秀吉の息子「羽柴秀勝」は三人いた!同姓同名だった彼らの数奇な末路
- 2026/06/05
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豊臣秀吉と言えば、子宝に恵まれなかったことで知られていますが、一人も実子がいなかった訳ではありません。秀吉の数少ない実子とされる一人に羽柴秀勝(ひでかつ)がいましたが、実は羽柴秀勝という人物は三人もいました。しかも三人すべて秀吉の息子です。
一体どういうことなのでしょうか。そこで今回は、三人いた秀吉の息子「羽柴秀勝」について、それぞれ紹介してまいります。
一体どういうことなのでしょうか。そこで今回は、三人いた秀吉の息子「羽柴秀勝」について、それぞれ紹介してまいります。
一人目の羽柴秀勝(石松丸)
【永禄12年(1569)ごろ生~天正4年(1576)10月14日没(享年7歳)】生母は諸説あり、宝厳寺『竹生島奉加帳』によると、側室の南殿(みなみどの)とされています。一方、妙法寺(滋賀県長浜市)の寺伝では同じく側室の京極竜子(松の丸殿)と言われています。ただし、竜子については秀吉の側室となった時期と石松丸の出産時期に食い違いがあり、信憑性は疑問が否めません。
なお、「南殿」という通称は長浜城の南側に住まいを与えられたことに由来すると言います。石松丸のほかもう一人の女児を生んでいますが、こちらも早逝してしまいました。
二人の子を喪った南殿はまもなく出家、竹生島の宝厳寺(滋賀県長浜市)で子供たちの菩提を弔い、寛永11年(1634)に世を去ります。
ところで「秀勝」という諱は、織田家重臣の丹羽長「秀」と柴田「勝」家からそれぞれ一文字ずつもらった……と言われています。しかし史料的な裏付けはありません。まるで「丹羽長秀の尻を、柴田勝家の頭に載せている」ように解釈できるため、そんな喧嘩を売るような態度はとらなかったことでしょう。
そもそも7歳で亡くなっているため、幼名の石松丸で生涯を終えた、つまり「秀勝」という諱は後付けされたと考えるのが自然です。ちなみに現代でも滋賀県長浜市の名物となっている長浜曳山祭(ひきやままつり)は、秀吉が石松丸の誕生を祝って始めたという説があるそうです。
二人目の羽柴秀勝(於次丸)
【永禄11年(1568)生~天正13年(1585)12月10日没(享年18歳)】織田信長の四男で、母親は側室の養観院(養勝院とも)。幼名を於次丸(おつぎまる)と言いました。石松丸を亡くした秀吉が養子縁組みを願い出たため、信長は於次丸を養子に出したのです。これは単なる優しさではなく、我が子に有力家臣の家督を継がせることで、権力基盤を固めたい意図があったのでしょう。
かくして天正5年(1577)から天正6年(1578)ごろに秀吉の養子となった於次丸は、やがて元服して羽柴秀勝と改名しました。この諱は生母の養「勝」院からとったのかも知れませんね。
元服した秀勝は父の不在時は長浜城に残って所領の統治を代行。末頼もしい跡取りができて、秀吉も満足していたことでしょう。そんな秀勝は天正10年(1582)、信長の命令によって秀吉の中国征伐に合流。備前児島城攻めで初陣を飾りました。
以来、秀吉の下で武功を重ね、同年6月に発生した本能寺の変で信長が横死を遂げると、秀勝は秀吉と共に中国大返しを決行します。そして信長を討った謀叛人・明智光秀を山崎の合戦で撃破すると、信長の後継者候補として、注目されるようになったのです。
しかし秀吉は既に自分の子となった秀勝ではなく、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)を推しました。これにより、神戸信孝(信長の三男)を推していた柴田勝家との対立が激化。そこで秀吉は勝家を信用(油断?)させるため、秀勝を人質として差し出しています。もはや信長の遺児ではなく、完全に自分の子扱いです。もちろん用が済んだら無事に返還されたのですが、秀勝とすれば気が気でなかったことでしょう。
それからようやく信長の葬儀を執り行いますが、秀吉が主宰ということで、北畠信雄(信長の次男)も神戸信孝もボイコットします。そこで秀吉は「亡き信長様の四男」ということで、秀勝を引っ張り出して参列させました。こういう時だけ織田の血統を利用する秀吉の態度に、心中穏やかではなかったのではないでしょうか。
とはいえ、秀吉の後継者には違いないため、養父に従うよりありません。その後も賤ヶ岳の合戦(天正11・1583年)や小牧長久手の合戦(天正12・1584年)にも参加しました。
しかしこのころから体調を崩していたようで、天正13年(1585)に丹波亀山城(京都府亀岡市)で世を去ってしまったのです。
三人目の羽柴秀勝(小吉)
【永禄12年(1569)生~天正20年(1592)9月9日没(享年24歳)】秀吉の姉とも(日秀尼)と三好吉房(よしふさ)の次男、つまり秀吉から見れば甥で、幼名は「小吉」と言いました。
二人目の秀勝(於次丸)が病死した直後ごろに秀吉の養子となり、二人目の秀勝が領していた丹波亀山城や左近衛権少将の官職を受け継ぎます。そこで人々から「丹波少将」と呼ばれ、史料上でしばしば両者は混同されてきました。紛らわしいですね。
しかし二人目の秀勝とは異なり、秀吉の後継者としては見られていませんでした。後に実兄の羽柴秀次が秀吉の養子となったためです。やがて浅井長政とお市の方の三女・江姫を正室に迎え、一人娘の羽柴完子(さだこ。豊臣完子)をさずかります。
天正15年(1587)の九州征伐や天正18年(1590)の小田原征伐で武功を立て、その恩賞として甲斐国(山梨県)を与えられます。しかし実母のともが秀吉に対して「甲斐は遠すぎて可哀想だから、もっと近くの国にして欲しい」と要求。何だか現代のモンスターペアレントみたいですね。仕方なく秀吉は、秀勝を甲斐から美濃の岐阜へ転封。「これでいいだろ?」と言ったとか言わないとか。
かくして天下一統を成し遂げた秀吉は、その野望を唐天竺(中国大陸・インド)にまで押し広げ、文禄元年(1592)に朝鮮征伐の兵を起こしました(文禄の役)。
ここでも秀勝は兵を率いて海を渡り、巨済島(コジェ。韓国釜山広域市)に前線基地を構築する任務に励みます。 しかし9月に入って急病を発し、そのまま24歳の若さで世を去ってしまったのでした。
三人の羽柴秀勝まとめ
一人目(石松丸)……秀吉と側室の実子。7歳ごろ早逝。二人目(於次丸)……信長の四男を養子に。散々利用された末に、18歳で夭折。
三人目(小吉)……秀吉の甥。活躍するも朝鮮征伐時に24歳で陣没。
今回は豊臣秀吉の子である三人の羽柴秀勝について、それぞれ紹介してまいりました。結局、秀吉は自分の血を引いた拾丸(茶々との子。後の豊臣秀頼)に後を継がせたい一心で養子秀次を切腹に追い込んだのは周知のとおりです。まったく、生母のともにしてみれば憤懣やる方なかったことでしょう。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、三人目の小吉のみ登場していますね!この後、三人の秀勝はどのように描いていくのか、今後の脚本に注目したいと思います。
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