寒村・江戸を大都市にせよ! 〜プロジェクトE 家康の挑戦〜

『江戸図屛風』にみえる江戸初期の江戸城(出典:wikipedia)
『江戸図屛風』にみえる江戸初期の江戸城(出典:wikipedia)
 東京駅から行幸通りをまっすぐ歩くと、やがて緑豊かな一帯——皇居外苑が見えてくる。周囲には超一流企業やホテル、劇場が並び立ち、優雅で格調高い趣きだ。

 それもそのはず、この一帯はかつて江戸幕府を支えた大名たちの屋敷が並ぶ城下町で、皇居は将軍が鎮座した、江戸城城址そのものなのだ。人口100万人を抱える巨大都市となり、やがて首都・東京となった江戸。その基礎を築いたのが、江戸幕府初代将軍・徳川家康である。

 しかし家康が来る以前の江戸は、現代の喧噪からは想像もつかないほど荒れ果て、さびれた土地だった。江戸城も「田舎城」と家臣たちが嘆くほど、粗末で貧相なものだったという。

 そんな江戸を、家康はなぜ本拠地としたのか。そしてどのように、江戸を世界都市へと変貌させたのか。誰もが無謀とも思えた、家康による一大プロジェクトの軌跡を追っていこう。

突然の関東への国替え! どうする家康

 三河国(愛知県)ほか5か国を治めていた家康が関東へと移ったきっかけは、豊臣秀吉の命で参戦した北条攻めだ。家康は豊臣軍の先鋒として、小田原城に赴いていた。

豊臣秀吉アイコン

豊臣秀吉

晴れて北条を攻め滅ぼしたあかつきには、家康殿に、関東6か国をお任せしたい


 小田原の地で秀吉は家康に、褒美として北条の旧領地を与えることを約束したのである。

 関東6か国とは伊豆、武蔵、相模、下総、上総、上野のことで(これに加えて下野、常陸の一部も含められ、関八州とも呼ばれる)石高は総計250万石。家康の現領地の石高は119万石(150万石とも)なので、字面だけ見れば大幅加増だ。

 しかし秀吉の次の言葉に、家康は愕然とする。

豊臣秀吉アイコン

豊臣秀吉

そのかわり、家康殿の領地5か国は、すべてわしに任せてもらおう


 褒美とは名ばかりの、強制的な国替えである。秀吉がこのような命を出した理由は諸説あるが、家康を中央政権から遠ざけ、力を削ごうとする意図があったというのが定説だ。

 ともかくも、武士にとってこれまで守り抜いてきた土地を取り上げられるのは、文字通り身を引き裂かれる思いであり、屈辱にも等しい。しかし秀吉に臣従している以上、拒むことはできなかった。

 それならそれで、と、家康はこう考えたはずだ。

徳川家康アイコン

徳川家康

秀吉の目が行き届かぬ関東でなら、ゆっくり着実に、力を蓄えることができる…


 家康といえば、苦難に耐え忍ぶ辛抱強さが代名詞のように使われる。しかし今川義元の横死にともないいち早く織田信長についたり、三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗するも、空城の計を使って追撃部隊を翻弄してみせたりするなど、機を見る目と切り替えの早さもまた、家康の強みだ。実際、家康はこの後、豊臣家の五大老の一人としてうまく立ち回りながら関東開発に力を注ぎ、じわじわと豊臣を凌駕する力をつけていくのである。

 なお、家康が関東入りした天正18年(1590)8月1日の日ことを、江戸幕府では「江戸御打入り」と称した。少々物騒な響きから、相当な覚悟であったことは容易に想像できる。やがてこの日は「八朔(はっさく)の祝い」という記念日となり(八朔とは8月1日のこと)、毎年江戸城内で大々的に祝われるようになった。

「ナゼそこにわが殿が?」 江戸は不安要素だらけ

 こうして関東入りすることになった家康だが、問題は拠点となる場所決めだった。

 家臣たちの多くは「きっと北条氏の旧領地である小田原か、あるいは鎌倉になるだろう」と想像した。

 小田原であれば、ほぼ無傷の小田原城をそのまま「居抜き物件」として使えるし、城下町も栄えている。北条の影響力が根強く残るために領民の反発はまぬがれないが、初期投資が抑えられるという点で、無理なく再出発が可能だ。

 いっぽう鎌倉は、武士政権が誕生した由緒ある土地であり、町も十分整備されている。鎌倉の地形が山に囲まれた攻められにくい天然の要害という点も、拠点として申し分ない。

 小田原か、鎌倉か—— しかし家康の答えはまさかの「江戸」。予想の斜め上の展開に家臣たちは相当戸惑ったようで、松平家家臣の石川正西が著した『聞見集』には「誰もが、どうしてそんな所にと手を打って驚いた」とある。

