家康に遠江進出の絶好の機会が訪れる。永禄11(1568年)12月、武田信玄が駿河侵攻を開始したのである。
ここで駿河侵攻に至るまでの流れをまとめておこう。
こうして信玄は駿河侵攻をはじめるわけであるが、これに呼応する形で家康もまもなくして軍事行動を起こしている。
それは信玄と家康との間で事前に大井川を境として、信玄=駿河、家康=遠江を切り取り次第に領有するという密約があったからだという。史実かどうか定かでないが、その後の展開はほぼ密約どおりとなっているのである。
今川を攻めるとなると、今川と同盟関係にある北条が援軍を派遣してくる事は容易に想定できた。信玄は信長を通じて家康と接触し、上記のような密約を交わした可能性は極めて高いとおもわれる。
では実際に両軍の動きをざっくりみてみよう。
上記をみると、信玄が駿府を占領した日には、家康も軍事行動を開始したことがわかる。
徳川方は「井伊谷三人衆」と呼ばれる菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の3人を道案内として15日には遠江国の井伊谷を占領すると、その後は周辺の今川方部将に調略をしかけ、次々と配下におさめることに成功しているのである。
なお、家康は井伊谷三人衆に対し、出陣前日となる12月12日付けで起請文を与え、井伊谷をはじめとした知行地を安堵している。
こうした中、18日には秋山信友率いる武田の別働隊が遠江に侵入して徳川軍と交戦する事態が起きている。これは一般に今川領の割譲の約束があったにもかかわらず、信玄が意図的に攻め込んだという見方が有力のようである。
家康はこれに対して22日付けの書状ですぐに抗議したというが、すれ違いで同日に信玄から重臣・朝比奈泰朝の守る掛川城を攻めるように要請されている。
一方の氏真は、その掛川城へ敗走したが、家康もすぐさま掛川城攻めにむかい、27日には同城を包囲しているのである。
氏真の籠もる掛川城を本格的に攻撃するのは翌年正月からとなり、調略も引き続き行なって犬居城の天野藤秀・高天神城の小笠原氏助ほか、多くの将を帰順させることになるのである。
家康は昨年末に密約違反として抗議を入れていたが、年が明けた永禄12年(1569年)の正月早々、武田信玄から弁明の書状が届き、その内容は "秋山信友率いる武田兵を遠江から駿府に退かせる" とのことであった。
この一件で家康と信玄の間に生じた軋轢を埋めるべく、信玄からの求めで2月には両者の間で起請文が取り交わされたようである。 しかし、家康の信玄に対する猜疑心は消えることはなく、このころから家康は上杉謙信や北条氏政との連携を模索するようになる。
このころの信玄だが、家康と不和になるだけでなく、今川と同盟関係にある北条氏政をも敵に回し、北条軍に退路を封鎖されて駿府に閉じ込めらるという窮地に陥っていた。
一方で家康は、今川氏真の籠城する掛川城への本格的な攻撃を開始しており、それと同時に今川諸将への調略もすすめていた。
しかし、結果的に掛川城を陥落させることができず、和睦への道を探ることになる。
以下は和睦交渉に至るまでの過程を諸史料に沿って簡潔にまとめたものである。
上記のうち、要所だけをみていこう。
まずは家康が2月18日に上杉氏に送った返書である。
このとき家康は、謙信に「遠江への出陣と遠江の諸将の多くを配下に組み入れ、掛川城もまもなく落城する」旨を伝えているが、掛川攻めの現状は、今川方の堅固な守備に苦戦していたのであった。
次に戦いの行方だが、2月23日の戦いはかなり激戦だったといい、どちらが優勢だったのかは史料によって異なっているのでなんともいえない。また、3月5日に本多忠勝らが攻撃した際には、今川方を100人余りを討ち取ったものの、徳川方も60人余りの犠牲が出たというが、落城までには至らなかったようである。
思った以上に掛川城が堅固で力攻めが難しいと判断した家康は、今川氏真の元へ使者を送り、作戦を変更して和睦に舵をきる。ここでも和睦に至るまでの過程を以下にまとめた。
家康は和睦申し入れの際、以下の旨を伝えたという。
自分は今川義元に取り立てられた身だから、今川に敵意はない。遠江一国を自分が手に入れなければ、武田信玄の手に渡る。自分が手にいれれば、北条氏と協力して信玄を追い払い、駿府を今川に返すことができる(『松平記』)
氏真としては、既に武田に奪われた駿府が戻るという願ってもないことだったため、和談に応じることになった。
なお、駿府で北条方に封鎖されていた信玄は、4月24日に駿府を放棄・撤兵し、1回目の駿河侵攻は失敗に終わっている。
こうして家康は、今川方と交渉を重ねて今川諸将の知行の安堵などの起請文を交わし、和睦を成立させて5月6日に掛川城を開城させた。
氏真ら一行はその後、北条氏の兵に迎えられ、天竜川の河口・懸塚湊(磐田市)から船で17日には蒲原(静岡市清水区)に着き、
さらに大平城(沼津市)を経て伊豆国の戸倉に行って北条氏政の庇護をうけることになった。
23日には、今川氏の名跡が氏政の子・国王丸(のちの北条氏直)に譲られ、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡した。
これにより、北条氏は駿河国の今川領を事実上領有することになり、家康もまた、掛川城の開城後に石川家成を入れて守備させ、遠江一国をほぼ掌握することに成功したのである。
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