箱館戦争前夜、幕府海軍・榎本艦隊逃走の顛末とは

復元された開陽丸(北海道江差町)
復元された開陽丸(北海道江差町)
 明治元年(1868)夏、5月に成立したばかりの奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、明治新政府の揺さぶりの前にすでに瓦解寸前。残るは藩祖・保科正之の遺訓を守り、幕府に忠誠を尽くす会津藩のみ。その会津藩も新政府軍の猛攻の前に敗北は目の前です。そんな最中、仙台松島沖に姿を現したのは、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚(えのもと たけあき)が率いる旗艦「開陽丸(かいようまる)」を先頭とする艦隊でした。

西郷と山岡の会談

 明治元年(1868)2月15日、東征大総督に任ぜられた有栖川宮熾仁親王率いる新政府軍は、錦の御旗を押し立て、江戸へ向かって京都を出達します。

 3月9日、徳川慶喜が派遣した山岡鉄太郎が静岡で、東征大総督府参謀として行軍中の西郷隆盛との会談に漕ぎつけました。西郷から山岡へ示された新政府の徳川家降伏条件は次の通りです。

  • 1.江戸城の無条件明け渡し
  • 1.城中の兵士の向島への退去
  • 1.すべての兵器を引き渡す事
  • 1.すべての軍艦を引き渡す事
  • 1.徳川慶喜は岡山藩お預けとする事

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(静岡県静岡市葵区御幸町)
西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(静岡県静岡市葵区御幸町)

 山岡は慶喜お預け以外のすべての条件を受け入れ、事態は戦争回避へ向かいます。ところがこの「すべての軍艦を引き渡す事」に同意しなかったのが、幕府海軍副総裁の榎本です。

 当時、恭順か徹底抗戦か、海軍内の対立に悩んだ海軍総裁・矢田堀鴻(やたぼりこう)は姿をくらましてしまい、自然と副総裁である榎本が旧幕府海軍をまとめる立場になりました。このころから本来の指揮命令系統は機能しなくなり、榎本の意思が優先される “榎本艦隊” に変わって行きます。

※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き
※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き

榎本、新政府の艦船引き渡し要求に応ぜず

 新政府は4月11日の江戸城開城に続いて、旧幕府側に降伏条件の1つである旧幕府艦隊の引き渡しを要求しますが、海軍副総裁の榎本はこれを拒否。悪天候を理由に艦隊8隻を品川沖から安房国館山に移動し、新政府側の出方を見守ります。

 徳川家軍事取扱の勝海舟は、海軍内での立場は榎本より上でした。しかし海軍将兵は、咸臨丸米国派遣航海での失態などで海軍内では人望の無い勝よりも榎本の指揮に従ったようです。

 勝の説得により、4月17日に一旦品川沖へ戻った榎本は、28日に「観光」「富士山」「翔鶴」「朝陽」の4隻を新政府軍へ引き渡します。この時点で榎本の手元には、国内最強の軍艦「開陽」をはじめ、「回天」「蟠龍」「黒龍」や初の国産蒸気砲艦「千代田形」、蒸気運送船や洋式帆船を加えると、20隻が残されていました。榎本はその後の艦船引き渡し要求には応じていません。しかし、榎本が要求を突っぱねている間にも状況は刻々と変わって行きます。

 5月24日には徳川家への処分が決定し、御三家である田安家の徳川亀之助(のちの徳川家達)6歳が、駿河を中心に70万石を与えられ、新たに駿河府中藩(のちに静岡藩と改名)を立藩しました。亀之助は十四代将軍・徳川家茂が死に臨んで後継者に指名した少年です。

 十五代将軍・徳川慶喜が政権を返上した後、徳川家の所領はこの70万石だけです。これではとても旧幕臣に禄は与えられません。

箱館戦争前の榎本武揚の肖像(出典:<a href="https://www.ndl.go.jp/portrait/">近代日本人の肖像</a>)
箱館戦争前の榎本武揚の肖像(出典:近代日本人の肖像