 なぜなら、当時の江戸は内陸にいくつもの河川が入り組む、ぬかるみにまみれた土地だったからだ。特に主流である利根川は、たびたび氾濫を引き起こす “暴れ川” として有名で、とても住みやすいとは言いがたい。

 くわえて居城となる江戸城も、日比谷入江という海に面して建っており、その外観は、城というより館に毛が生えた程度のみすぼらしいものだったという。

 家臣たちは、城を一目見るや、

「このようなかたちばかりの田舎城に、わが殿が入るなど……」

と嘆き、落胆したのだそうだ。江戸という土地は、不安要素だらけの “超・僻地” だったのである。

 家臣たちは口をそろえて主君・家康に城の改築をすすめたが、家康はそれを一笑に付すと、まずは町づくりを徹底するよう命じた。

 家康が江戸を拠点に選んだ理由。それは城よりも何よりも、江戸という土地の可能性だった。

家康が見抜いた、江戸のポテンシャル

 江戸という地は「入江の入口(戸)」に由来するといわれる。その名の通り入江(海)に面しているうえ、関東を流れる多くの川が合流するという低湿地帯だ。そのため足場が悪く、洪水も起きやすい。しかし川が多いということは、それだけ舟をたくさん通すことができる。大量輸送が可能なのだ。

 エジプトのナイル川しかり、中国の黄河しかり。世界的に見ても、文明が生まれ、発展した都市というのは、川沿いもしくは海沿いがほとんどだ。豊かな水資源や水産物が手に入るのはもちろん、鉄道が登場するまでは、船が最も効率的かつ大量に輸送できるため、大都市への物資供給に水運は欠かせない。

 現在でも、世界的な貿易路として知られるスエズ運河やパナマ運河では、高い通行料や安全保障の問題がたびたび取り沙汰されている。それだけ海上交通の確保は世界各国にとって影響が大きく、リーダーの最重要課題なのだ。世界の歴史は、水運獲得争いの歴史でもある。

 そして “暴れ川” の利根川には、何にも代えがたい利点がある。日本最大の広さをほこる流域面積だ。どこまでも広がる、ぬかるみの地——ここの地盤強化と治水さえしっかり行えば、広大かつ豊かな耕作地が手に入ると、家康は踏んだ。

 家康は、一見デメリットでしかない江戸の地形が、将来メリットになりうることを見抜いたのだ。結果としてそれは、まさしく先見の明だったといえよう。

 さて、後世の史料ではたびたび当時の江戸を「寒村」「寒漁村」などと表現し、そのさびれようを述べているが、これは家康の功績を称えるべく記述がオーバー気味になっているという点には留意したい。近年の研究では、この頃の江戸はすでに町として一定の規模を誇っており、水運もある程度発達していたとする見方が強まっている。拠点として江戸は十分機能的だったので、家康は迷わずにここを選択できたということだ。

 とはいえ、小田原や鎌倉のような成熟した町に比べたら、江戸はまだまだ発展途上の、名もなき村にすぎなかったのは確か。都市開発の労力とリスクを負ってまで江戸を選ぶという決断は、やはりなかなかできることではない。しかも家康はこの時48歳。人生50年と呼ばれたこの時代において、老齢も老齢だ。それにも関わらずイチから町を開拓しようとしたのだから、その不屈の精神、強靱な体力には恐れ入る。

 本人が思い立てば、人生いつでも、何回でもチャレンジできるのだ。

大江戸開発プロジェクト始動! さびれた寒村が、世界有数の大都市へ

 江戸に入った家康は、さっそく海上インフラの整備に取りかかった。城のふもとまで舟を通すために市中に運河(掘)を巡らし、必要であれば山を切り崩した。切り崩した山の土砂を使って沼を埋め立て、足場を固め、コツコツと拡張工事を続けていく。

 ちなみに、現在の日比谷エリアは前述した「日比谷入江」、つまりかつては海だった場所に、土砂を埋め立ててできた土地である。やがてそこに武家屋敷が建ち並び、時を経て近代的な街へと変貌を遂げていくのだ。こうした「現在はアスファルトの平地だけど実は江戸期に開発された埋め立て地」という場所は、東京各所に存在する。

