徳川家康に学ぶ、人の動かし方
- 2023/06/26
約250年という天下泰平の世の礎を築いた徳川家康はどのようにして江戸幕府という組織を創り出したのでしょうか。戦国時代、命の価値が今よりも低い中で、懸命に生きた家臣たちの何を見て、どこを評価していったのか。そして、組織を安定して運営していくうえで何を大切にしたのか。家康の育った環境や時代背景をもとに、家臣や他の大名とのエピソードなども含めながら紹介していきます。
組織と個人を動かすうえで家康が大切にしたものとは
徳川家と言えば家臣団の結束が固いことで有名で、家康は現在でも高い人気を誇っています。大手転職会社が調査した「上司にしたい戦国武将ランキング」でも信長に続いて2位、と上位にランクイン。要因として、部下を大切にしたことや、ついていきたいと思わせるカリスマ性がある、などが挙げられ、時代を問わず人の心を動かす人物です。この不動の人気を誇る家康は組織を形成し運営していく上で何を大切にしていたのか、童門冬二氏の『徳川家康の人間経営 人を動かし組織を生かす』を参考にみていきます。
大切にした「信頼」
家康が若い時からずっと積み上げてきたもの。──それは「信頼」。この「信頼」は幼い頃より今川家の人質時代に培われました。本年から放送されている大河ドラマ「どうする家康」では今川義元を父のように慕う家康が描かれていますが、実際のところどうだったのかは不明です。あくまでも人質という立場なので、厚遇はされていなかったと思われます。
しかし、後にも述べますが、義元は自身の有能な軍師を家康の師として充てています。冷遇ではなかったものの、不遇な時に手を差し伸べてくれる人がいかに有り難いか、少年時代より感じていた家康は、人を見る目は他と比べても長じていたと思われます。
家康はこの「信頼」を本人だけではなく、部下全員に染み渡らせ、世間に「徳川家は信頼できる」という流れをつくり出します。それは大名間だけではなく、民衆においても同じように信頼されることも重視した結果、日本全国から支持を得ていきました。
「分断」した組織を形成する
「信頼される組織」を維持するため、家康はある仕組みをつくり出しました。それは、政策を生み出すのは自身の隠居先である駿府。政策を実行するのは後継者として征夷大将軍の座を継いだ秀忠のいる江戸で行う、ということでした。立案と政策の実行機関を分けたのです。その補佐役として、本多忠勝とその息子・忠政が両政権の連絡役となり活躍。家康の死後、秀忠も同じ方法で3代将軍家光に対して干渉しました。しかし、秀忠が亡くなったあとはこの方法はとられず、徳川家は3代かけて政権の基盤をつくり出したのです。
ちなみに、家康は慶長14年(1609)、駿府に隠居し、「江戸時代における外交や諸宗に対する基本的枠組みの構築」に取組み始めました。外交は主に朝鮮と琉球への対応、諸宗は寺院法度の交布などを行い、隠居とは名ばかりの忙しい日々を過ごしていました。
部下を信じる 秀吉からの引き抜きエピソード
徳川家の固い結束力に横槍が入ったことも。しかし、家康は家臣それぞれを信じ、干渉せずに見守ったというエピソードが残っています。ある時、家康の優秀な粒ぞろいの家臣を羨んだ豊臣秀吉が引き抜きを行おうとしました。「徳川家四天王」と呼ばれていた、井伊直政、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、そして平岩親吉の5人をそれぞれ呼んで「官位と褒美を与える」と。
5人の反応はそれぞれ異なり、井伊、酒井、本多の3人は家康には黙って官位と褒美をもらい、家康に報告しませんでした。平岩は、主人は家康のみだとして始めから断り、榊原は一度、家康に確認してから官位と褒美をもらいました。
この、部下が秀吉から官位と褒美をもらったということは徳川家内部でも問題に。しかし家康は
