「榎本武揚のシベリア横断」インフラ未完成でもなぜ進めた?榎本を支えた人脈のライフライン

  • 2026/05/26
榎本武揚の肖像(『榎本武揚等名刺版写真』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
榎本武揚の肖像(『榎本武揚等名刺版写真』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 榎本武揚は明治11年(1878)、かつて旧幕府軍のリーダーとして新政府と戦った「箱館戦争」に敗れてから、ほんの数年後に新政府の公使として赴いたロシアから帰国する。しかも帰路に、あえて楽な海路ではなく困難を伴うシベリア横断を選んで。

 シベリア横断と聞くと、大陸を貫く鉄道を思い浮かべる方も多いだろう。だが19世紀当時、鉄道は途中で途切れており、その先は船や馬車を乗り継ぐしかない道のりであった。それでも榎本の横断は一度も滞らなかった。

 なぜ、未完成のインフラでも横断が成立したのか。その答えを辿ると、鉄道以前のシベリアに存在していた、もうひとつの「道」の姿が見えてくる。

鉄道の「境界」

 ロシア側に入ってしばらくは、移動は快適であった。当時すでにサンクトペテルブルクからモスクワ、さらにモスクワの東に位置する商業都市ニジニ・ノヴゴロドまでは鉄道が通っており、近代的な移動が可能だったからだ。 しかしニジニ・ノヴゴロドを過ぎると、状況は変わる。ここが明治11年(1878)当時の鉄道の終点であった。シベリアはまだ未整備のままで、道路と呼べるものも断続的にしか存在しない。

 榎本の記録にも、この境界前後から移動の質が変化する様子が読み取れる。タランタスという幌付き四輪馬車を借り、汽船でひたすら川を下る。現代で言えば、新幹線が突然終点になり、そこからはバスと船で目的地を目指すようなものだ。快適さの落差が、そのまま旅の記述の密度に現れている。

分断された移動

 ニジニ・ノヴゴロドから先、榎本は鉄道に乗り続けることが不可能になる。ここからの移動は、船・馬車・部分的な鉄道の組み合わせとなる。

 重要なのは、これが「不便な旅」だったという話ではなく、「一本の繋がったルートが存在しなかった」という構造の問題だという点だ。

 鉄道は区間ごとにしか動いておらず、河川は季節と流域によって使えたり使えなかったりする。馬車も地域の状況次第で手配できるかどうかが変わった。

 乗り継ぎの「接続」が保証されていない状態での横断になってしまうのだ。それでも榎本の移動は停滞することがなかった。分断された手段をその場でつなげられたのは、ロシア政府の全面的な支援があったからである。

未来と重なるルート

 エカテリンブルク、西シベリアの玄関口チュメニ、イルクーツク……榎本が経由した地点は、現在のシベリア鉄道が通る都市とおおむね重なっている。細部のルートに異なる箇所はあるものの、大筋は同じ方向を向いている。

 この一致が意味を持つのは、この旅が単なる帰路ではなかったからだ。榎本はシベリアの地質や砂金採取の技術に強い関心を持ち、北海道開拓事業への応用を念頭に置いていた。風景の写真記録を求めていたのも、探検的な好奇心というより調査者の眼差しに近い。観光ではなく、視察に近い旅だったと考えるべきではないだろうか。 ルートが後の鉄道とほぼ重なるのは、地形の制約から導かれる必然でもある。しかし同時に、榎本が実地で確かめた「通れる経路」でもあった。鉄道が敷かれる30年近く前に、ほぼ同じ道を通っていたというのは、やはり少し驚かされる。線がまだ存在しない時代に、後の線とほぼ重なる道を、意図を持って歩いていたのだ。