 さらに家康は治水と農地開発のため、利根川の “流れを変える” ことを決定。河口を江戸湾(東京湾)から太平洋に面した銚子(千葉県)に移動させるという荒業に打って出た。これは江戸開発の中でも最大にして最高難易度の大工事となり、完了まで31年もの歳月がかけられた。

「水があふれて困るなら、流れを変えてしまえばいいじゃない」——などと言ったかどうかはさておき、そんな力業を、家康はやってのけてしまったのだ。

 こうした水運確保、治水事業と並行して、家康は城下の区画整理も行った。

 城の周囲に武家地、堀の外側に町人地をつくり、それをさらに堀と石垣で囲った。最も外側の堀は、南から虎ノ門〜四ッ谷〜市ヶ谷〜お茶の水とぐるりと巡り、さらに神田川と隅田川をつないで堀の代わりとしている。

 いま城の周囲、という表現をしたが、実は武家地・町人地を含めた堀や石垣で囲んだすべての土地が、江戸城の範疇だ。城というと天守ややぐらといった建物のイメージがあるだろうが、江戸城の場合、堀に囲まれた城下町一帯が城なのだ。こうした城のつくりを「総構(そうがま)え」という。

外堀の外周は約15km、総面積は230万平方メートルにも及ぶ。これは、豊臣期の大坂城の約2倍の広さだ。皇居を含めた内郭はともかく、外郭はあまりに広すぎるので、現代では古地図でも見ない限り「ここが城だ」という実感はわきづらいかもしれない。

 ちなみに、首都高速道路が走っている場所の多くが、かつての堀や水路の跡地となっている。気づいた時はぜひ首都高を眺めながら(あるいはその下に流れる水路を見ながら)江戸城のスケールの大きさを感じ取ってほしい。

 こうして家康の号令によって始まった “大江戸開発プロジェクト” は、江戸幕府が開かれ、諸大名が町づくりに参加する「天下普請」が始まったことでいっそう本格化した。日本各地から腕ききの職人や商家が集まり、町は急速に発展。五街道の整備によって宿場町が形成され、人の往来はさらに増加し、各所おおいににぎわった。

 増え続ける町人の住居確保のため、江戸湾の埋め立ては進みに進み、それにともなって上水道・下水道も整備された。この上下水道の敷設がしっかりなされたおかげで(そして庶民の衛生意識も高かったおかげで)江戸は世界でも類を見ないほど “清潔な町” として知られるようになった。

 幕末のイギリス外交官・オールコックは「きわめて清潔で(中略)私が訪れたアジア、ヨーロッパの都市とは対照的だ」(『大君の都 幕末日本滞在記』)と、驚きをつづっている。

 江戸最後の拡幅工事は万治3年(1660)。家康の「関東御討入り」からすでに70年が経過しており、4代家綱の治政だった。

 ここに、江戸城は一応の完成となったのである。

おわりに

 「田舎城」「寒村」と揶揄されるほど、未開の地だった江戸。しかし家康に可能性を見いだされ、作り替えられた結果、江戸は世界的な大都市へと発展を遂げた。その人口は、1700年代には100万人にも達したという。

 東京都立中央図書館の調べによると、1800年代で北京が90万人、ロンドンが86万、パリが54万人ほどだということで、江戸の規模がいかに大きかったかがうかがえるだろう。この人口の多さを支えたのが利根川流域の豊かな土地と、水運、上下水道といった、当時最高峰のインフラだった。

 こうして住みよい町となった江戸からは歌舞伎、花火、浮世絵などさまざまな風俗、文化が生まれ、以後260年続く平和な時代を彩った。家康主導の “大江戸開発プロジェクト”は、間違いなく大成功をおさめたといえよう。

 東京の各所では、江戸城の名残ともいえる石垣や堀といった遺構を見ることができる。首都高下の橋げたの石垣はその代表だが、現在、その首都高を地下に通すという計画が進められており、かつての水堀の美しい景観がよみがえる予定だという。

 天上の家康は、今何を思うのか——遺構を見つけたら足をいったん止めて、町づくりに賭けた家康に、思いを馳せてみるのもいいかもしれない。


【主な参考文献】
  • 『稀代のロジスティクスプランナー -徳川家康の都市づくり-』ニチレイグループ広報誌「OriOri vol.3」2006年6月
  • 『新版 大江戸今昔マップ』かみゆ歴史編集部 2014年 KADOKAWA
  • 『イラストで丸わかり! 日本の名城』執筆 島崎晋 武内孝夫 森村宗冬 2017年 洋泉社MOOK
  • 『日本100名城めぐりの旅』荻原さちこ 2013年初版 学研パブリッシング

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戦ヒス編集部 さん
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