱心」を理由に大名松下家は改易となっています。一方で、松下屋敷の暁綱とその子孫は明治までここに住んでいたそうです。

 また、之綱の娘(三女)は柳生但馬守宗矩の妻となり、剣の達人で有名な柳生十兵衛三厳を産んでいます。

 なお、現在は松下屋敷跡(頭陀寺城跡)に「松下嘉平次屋敷跡」と刻まれた石碑が建っていますが、この「嘉平次」とは江戸後期の頭陀寺松下家の当主のことで、加兵衛之綱のことではありません。

秀吉が仕えていたいたのは長則?之綱??

 このように見ていくと、やはり「若き秀吉は松下長則に仕えていた」と結論付けるのが自然でしょう。では、なぜ一般的には「加兵衛(之綱)に仕えた」ことになっているのでしょうか?

 その答えは、江戸時代に書かれた甫庵『太閤記』に、之綱(加兵衛尉)の名が明記されているからです。

「遠江国之住人松下加兵衛尉と云し人に事(つか)へし」
『豊臣記 巻第一』秀吉公素生より

 以降の文献もこれを基にしたと考えられます。大正時代に使用されていた小学校の修身(今の道徳)の教科書には次のように書かれています。

「豊臣秀吉は木下弥右衛門の子で、尾張のまずしい農家に生まれ、八歳の時、父と死にわかれました。秀吉は小さい時からえらい人になろうと志を立ててゐましたが、よい主人に仕へようと思って、十六歳の時、遠江へ行きました。
とちゅうで松下加兵衛といふ武士にあって、その人に仕へることになりました。秀吉はよくはたらきましたので、主人の心にかなひ、だんだん引立てられました。けれども仲間のものにそねまれたので、ひまをもらって尾張へかへりました。」
『尋常小学校修身書・巻四』(大正9年)より

 全国の小学生がこれを読んだのですから、この「秀吉は之綱に仕えた説」は揺るぎない国民の常識となったのです。

考察:「恩を受けた人物」と「恩を返した人物」の差

 ここまでの史実(と思われる内容)をまとめると、以下の3点になります。

 1、若き秀吉は松下家に仕えていた(奉公先は長則)
 2、織田信長の家臣となった秀吉は之綱を家来にした
 3、秀吉は之綱に領地を与え、大名とした(恩返し)

 これに甫庵『太閤記』や教育の影響が加わり、「秀吉は之綱に仕えた」と広く知られてしまったわけです。

 しかし、「之綱に仕えた」とするのは年齢的に無理があります。そこで筆者は、史実と文献内容から以下のように考察しました。

・秀吉は長則に仕え、松下家に奉公していた。
・秀吉が松下家に恩を返そうとした時、既に当主は長則ではなく之綱だった。だから之綱に恩を返した。

 いかがでしょうか?人を見る目が長けていたとされる秀吉。松下家奉公時代、同い年の之綱とも接点があったはずです。槍術や兵法家の評判が高い父長則に対し、之綱にはそうした評判が残されていません。そんな之綱を家来として招き入れて親衛隊へ配備したのは、きっと奉公時代当時の印象が良く、信頼できる人物と感じたからではないでしょうか。

まとめ

 「秀吉は一体誰に仕えていたのか?」に対する答えは「長則(松下家当主)」になります。

 「秀吉が恩を受けた人物」と、「秀吉が恩を返した(その時の)人物」が異なったために、歴史の記述にねじれが生じ、様々な誤解が生まれたのでしょう。

 『太閤記』が書かれた江戸時代には、秀吉の若き日を詳細に知る者はもういませんでした。しかし、「秀吉が松下家に仕えていた話」と「松下加兵衛之綱が秀吉から大名にしてもらった事実」は残っています。そうであれば、「秀吉は之綱に仕え、その時の恩を之綱に返した」と考えるのは、後世の人々にとって、ごく自然な連想だったと言えるでしょう。


【参考文献】
  • 冨永公文『松下加兵衛と豊臣秀吉』(東京図書出版会、2002年)
  • 神谷昌志『遠州武将物語』(明文出版社、1987年)
  • 外川淳『しぶとい武将列伝』(河出書房出版、2004年)
  • 校注:檜谷昭彦・江本裕『新日本古典文学大系60 太閤記』(岩波書店、1996年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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