大うつけ呼ばわりの織田信長って一体どんな青年だったのか?
- 2022/09/16
若き日の信長が、「大うつけ」と呼ばれていたのは有名ですね。うつけとは、「まぬけ」や「バカ」といった意味。いやいやいや、信長はのちに天下統一まであと一歩というところまで行った男ですが…。
さてさて、青年・信長は本当に「大うつけ」だったのでしょうか。
「大うつけ」呼ばわりの青年信長
実際はともかく、「大うつけ」と噂されていたのも事実。それでは一体、信長のどこらへんがバカっぽく見えたのでしょう? その原因の一つは、彼の派手なファッションにあったようです。
派手な格好
アイキャッチ画像や上記イラストをご覧になって、どうでしょうか。バカに見えます? なんだかピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんね。ですが、そもそも湯帷子(ゆかたびら)とは、お風呂上りに羽織る着物のこと。現代で言うならば、袖なしのバスローブで外出しているようなものですよね。そんな人とは、お近づきにはなりたくないような……。
奇行
また、信長のヤバさはファッションだけではありませんでした。町中では、人目をはばからずに栗や柿、瓜などをかじりながら歩くという行儀の悪さ。ですが、これくらいのレベルなら、まだ理解できるのです。
なんでも当時の信長は、いつも人の肩にぶら下がって歩いていたそうで。もうこれは、行儀が悪いという次元ではなく、奇行なのでは?
繰り返しますけど、袖なしバスローブで武器を持った青年が、人にぶら下がってるんですよ? しかも親衛隊(こちらも朱色の武具を身に着けている)を引き連れて……。その姿を想像してみると、もはや恐怖すら感じるのは私だけでしょうか。
教育係・平手政秀の苦悩
こういった理由で、周囲から「大うつけ」と呼ばれるようになった青年・信長。自業自得とも言えますが、むしろ本人は気にも留めていなさそうですよね。
一方、この方はたまったもんじゃありません。信長の傅役(教育係)を務めていた平手政秀です。
政秀は、信長の父・織田信秀から厚い信頼を受けていた人物。天文16年(1547年)信長の初陣では、後見役も務めています。大切な織田家の嫡男ですから、一生懸命育てたはずです。にもかかわらず……。
翌天文17年(1548年)、織田信秀はしばらく争っていた美濃・斎藤道三と和睦をします。そしてその証として、信長と道三の娘・濃姫(帰蝶)との縁談話が持ち上がりました。この話をまとめ上げたのも、平手政秀だったのです。
政略結婚ではあるものの、いくら「大うつけ」の信長でも、結婚すればまっとうな人間になってくれるのでは? と、政秀は期待していたとする説もあるのだとか。ですが、信長の「大うつけ」っぷりは、結婚しても変わるものではありませんでした。政秀のため息が聞こえてきそうです。
父・信秀の死と平手政秀の切腹
さて、信長の「大うつけ」エピソードの最たるものと言えば、父親の葬儀ではないでしょうか。
「尾張の虎」と呼ばれた父・織田信秀は、天文21年(1552年)3月(没年については諸説あり)、疫病により末盛城で没します。そして葬儀には、国中から300名ほどの僧侶が集まり、盛大に執り行われることになりました。
仏前に抹香投げつけて帰る
焼香に立った、嫡男の信長。そのときの出で立ちは、長柄(ながつか)の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪型は例のごとく茶筅髷(ちゃせんまげ)。そして袴すら履いていないというものでした。
もう、この時点でアウトです。一方、弟の信行は折り目正しく肩衣・袴を着用するという、信長とは対照的な姿でした。信行がすごいというより、それが普通ですよね。
さらに信長は抹香をわしづかみにし、それを仏前に投げつけ、帰ってしまいます。周りは「あの大馬鹿者が」と口々に噂しましたが、とある旅僧一人だけ「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」と言ったのだとか(『信長公記』)。本当かよ、と言いたくなります。
なお、このときの信長の謎過ぎる行動については、
- 家中や他国勢力に、自分が後継者であることをアピールするために行なった。
- 神や仏に対して信仰心がないこと(否定すること)を、葬儀の場で示した。
- 信秀の死による家中の混乱の中、反乱分子をあぶりだすため、"うつけ"ぶりを演じた。
- 父の死を悲しみ、単に惜しむ気持ちが高ぶった。
といった見方があるようですが、いずれも定かではありません。
信長の素行が悪すぎたから死んだ!?
そして信秀の死から間もない、天文22年(1553年)閏1月13日。平手政秀もその後を追うかのように、切腹してその生涯を終えています。
政秀が切腹した理由には諸説ありますが、そのうちの一つに信長の素行が悪すぎたから、というものがあります(※)。自分の命を懸けて、信長をいさめようとしたのだとか。
何もそこまでしなくても……。ただし、こちらの説を裏付ける資料などはないので、信憑性に欠けるのだそう。とはいえ政秀には申し訳ないですが、話としては面白いですよね。
※他にも、信長との不和を原因とする説が有名。信長が、政秀の長男・五郎右衛門の馬を所望するも、拒否されたことがきっかけとされる。
本当に「大うつけ」だったのか?
以上、若い頃の信長はかなりヤバい人物だったことが、おわかりいただけたと思います。ですが日々、戦国武将としての努力を忘れなかったという面も持ち合わせていたのです。
戦国武将としての才覚
朝夕は馬術の稽古。3月~9月までは川で泳ぎの練習をしていたため、泳ぐのは得意だったようです。さらに弓・鉄砲・兵法についても、先生からしっかりと学んでいたのだとか。
また、槍の長さの有効性に気づき、槍の長さを三間(約5.5m)もしくは三間半(約6.4m)に揃えさせたといいます。ですが槍を長くすれば、その分重くなりますよね。そこで柄を細くて丈夫な木にして、槍の軽量化を図ったそうです。
さらに信長は16歳にして、鉄砲を500丁ほど調達しています。先見の明がすごいですね!
濃姫の刀
うーむ、信長は本当に「大うつけ」だったのでしょうか。少し話を戻しますが、信長との結婚が決まった濃姫には、こんなエピソードがあります。
結婚の直前、濃姫は父・斎藤道三から刀を渡されます。その際、「信長が本当にうつけだったら、この刀で殺せ」と言われた濃姫でしたが、「この刀は父上を殺す刀になるかもしれません」と答えたのだとか。
濃姫もなかなか気の強い女性だったのですね~、というのはさておき、信長は濃姫に殺されてませんからね(うつけだったとしても、本当に濃姫が刺殺したかはわかりませんが……)。
一般的にも、当時の信長はうつけを“演じていた”という見方をされることが多いようです。
まとめ
奇抜なファッションと行動から、「大うつけ」と評されていた若き日の信長。それは斎藤道三の娘・濃姫と結婚しても、変わりませんでした。
父・信秀の葬式でも非常識な行動に出て、周囲を騒がせてしまいます。傅役であった平手政秀にいたっては、信長の素行の悪さが原因で切腹をしたという説もあるほど。
一方で、信長は「大うつけ」を演じていたとする見方もあります。武将としての努力を怠らず、武器の改良なども行っていました。
とはいえ、当時の家臣たちにとって、新当主・織田信長は悩みの種でした。尾張に一大勢力を築いた信秀の死は、尾張国内に動揺と混乱の始まりをもたらしたのです。
【主な参考文献】
- 『超ビジュアル!歴史人物伝 織田信長』(西東社、2016年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 中日新聞Web「若き織田信長が「おおうつけ」とよばれたわけは?」
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