南京虫の発生と環境の断絶

 旅の記録には、南京虫の記述が出てくる。注目すべきはその場所だ。

 鉄道が繋がっているニジニ・ノヴゴロドより西の区間では、この種の記述はほとんど見当たらない。汽船や馬車を使う地域に入ってから、宿に南京虫がいるという状況が現れてくる。 これは単なる衛生の問題ではない。インフラが整備されていれば、宿泊施設の質もある程度維持される。鉄道が通り、人の往来が安定していれば、沿線の施設も整うからだ。南京虫の有無が、そのままインフラの有無と対応していると言えるのではないだろうか。

 移動手段の断絶は、寝床の質にも現れていた。記録の中のささいな一行が、当時のシベリアの実態を案外はっきりと映し出している。

人がつなぐ経路

 鉄道のない区間でも、榎本は迷うことなく動いている。コースを外れることも、宿に困ることも一度としてなかった。それを支えていたのは、特命全権公使という立場である。

 各地で警官による警護がつき、軍人や役人が出迎える。酒を共にし、名刺を交わすうちに、次の移動手段が整えられていく。いわばVIP接待付きの出張に近いイメージだ。個人の才覚で切り抜けたのではなく、公使という地位が各地の人的ネットワークを動かしていた。

 インフラとしての「道」は存在しなかったが、人と人をつなぐ経路は存在していた。シベリアを横断する「道」はこの時代、まだ鉄でできていない。地位と人によって維持されていたのである。

おわりに

 現在の地図を見ながら『シベリア日記』を読むと、後に完成するシベリア鉄道とほぼ同じルートを、未完成のまま榎本が通過していることに気づく。一本の道としては成立していなかったが、乗り物を乗り継げばサンクトペテルブルクからウラジオストクまで横断できたのだ。

 榎本は探検家でも冒険者でもなく、賓客として警護されながら調査の目的を持ってシベリアを横断した。その成果は生前には公開されなかったが、『シベリア日記』に記された人々のリレーのような手配を見ると、一本の鉄道が完成する以前から、その経路はすでに機能していたことが分かる。

 かつて北の大地で理想の国を築こうとし、敗れた男が、今度はロシアという大国のシステムを利用して日本の未来を切り拓こうとしていた。大きな挫折を経てもなお、彼の志が折れた様子は、少なくとも『シベリア日記』からは見えてこない。榎本という人物の底の見えなさが、このシベリアの記録にも滲んでいる。

『西伯利亜日記』に描かれたシベリアと日本の地図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『西伯利亜日記』に描かれたシベリアと日本の地図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 しかしニジニ・ノヴゴロドを過ぎると、状況は変わる。ここが明治11年(1878)当時の鉄道の終点であった。シベリアはまだ未整備のままで、道路と呼べるものも断続的にしか存在しない。

 榎本の記録にも、この境界前後から移動の質が変化する様子が読み取れる。タランタスという幌付き四輪馬車を借り、汽船でひたすら川を下る。現代で言えば、新幹線が突然終点になり、そこからはバスと船で目的地を目指すようなものだ。快適さの落差が、そのまま旅の記述の密度に現れている。

分断された移動

 ニジニ・ノヴゴロドから先、榎本は鉄道に乗り続けることが不可能になる。ここからの移動は、船・馬車・部分的な鉄道の組み合わせとなる。

 重要なのは、これが「不便な旅」だったという話ではなく、「一本の繋がったルートが存在しなかった」という構造の問題だという点だ。

 鉄道は区間ごとにしか動いておらず、河川は季節と流域によって使えたり使えなかったりする。馬車も地域の状況次第で手配できるかどうかが変わった。

 乗り継ぎの「接続」が保証されていない状態での横断になってしまうのだ。それでも榎本の移動は停滞することがなかった。分断された手段をその場でつなげられたのは、ロシア政府の全面的な支援があったからである。

未来と重なるルート

 エカテリンブルク、西シベリアの玄関口チュメニ、イルクーツク……榎本が経由した地点は、現在のシベリア鉄道が通る都市とおおむね重なっている。細部のルートに異なる箇所はあるものの、大筋は同じ方向を向いている。