「彼らは彼らなりに考えながら私を支えてくれている。黙っていた3人はそれが私のため、徳川家のためになると考えたからである。平岩のように整然と断るのも、彼らしく、また正しい。榊原のように真面目に相談に来るのも、信頼に足る。彼らは、引き抜きと見抜いたうえで、このように行動した。黙っていた者たちも、これくらいのことで私への忠誠心が揺らぐことはないから黙っていたのだ。さらに、徳川家でこれだけの簡易と褒美をもらった者が何人も出れば、私の権威そのものが上がったことにもなる。全く心配ない」
と述べたといいます。
この話は本人たちにも伝わり、彼らはさらに家康への忠節を誓い合いました。部下を信じ切っていたからこそ、ひとりひとりが家康と徳川家のことを思い、それぞれが1番良いと思う行動ができたのでしょう。
世論を味方につける
家康は確固たる政権を築くために、武士からの支持だけではなく、一般民衆の意見や支持も大切にしました。家康は民衆の求めに応じていかなければ政権は崩壊することを知っていたのです。応仁の乱以降始まった戦国の世に民は疲れ切っていました。織田信長も豊臣秀吉も、一瞬は安定した時代を築きましたが海外侵略など、まだ戦う意思が見えていました。秀吉に関しては有名な朝鮮出兵だけではなく、天正19年(1591)に「インド副王への返書で日本統一の過程を述べたうえで(略)フィリピン政庁に服属を求める書簡」(藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史①』岩波書店 2015年)を送っていたほど。
しかし、民は休息を、平穏な日々を欲していた。その欲求に応えていくことこそ、支持を得られる1番の近道であることを家康は気づいていたのです。
童門冬二氏は著書で、「 ”人の痛みを知る” とは、政策を肌理細かくするということだ。政策を肌理細かくするということは、あらゆる地域の実態を知り、そこに蠢く人間の欲望を把握することである」 と述べています。
現代風に言えば、顧客の意見はもちろんだが、社員1人ひとりの意見や欲求に応えていかなければ企業は長く続かないし繁栄しない。そのためには、小さな意見にも耳を傾けていかなければならない。ということを家康は気づいていたのです。
「徳川派」をつくる
幼い頃より人質という環境で育ってきた家康は、信頼できる味方がいるということがどれほど有り難いか身をもって体験してきました。それが徳川家当主となり、天下に名を馳せるようになった際にも生かされています。さて、家康がどのようにして「徳川派」をつくっていったのでしょうか。豊臣秀吉の派閥づくりから学ぶ
現代の多くの企業でも同じことが言えると思いますが、何かを実行するとき、上司や部下、同僚の支持を得なくては実行し難いですよね。このことで苦労したのが豊臣秀吉です。秀吉は出身が武家ではないのに加え、スピード出世をした自身を取り囲む者のうち、信頼できる者たちは数少なかったのです。そのため、養子縁組や姻戚関係を結ぶことで各大名や武士たちとつながり、さらに、公家には金をばら撒きました。
死に際には各大名を呼んで「豊臣家を頼む」と誓書を書かせましたが、願い空しく、ほとんどが反故に。この必死な派閥づくりを見た家康は、姻戚関係や金などではなく、忠誠心で結ばれた上下関係を築くことがいかに重要かを知ったのです。
自分を安売りしない
金しかなかった秀吉(石田三成のような忠誠を誓う家臣もいたが数が少なかった)に対し、家康は、家柄、政策力、信頼できる部下に加え、財力もありました。過去に人質の期間はあったものの、揃う物が揃っていた家康はそれを武器にして、決して自分を安売りしませんでした。その結果、徳川家の価値は高いものとなり、各大名はこぞって徳川家の信頼や協力を欲しがったのです。
家康は自分の価値を上げることで、放っておいても良い人材が手に入るようになり、徳川家はさらに繁栄しました。自身が持っているもの全てを武器に、家康は天下人になったのです。
人質時代の師に学んだもの
