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  • 長宗我部元親
 2017/11/19

「津野親忠」元親三男。家督相続問題に端を発した運命とは?

土佐国の戦国大名から、四国統一の偉業を果たした長宗我部元親ですが、元親死後の長宗我部氏は没落の道を歩みます。そこには「豊臣秀吉」や「徳川家康」が関わっていました。

その没落過程の中で、元親の三男「津野親忠」は元親の後継者争いに巻き込まれます。久武親直による讒言から実父に疎まれ、挙句の果てに幽閉されると、まもなく訪れた最期はあまりにも不憫なものでした。
(文=ろひもと 理穂)

土佐国の豪族、津野氏を継ぐ

元親の三男として誕生

津野親忠は、元親の三男として、元亀3年(1572年)に誕生しています。兄として嫡男には、長宗我部親信、二男には香川氏の当主となる香川親和がいます。3年後には、弟になる四男・長宗我部盛親も生まれています。

この時期、元親はまだ土佐国統一の過程にいました。土佐国には「土佐七雄」という豪族が勢力拡大のために互いにしのぎを削っていたのです。さらにその上には土佐国の国司である一条氏も君臨しています。

親忠が生まれる前年に元親は土佐国高岡郡の豪族・津野氏を降しており、この勢力を吸収すべく、津野氏当主である津野勝興の嗣養子として親忠を送り込んだのです。

津野氏の当主となる

親忠が津野氏当主となり、土佐国で勢力を拡大した元親は、天正3年(1575年)、かつての主君である一条氏を倒し、土佐国を統一しました。

さらに元親は四国の阿波国、伊予国、讃岐国にも侵攻し、四国統一を目指していきます。しかしこれまで同盟関係にあった中央の織田信長と敵対することになり、武力衝突が回避できない状態になりました。これが天正10年(1582年)のことで、親忠はまだ幼く、初陣も果たしていない状態だったことでしょう。

ただし、信長との衝突は、突然発生した本能寺の変によって免れることができました。中央の混乱に乗じて元親は四国制圧を進め、天正13年(1585年)に四国を統一します。

秀吉に降伏後、家督争いへ

臣従の証として人質に出される

元親は中央の混乱がもっと続くと予想していたでしょうが、予想に反してあっという間に秀吉が中央を制圧します。そして四国に大軍を差し向けてきたのです。ここで親忠が初陣を果たしたのかは定かではありませんが、長宗我部側は敗北し、元親は秀吉に降伏します。

この時、親忠が臣従の証として、人質として秀吉のもとに送られています。親忠は14歳でした。秀吉の四国征伐では藤堂高虎が活躍し、1万石の大名に出世していますが、親忠は人質時代にこの高虎と親交を深めたようです。

また慶長2年(1597年)の慶長の役では、元親と高虎の軍勢は同じ六番隊に配置されており、ここで親忠は武功をあげています。それを高虎に高く評価されたのかもしれません。親忠と高虎の結びつきが強かったのは間違いなかったようです。

元親の嫡男である信親は、天正14年(1586年)の九州征伐の際に討ち死にしており、後継者には元親は四男である盛親を指名していました。盛親は人望が薄かったために家臣たちからは反対する者もいたようです。親忠はそのまま新当主である盛親に従っています。

重臣である久武親直の讒言もあり、反対派は一門衆であろうとも元親によって粛清されていきました。家督を盛親に譲った後も元親は実権を握っていましたが、猜疑の目はやがて親忠にも向けられることになっていきます。

久武親直の讒言によって幽閉される

親忠が香美郡岩村に幽閉されることになったのは、元親が病没する慶長4年(1599年)のことです。元親の死後、親忠が謀叛を起こすことを警戒したためとも、朝鮮出兵時に武功をあげたにもかかわらず当主になれないことを不満に思っていると久武親直に讒言されたためとも伝わっています。

父から疑われていることを敏感に感じ取った親忠は、土佐国を捨て、京都に出奔しようとしたことが発覚し、幽閉されたという説もあります。

そして翌年の慶長5年(1600年)には、天下分け目の戦となる「関ケ原の戦い」が起こりますが、長宗我部氏は西軍に味方をし、敗北しています。

実は事前に親忠が、高虎を通じて家康から長宗我部氏存続の許可を得ていたようです。しかし、またも親直の讒言で、親忠が高虎と共謀して土佐国の半分を奪おうとしていると盛親に伝えたために、盛親は幽閉していた親忠を殺害してしまいます。

一説には、盛親の指示を無視して親直が独断で処刑し、盛親の指示だったと口実をつけたとも言われています。享年29でした。

まとめ

関ヶ原の敗戦後、盛親は井伊直政に仲介役をしてもらい、家康に謝罪したものの、この「兄殺し」を知った家康が許さず、長宗我部氏は改易となりました。

改易後は盛親は大坂城に入城し、五人衆として指揮を執り、夏の陣で高虎と激戦を演じ大きな損害を与えました。そして豊臣氏と共に滅んでいったのです。

もしも盛親が親直の讒言を信じずに、親忠を起用していれば、長宗我部氏は関ヶ原の戦い後も本領を安堵され、土佐藩藩主として長く家名を守ることができたかもしれません。




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