 この一致が意味を持つのは、この旅が単なる帰路ではなかったからだ。榎本はシベリアの地質や砂金採取の技術に強い関心を持ち、北海道開拓事業への応用を念頭に置いていた。風景の写真記録を求めていたのも、探検的な好奇心というより調査者の眼差しに近い。観光ではなく、視察に近い旅だったと考えるべきではないだろうか。

1878年の榎本武揚のシベリア旅程図(『榎本武揚 シベリア日記』を元に作成)
1878年の榎本武揚のシベリア旅程図(『榎本武揚 シベリア日記』を元に作成)

 ルートが後の鉄道とほぼ重なるのは、地形の制約から導かれる必然でもある。しかし同時に、榎本が実地で確かめた「通れる経路」でもあった。鉄道が敷かれる30年近く前に、ほぼ同じ道を通っていたというのは、やはり少し驚かされる。線がまだ存在しない時代に、後の線とほぼ重なる道を、意図を持って歩いていたのだ。

南京虫の発生と環境の断絶

 旅の記録には、南京虫の記述が出てくる。注目すべきはその場所だ。

 鉄道が繋がっているニジニ・ノヴゴロドより西の区間では、この種の記述はほとんど見当たらない。汽船や馬車を使う地域に入ってから、宿に南京虫がいるという状況が現れてくる。

 これは単なる衛生の問題ではない。インフラが整備されていれば、宿泊施設の質もある程度維持される。鉄道が通り、人の往来が安定していれば、沿線の施設も整うからだ。南京虫の有無が、そのままインフラの有無と対応していると言えるのではないだろうか。

 移動手段の断絶は、寝床の質にも現れていた。記録の中のささいな一行が、当時のシベリアの実態を案外はっきりと映し出している。

人がつなぐ経路

 鉄道のない区間でも、榎本は迷うことなく動いている。コースを外れることも、宿に困ることも一度としてなかった。それを支えていたのは、特命全権公使という立場である。

 各地で警官による警護がつき、軍人や役人が出迎える。酒を共にし、名刺を交わすうちに、次の移動手段が整えられていく。いわばVIP接待付きの出張に近いイメージだ。個人の才覚で切り抜けたのではなく、公使という地位が各地の人的ネットワークを動かしていた。

 インフラとしての「道」は存在しなかったが、人と人をつなぐ経路は存在していた。シベリアを横断する「道」はこの時代、まだ鉄でできていない。地位と人によって維持されていたのである。

当時のウラジオストク市街(『西伯利亜日記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
当時のウラジオストク市街(『西伯利亜日記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

おわりに

 現在の地図を見ながら『シベリア日記』を読むと、後に完成するシベリア鉄道とほぼ同じルートを、未完成のまま榎本が通過していることに気づく。一本の道としては成立していなかったが、乗り物を乗り継げばサンクトペテルブルクからウラジオストクまで横断できたのだ。

 榎本は探検家でも冒険者でもなく、賓客として警護されながら調査の目的を持ってシベリアを横断した。その成果は生前には公開されなかったが、『シベリア日記』に記された人々のリレーのような手配を見ると、一本の鉄道が完成する以前から、その経路はすでに機能していたことが分かる。

 かつて北の大地で理想の国を築こうとし、敗れた男が、今度はロシアという大国のシステムを利用して日本の未来を切り拓こうとしていた。大きな挫折を経てもなお、彼の志が折れた様子は、少なくとも『シベリア日記』からは見えてこない。榎本という人物の底の見えなさが、このシベリアの記録にも滲んでいる。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
考古学専攻出身、発掘調査経験あり。司書と学芸員資格持ち。埋蔵文化財センターで少々働いておりました。 専門分野は古墳時代中期。東国の古墳時代中期の土師器とカマドの出現状況から大和政権の勢力圏を見出そうとしたり、万葉集や延喜式の記載から当時の民衆の生活を復元しようとしたりともがいています。 遺跡や文 ...

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