家康は6歳から19歳まで人質として今川家と織田家で、そのうち10年間は今川家で過ごしました。その期間に家康は様々な学問書を読んで勉強しました。それしかすることがなかったと言えばそうなりますが、それが後の家康にとって宝となるのです。その今川家で師として家康に学問を教えたのが、今川義元の軍師で知られる太原雪斎です。彼は持つ知識の全てを、人質として冷遇されていた家康に与えました。
家康の器量を見抜いていたのでしょうか。一般教養書の他にも、謀略や情報、諜報などのノウハウが書かれた書も読ませました。家康の巧みな戦法もこの頃に雪斎から学んだのでしょう。人質という立場上、今川家から冷遇されていたと思われますが、今川義元の軍師自ら家康に学問を教えていたという点を考えると、徳川家(この当時は松平家)が今川家の中でもそれなりの立場を維持していたことがうかがえます。
後継者選び
関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍となりましたが、その2年後には駿府に隠居し、秀忠に将軍職を譲りました。この後継者選びも重臣たちの間で様々な議論が行われましたが、家康は何をもって三男である秀忠を後継者に指名したのでしょうか。後継者候補の人物評価
家康の長男で後継者となるはずだった信康は信長の命で切腹。残った息子の中から後継者を選ぶことになった家康は徳川四天王や重臣たちに相談することに…。二男の秀康は優秀であるが、秀吉の養子にもなっていたので、豊臣家との縁が深すぎる。三男の秀忠はおっとりしていて天下人のタイプではない。そこで、戦上手で覇気もあり、部下もついていくだろうということで、四男の忠吉が良い、となりました。
家康も、部下の意見に耳を傾けましたが、これからの平和な世の中に勇ましい忠吉がトップでよいのだろうか、という疑問が残ります。
太平の世にふさわしい後継者を選ぶ
そうした中、四男の忠吉は関ヶ原の戦いで負傷したことが原因で亡くなってしまいます。そこで家臣は秀康か秀忠の二人が後継ぎ候補に。本多正信は秀康(武勇・智略に優れている)、大久保忠隣は秀忠(穏やか)を推薦。話し合いの場が待たれたものの、決着はつかず、家康が最終決定をすることになります。その時に家康は、秀康にしろ、秀忠にしろ、後々家臣全員が納得し、しこりの残らない方はどちらかと考えます。そうすると、秀康よりも秀忠の方が、全てを丸く収めながら政権を担っていけるだろうと…。
結果、秀忠を将軍後継者とし、のちに徳川集団は一丸となって強固な政権を築いていくことができたのです。
おわりに:家康が大切にしたものとは
今年の大河「どうする家康」では、家康とその家臣団の強い繋がりも見どころのひとつですね。天下を治めた家康は人を見る目も人より優れていたと思わせるエピソードが多々残っています。井伊直政の話もその一つでしょう。直政は家康の時代に新しく加わった家臣です。若年ではあったものの有能な彼を家康は評価していましたが、他の家臣からは煙たがられていました。そんな時にも家康は直政を信じ、出過ぎた杭は打たれないと励まし続けたようです。その家康の想いに応えるかのように直政は戦でも政治面でも活躍し、その努力する姿を見た周りの家臣も自然と彼を評価するようになっていったのです。
戦国時代、荒廃しきった日本をひとつにまとめた家康は、織田信長や豊臣秀吉のように逸脱した才能があったわけではなく、人を信じ、その人の才能を最大限引き出すことに長けていたと思われます。
さあ、大河ドラマでは徳川家臣団が今後どのようにして活躍していくのか、歴史好きな私も楽しみです。400年前の家康から様々な事を学び、歴史に思い馳せていきましょう。
【主な参考文献】
- 藤井譲治『徳川家康』吉川弘文館 2020年
- 藤井譲治『戦国乱世から太平の世へ シリーズ日本近世史①』岩波書店 2015年
- 童門冬二『徳川家康の人間経営 人を動かし組織を生かす』祥伝社 平成5年
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