榎本、蝦夷共和国の元ネタ構想をぶち上げる

 ここで榎本が蝦夷共和国の元ネタとも言うべき構想をぶち上げます。

「我が軍艦で旧幕臣の希望者を蝦夷の地へ運びそこを開拓しよう。禄を失った彼らの窮状を救い、元侍であれば北方の守りにもなる」

 良い大義名分を見つけた榎本。陸軍では新式火器を装備した新政府軍に勝てない旧幕府軍ですが、逆に海軍力では圧倒していました。その虎の子の軍艦をこのままではみすみす新政府に引き渡さねばなりません。榎本は決断します。

 8月9日、榎本は徳川家達が駿府に向けて江戸を出立したのを見届けると、19日には抗戦派の旧幕臣ら総勢2000人余りを乗せ、開陽丸を始めとする旧幕府海軍の8隻の軍艦を率いて江戸を脱出します。榎本は奥羽越列藩同盟がまだ機能していると思っており、その支援のために同盟の盟主である仙台藩を目指しました。

 また、この8隻の他、物資輸送船として「順動丸」を越後方面へ、庄内藩を支援するための「長崎丸二番」を出羽方面へ差し向けます。すでに蒸気運送船「太江丸」と帆走運送船「鳳凰丸」は仙台藩へ貸し出されており、榎本は多数の艦船を指揮下に収めていました。

無駄に減って行く戦力

 しかし仙台を目指す途上は平穏なものではありませんでした。品川沖を発した直後の銚子沖で猛烈な暴風雨に襲われて艦隊は四散、それぞれが別個に仙台を目指すことになります。

猛烈な暴風雨にさらされる榎本艦隊(『西郷隆盛詳伝 : 絵入通俗』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
猛烈な暴風雨にさらされる榎本艦隊(『西郷隆盛詳伝 : 絵入通俗』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 開陽に曳航されていた「美加保丸」は曳航索を断たれ、マストも折られ、銚子の黒生(くろはま)海岸に吹き寄せられて座礁沈没します。回天に曳航されていた「咸臨丸」は、回天との衝突を避けるために曳航索を切断。下田港まで流されますが、その後は河津港に避難していた蟠龍に曳航されて清水港へ移動します。

 就航からすでに11年、米国派遣など幾度もの航海を経ていた咸臨丸は、老朽化が進んでおり、修理も長引きます。手間取っているうちに新政府軍の軍艦3隻が清水港へ入港、身動きの取れない咸臨丸に襲い掛かり、艦内に残っていた船員を惨殺します。他にも順動丸や長崎丸二番など、貴重な戦力を失いながらも、榎本艦隊は8月下旬には次々に仙台に到着しました。

北の大地へ

 ところがようやくたどり着いた奥州では、すでに列藩同盟は瓦解寸前、9月15日には同盟の盟主である仙台藩も新政府に膝をつき、残るは会津藩のみです。その会津藩も旧幕臣や藩士の奮闘もむなしく、会津盆地への新政府軍の侵入を許してしまいました。

「今はこれまで」

 10月12日、榎本率いる艦隊は旗艦開陽丸を先頭に、宮城県石巻南東の折ノ浜(おりのはま)を出航します。

 乗船するのは、伝習隊を率いて旧幕臣をまとめる中心人物として戦って来た大鳥圭介、幕府陸軍で歩兵差図役頭取を務めた古屋佐久左衛門(さくざえもん)、新選組副長・土方歳三とその隊士、彼らが率いる伝習隊、衝鋒隊(しょうほうたい)、遊撃隊、彰義隊など幕末庶隊の生き残り。そして仙台藩の洋式部隊額兵隊(がくへいたい)など、旧幕臣・列藩同盟の残兵たち。

 さらには元老中首座の板倉勝静(かつきよ)、老中・小笠原長行(ながみち)、京都所司代を務めた松平定敬(さだあき)ら大名と、初代幕府軍艦奉行の永井尚志(なおゆき)らの高級官僚も榎本艦隊に身を投じました。

 2500名と艦船の乗組員500名の計3000名。目指すは彼らが最後の望みをかけた蝦夷の地、北の大地です。

おわりに

 榎本がぶち上げた「旧幕臣を蝦夷地の屯田兵に」を大義名分にして、明治新政府軍に追い詰められた旧幕府軍が最後の望みをかけた北海道。しかし艦隊は途中岩手県の宮古湾で燃料にする薪を補給しています。すでに大切な燃料である石炭を入手する手段を失っていたのです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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