これは家康が会津征伐で関東へ向かっていたある時、ひそかに重臣の本多正信、井伊直政、本多忠勝、榊原康政を呼んで語った話である。※『名将言行録』より
━━ 慶長5(1600)年6月 ━━
よう聞け。こたびの上杉景勝の謀反は1人のことではない。関西の諸大名の多くが上杉と通じており、その中心となっているのは石田三成、増田長盛あたりであろう。
わしが関東に下れば上方(=京都や大坂を初めとする畿内を指す)が蜂起することは間違いない。
!!
だからわしは関東へゆっくりと下って江戸に留まり、上方の形勢をうかがうつもりでおる。おぬしらもこのことをよく聞いて心に留めておけ。
・・・・殿。恐れながら。
そのようなお考えでしたら、毛利、宇喜多、島津、立花らを会津に向かわせて、殿は大阪で秀頼公を守護する旨のお触れをだされるのがよろしいかと。。
うむ。さすれば石田らの挙兵をゆるすまい。
たしかに・・
上方にて石田ごとき、この本多平八郎忠勝が成敗してくれるわ!
・・・(こやつらわかっておらぬな。)
関東へ下られれば関西の連中はいよいよ旗をあげることでしょう。
このように重臣4人は同じ意見であった。しかし、家康は・・・
おぬしらの申していることは全くもって間違っておるわ!
!!!
毛利や宇喜多らを会津へ向かわせれば、必ず上杉方に味方し、江戸を攻めてくることになる。そのときにわしが関東へ下ろうとすれば、石田や増田らに付く将は我が先にと、わしを追撃してくるであろう。
さすれば我が軍は敗北を喫し、江戸は敵の手に落ちる。
むむうっ・・。
関東はわしの基盤じゃ。
たとえ全国の諸大名がみな背いたとしても、わしが関東におったならば、わが兵で奮戦すれば何も難しいことはない。わしはここ数年このように考えておる。
だからこそわしは日頃から身分を問わず、わしと同じ志を持つ輩や、勇ましく義を重んじる諸将らをこの東征に従軍させたのだ。
そういうことでございますか。
こうした輩はたとえ上方が大騒乱となったとしても、わしに属するであろう。だからわしは上方の動きにかまわず、東国へ向けて出陣するということなのだ。
・・いつもながら殿の明察には感服いたしまする。
さすがは殿でございますな。
こうしてみな、家康の考えに感心しきりであった。
これは家康が会津征伐で関東へ向かっていた道中の駿府で宿営していたときの話である。※『名将言行録』より
━━ 慶長19年(1600年)6月 ━━
【駿河国・駿府にて】
家康は上杉景勝や直江兼続らを討つため、大阪から関東へ下る途中、駿府(=静岡県静岡市葵区)に滞在しており、軍の陣営の用意もせずに一日中、鷹のことにかかりきりであった。
本多忠勝はこのことを諌めようと家康の前へ行くが、このときも家康は鷹匠(=主君の鷹を飼って、鷹狩りに従事する者)を集めて鷹の”へお”(=鷹の脚に結びつける紐のこと)等を吟味していた。
ん?なんじゃ忠勝。
・・・。
少々申し上げたいことがあり、参上いたしました。
・・お人払いを。
忠勝は仏頂面でこう言い、そして家康は奥の間へ入った。
殿はいま、上杉景勝をお討ちになるためにここまでいらっしゃったわけでございます。
しかるにその支度をなさらず、鷹のことばかり。いたずらにここに留まっておられるうち、上方では乱をおこす者もでてくるでございましょう。もしそうなればいかがなされるつもりでございましょうか?
忠勝。鷹のことにかかりきりのわしが「うつけ」にみえるか?
さよう。ただただ徳川家の滅亡に向かっているように存じます。
すると、家康は忠勝の口を押さえて言った。
だまれ!こうせねば天下は取れぬ。
わしが"うつけ"となり、上杉攻めに時間をかけなければ、上方で乱は起きぬのだ。わからぬか?
こうしておれば、やがて上方で乱が起きるであろう。
!!
そうなれば、ここからすぐに引き返して上方の謀反人どもを打ち従えよう。さすれば天下はわが物よ。そうなったらお前もついに国持ち大名になるのだ。
そうなりましたら一段とめでたいことでござりまする。
そういって忠勝は退出した。
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やがて家康の言ったように石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いとなった。
徳川方が関ヶ原で勝利した後、その戦功によって伊勢国桑名藩(現在の三重県桑名市)10万石に移された忠勝は、このことを村上左衛門に次のように語り、腹を立てたという。
殿が前々から仰せられていたことはまるで"さすのみこ"(=よく当たる陰陽師の意)のようだ。しかし拙者へ国を下さるというお仰せだけは違っていたわ!
忠勝は国持ち大名とまではいかなかったということである。