「津野親忠」一族の没落過程の渦に巻き込まれた長宗我部元親の三男。なぜ悲惨な最期となったのか?

津野親忠の墓所・津野神社 (高知県香南市)
津野親忠の墓所・津野神社 (高知県香南市)
 土佐国の戦国大名から、四国統一の偉業を果たした長宗我部元親ですが、元親死後の長宗我部氏は没落の道を歩みます。そこには「豊臣秀吉」や「徳川家康」が関わっていました。

 その没落過程の中で、元親の三男「津野親忠(つの ちかただ)」は元親の後継者争いに巻き込まれてしまいます。久武親直による讒言から実父に疎まれ、挙句の果てに幽閉されると、まもなく訪れた最期はあまりにも不憫なものでした。

土佐国の豪族、津野氏を継ぐ

元親の三男として誕生

 津野親忠は、元親の三男として、元亀3年(1572)に誕生しました。兄に、元親嫡男の長宗我部親信、二男に香川氏の当主となる香川親和がいます。そして3年後には、弟になる四男・長宗我部盛親も生まれています。


 この頃の元親は、まだ土佐国統一の過程にいました。土佐国には「土佐七雄」という豪族が勢力拡大のために互いにしのぎを削っていたのです。さらにその上には土佐国の国司である一条氏も君臨しています。

 親忠が生まれる前年に元親は土佐国高岡郡の豪族・津野氏を降しており、この勢力を吸収すべく、津野氏当主である津野勝興の嗣養子として親忠を送り込んだのです。

津野氏の当主となる

 親忠が津野氏当主となり、土佐国で勢力を拡大した元親は、天正3年(1575)、かつての主君である一条氏を倒し、土佐国を統一しました。

 さらに元親は四国の阿波国、伊予国、讃岐国にも侵攻し、四国統一を目指していきます。しかしこれまで同盟関係にあった中央の織田信長と敵対することになり、武力衝突が回避できない状態になりました。これが天正10年(1582)のことで、親忠はまだ幼く、初陣も果たしていない状態だったことでしょう。

 ただし、信長との衝突は、突然発生した本能寺の変によって免れることができました。中央の混乱に乗じて元親は四国制圧を進め、天正13年(1585)に四国をほぼ統一したようです。

秀吉の人質となる一方、家中でお家騒動も勃発!

 元親は中央の混乱がもっと続くと予想していたでしょうが、予想に反してあっという間に秀吉が中央を制圧。そして四国に大軍を差し向けてきます。いわゆる、秀吉による四国征伐(1585)です。

秀吉の大軍は三方向から四国攻めを行なった
秀吉の大軍は三方向から四国攻めを行なった

 ここで親忠が初陣を果たしたのかは定かではありませんが、元親は秀吉軍になすすべなく、降伏を余儀なくされました。この時、親忠が臣従の証として、人質として秀吉のもとに送られています。親忠はまだ14歳でした。

 やがて長宗我部家内部ではお家騒動が勃発します。兄で嫡男の信親が、天正14年(1586)の九州征伐(1586~87)の際に討ち死にしたことで、後継者問題が発生したからです。生まれ順でいえば、二男の香川親和となるのですが、元親はあろうことか、四男の盛親を指名したのです。

 しかし盛親は人望が薄かったため、家臣たちからは反対する者もいたようですね。重臣である久武親直の讒言もあり、反対派は一門衆であろうとも元親によって粛清されていきました。家督が盛親に移されたとはいえ、家中での実権はそのまま元親にあったようです。

 なお、余談ですが、人質時代の親忠は、四国征伐での活躍で1万石の大名に出世した藤堂高虎と親交を深めたようです。豊臣の世となった慶長の役(1597)のときには、元親と高虎の軍勢は同じ六番隊に配置されており、ここで親忠は武功をあげています。親忠と高虎の結びつきが強かったのは間違いなかったようです。

久武親直の讒言によって幽閉?

 嫡男信親の死が原因なのか、晩年の元親は、残酷なふるまいも見受けられています。後継者問題のもつれから、猜疑の目はやがて親忠にも向けられることに。慶長4年(1599)には元親により、親忠は香美郡岩村に幽閉されてしまうのです。

 幽閉の理由は諸説あって定かではありません。

 同年に元親は病没していますが、自分の死後に、親忠が謀叛を起こすことを警戒したため、といわれています。また、朝鮮出兵時に武功をあげたにもかかわらず、当主になれないことを不満に思っている、と久武親直に讒言されたためとも伝わっています。さらには、父から疑われていることを敏感に感じ取った親忠が、土佐国を捨てて、京都に出奔しようとしたことが発覚し、幽閉された、というような説もあります。

 翌慶長5年(1600)には、天下分け目の戦となる「関ケ原の戦い」が起こりますが、長宗我部氏は西軍に味方をし、敗北しています。

 実は事前に親忠が、高虎を通じて家康から長宗我部氏存続の許可を得ていたようです。しかし、またも親直の讒言で、親忠が高虎と共謀して土佐国の半分を奪おうとしていると盛親に伝えたために、盛親は幽閉していた親忠を殺害してしまうのです。

 一説には、盛親の指示を無視して親直が独断で処刑し、盛親の指示だったと口実をつけたとも言われています。享年29でした。

おわりに

 関ヶ原の敗戦後、盛親は井伊直政に仲介役をしてもらい、家康に謝罪したものの、この「兄殺し」を知った家康が許さず、長宗我部氏は改易となりました。

 改易後は盛親は大坂城に入城し、五人衆として指揮を執り、夏の陣で高虎と激戦を演じ大きな損害を与えました。そして豊臣氏と共に滅んでいったのです。

 もしも盛親が親直の讒言を信じずに、親忠を起用していれば、長宗我部氏は関ヶ原の戦い後も本領を安堵され、土佐藩藩主として長く家名を守ることができたかもしれません。


【主な参考文献】
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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