織田信長は征夷大将軍になるつもりだったのか?「三職推任問題」の真相を探る
- 2026/05/01
渡邊大門
:歴史学者
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天正10年(1582)3月、朝廷は織田信長に対し、関白・太政大臣・将軍という「三職」のいずれかを与えると申し出た。これは戦国史上でも極めて異例の出来事である。
しかし、その回答を信長が示すことはなかった。同年6月2日、本能寺の変によって信長は突如として世を去ったからである。
では信長は、この三職のうちどれを選ぼうとしていたのか。あるいは、そもそも受ける意思はなかったのだろうか。本稿では、この「三職推任問題」の実像に迫ってみたい。
しかし、その回答を信長が示すことはなかった。同年6月2日、本能寺の変によって信長は突如として世を去ったからである。
では信長は、この三職のうちどれを選ぼうとしていたのか。あるいは、そもそも受ける意思はなかったのだろうか。本稿では、この「三職推任問題」の実像に迫ってみたい。
三職推任とは何だったのか
天正10年(1582)4月25日、朝廷は信長に対し、関白・太政大臣・将軍のいずれかに推任しようと申し出た(『天正十年夏記』)。公家・武家双方の最高職を並べて提示するというのは、極めて異例である。この事実だけでも、当時の信長の存在感の大きさがうかがえる。
この任官を強く勧めたのは、正親町天皇の皇太子であった誠仁親王である。誠仁親王は「どのような官にも任じることができる」ことを信長に伝えている(「畠山記念館所蔵文書」)。ちなみに、信長と誠仁親王の関係は極めて良好であったことが知られている。
一方で、この三職推任は、実は信長側が強制したものではないかという説も存在する。これは『天正十年夏記』に見られる「被(らる)」の用法を根拠にした議論であり、三職推任を持ち出したのは朝廷ではなく、信長家臣の村井貞勝だったとする見解である。
しかし、その後の研究によって、この解釈には疑問が呈されたが、その後も引き続き検討されている状況だ。では最大の問題は何か。それは、信長が三つのうちどの官職を望んでいたのか、という点である。
提示された三職の現実性と制度的背景
将軍職は現実的だったのか
まず注目されるのは将軍職である。当時、足利義昭は信長と対立しながらも、形式上は依然として将軍の地位にあった。したがって、信長を将軍に任じるためには、まず義昭を解官する必要があった。この手続きは、決して容易ではない。しかし、それにもかかわらず将軍職が提示されたということは、朝廷側に一定の準備があった可能性を示している。
もっとも、信長自身は朝廷と一定の距離を保つ姿勢を取っていた。したがって、将軍職を積極的に望んでいたとは考えにくいという見方もある。
太政大臣と関白――本当に可能だったのか
では太政大臣はどうだろうか。天正10年5月、近衛前久が太政大臣を辞していることが確認できる(『公卿補任』)。この事実を、信長が太政大臣に任官することを想定しての措置だったとする見方もある。しかし、これを裏付ける確実な史料は乏しい。辞任は、単なる偶然であった可能性も否定できない。
一方、関白については事情が異なる。関白はこれまで五摂家にのみ許された職であり、信長のような武家が就任することは、当時の制度上、極めて困難だったと考えられる。のちに豊臣秀吉が関白に就任するが、そこには特殊な事情があった。
朝廷の本音と「将軍」推任の根拠
朝廷の本音は「将軍」だった
三職推任問題の鍵を握る史料が、勧修寺晴豊の手になる『天正十年夏記』の記述である。信長方との交渉に臨んだ晴豊は、「関東討ちはたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし」
と記している。
この時点で信長は、甲斐の武田勝頼を天目山で滅ぼしていた。つまり、東国の大勢力を討ち果たした功績により、「将軍に任じるのが妥当である」と判断されたのである。武家の棟梁としての象徴である将軍職は、確かに信長に最もふさわしい地位であった。
実際、信長自身も「天下を平定した暁には官位を受けてもよい」と語ったとされる。これは鎌倉幕府を開き、征夷大将軍となった源頼朝の先例を意識したものだった可能性が高いと指摘されている。
以上の経過から見て、朝廷が最終的に想定していたのは、征夷大将軍職だったと考えられている。
信長は本当に官職を望んでいたのか
その後、信長は正親町天皇と誠仁親王に返書を送っている。また勧修寺晴豊も、村井貞勝の邸宅を訪れて信長の返答を確認している。しかし残念ながら、その内容は今日まで伝わっていない。信長が三つの官職の中からどれを選ぼうとしたのか、あるいは三つとも拒否したのか――この点はいまだに不明のままである。
ただし注目すべき点がある。信長は朝廷への奉仕を怠らなかったが、その目的は高い官職を得ることではなかった可能性が高い。むしろ、奉仕を受けた朝廷の側が、信長に配慮して官職を与えようとしていたことが明白である。
さらに信長は、太政大臣や関白に就任しても、それが全国支配の裏付けにはならないことを熟知していたと考えられる。各地を逃亡した足利義昭の姿を見れば、将軍職でさえ決定的な権威とはならないことは明らかだった。
三職すべて拒否するつもりだった可能性
以上を踏まえると、一つの可能性が浮かび上がる。それは、信長が三職のいずれも受けるつもりがなかったという見方である。実際、その後の朝廷において信長の補任が進められた形跡は見られない。この点を考慮すると、信長が官職を辞退した可能性は決して低くない。
信長の天下統一は、単なる私利私欲のためではなく、「天下のため」という大義名分を掲げたものであった。そのためには、天皇の権威を最大限に尊重しつつ、自らの権力と直接結び付けないことが重要だったとも考えられる。
信長にとって官職とは、権力そのものではなかった。たとえ武家の棟梁の象徴である将軍職であっても、それは決定的な意味を持つものではなかったのである。

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