「河越城の戦い(1546年)」日本三大奇襲の一つ "河越夜戦" で成し遂げた奇跡の勝利の勝因とは
- 2019/12/12
戦国時代の英雄は時として絶体絶命の窮地に陥り、そこから死力を尽くして奇跡の大逆転起こすものです。桶狭間の戦いでの織田信長の活躍はその代表例でしょう。北条氏の3代目当主である「北条氏康」もまた、信じられないような戦いをして勝利を掴んでいます。
今回は8万もの大軍に対し、わずか8千の兵で撃退したという「河越夜戦」についてお伝えしていきます。
今回は8万もの大軍に対し、わずか8千の兵で撃退したという「河越夜戦」についてお伝えしていきます。
四方を敵に囲まれた中での家督相続
北条氏2代目当主・氏綱の死去
小弓公方を倒し、古河公方の外戚となり関東管領に補任された北条氏綱が死去したのが、天文10年(1541)のことです。家督を継いだのは27歳の北条氏康でした。当時の北条氏は四方を敵に囲まれていました。駿河国での今川氏との争い(河東の乱)をはじめ、今川と手を組んだ武田氏とも争っていましたし、一方で武蔵国では旧来から関東管領を務める山内上杉氏、相模国守護の扇谷上杉氏と争っていました。さらに上総国では里見氏とも対峙しており、かなり厳しい情勢の中での家督相続だったといえるでしょう。
特に拠点を北条氏に奪われた扇谷上杉氏は河越城奪回のため、氏綱が死去した3ヶ月後には攻め込んできています。この際は撃退に成功した北条勢でしたが、この後、氏康の妹婿である古河公方の足利晴氏が両上杉氏側についたことで、情勢はより厳しいものになっていきます。
敵対勢力からの一斉攻撃
こうした情勢の中、敵対勢力が示し合わせたように一斉攻撃を仕掛けてきたのが天文14年(1545)でした。8月に駿河国の今川義元がついに河東一帯の領土を取り戻すべく出陣し、さらに9月にはその同盟国である武田氏も侵攻してきました。氏康は最前線の拠点である吉原城を放棄し、戦線を伊豆国国境の長窪城(長久保)まで後退させます。
しかもこの9月には山内上杉氏、扇谷上杉氏に古河公方が加わり、なんと8万という軍勢で河越城を包囲しています。城を守るのは勇猛果敢な北条綱成(氏綱の娘婿で氏康と同じ年齢)と、叔父である北条宗哲(幻庵宗哲、北条早雲の四男)だったのですが、城内の兵力はわずか3千ですから籠城するのが精一杯でした。
氏康としても全兵力を二つに割いて東と西に対しても、勝てる見込みはなかったでしょうから、かなり危機的な状況です。氏康は家督を継いで4年目に、このような大胆な決断を迅速にするよう迫られていました。
駿東郡を捨て、河越城を優先した氏康
今川氏への領土割譲
氏康の決断が中途半端なものであったのなら、この時に北条氏は東西から攻められて滅びていたかもしれません。しかし氏康は駿河国河東一帯の領土を捨てることを決断します。そして武田晴信(のちの武田信玄)の調停のもと、今川氏と和睦を結びました。長窪城を開城して今川氏に引き渡し、河東一帯を放棄します。兵の命と引き換えに奪い取った領土を引き渡す決断は戦国大名にはなかなかできないことですが、この辺りをあっさりと行動に移せるところが氏康の器量の大きさを示しているのかもしれません。これにより西に兵を割く必要がなくなった氏康は、河越城救出に集中することができるようになったのです。
とはいえ、相手は関東の国人衆に強い影響力を持っている両上杉氏と、関東では将軍的存在である古河公方ですから、倒すことは至難の業です。
氏康は晴氏には中立を保ってもらうよう願い出たり、山内上杉氏には河越城を明け渡すので城内の兵を解放してほしいと願い出ましたがすべて拒否されてしまいます。
河越城の包囲網
ところで北条方の河越城を包囲した敵の陣容とはどのようなものだったのでしょうか?まず、山内上杉氏は河越城の南西2里半ほどの「柏原」に本陣を置き、先手衆を河越城の西側「上戸」に陣を布いています。一方、扇谷上杉氏は河越城の南約1里の「砂久保」に本陣を置きました。さらに東側1里には古河公方の軍勢、北側2里には岩付城城主の太田全鑑(資顕、資時)の弟である太田資正の軍勢が陣を敷いており、3千の兵が立て籠もる河越城は完全に孤立した状態です。
この状態のまま攻防戦が半年間も続きました。氏康はその間になんとか敵の兵力を減らそうと手を尽くし、北側の太田氏の調略に成功します。それが天文15年(1546)3月のこと。
なおも氏康は山内上杉氏や古河公方に和睦の提案をし続け、弱腰を印象づけました。結果として敵側は圧倒的な兵力差と、氏康の弱腰に油断し、緊張感を失っていくのです。
扇谷上杉氏を滅ぼした伝説の「河越夜戦」
氏康の出陣
同年4月になるとついに氏康が自ら河越城救出に出陣します。しかし包囲網に隙がなく、城内との連携が取れません。『小田原北条記』では、綱成の弟である福島弁千代という美少年がただ一騎で河越城に堂々と近づいていったために、敵兵も怪しまず、見事に城内に入ることができたと記しています。綱成はもともと今川氏の宿老である福島氏の出身です。
軍記物語ですから真相はわかりませんが、氏康はなんらかの方法で自軍の戦略を城内に伝え、敵陣の構えもしっかりと分析していたようです。
氏康が柏原の山内上杉勢に奇襲をかけたという説もありますが、その後の氏康の書状にこの戦いを「砂久保の戦い」と記載していることから、南の扇谷上杉勢を攻めたと考えられます。
河越夜戦と呼ばれているように、夜襲であったという説が有力です。ただしその点に関しても正確な記録は残されていません。もしかすると深夜に進軍し、夜明けとともに奇襲を仕掛けた可能性もあります。
砂久保の奇襲
一般的に知られているのは、氏康は夜襲のために夜目であっても味方を識別できるように全員に白い陣羽織を着用させ、行軍の秘匿のため松明や指物の使用を禁じ、敵の首級は打ち捨てるように指示したことです。機動力を優先したのです。氏康は8千の兵を4つに分け、そのうち3部隊を一箇所に交互に突撃させる戦術を採用しています。1部隊は敵の反撃に備えた予備部隊です。これで敵の寝ているところに波状攻撃を仕掛けることができます。こうして氏康は砂久保に陣を布く扇谷上杉勢に夜襲を仕掛けるのです。
敵ももう半年も包囲が続いており、まさかこの大軍を相手に反撃はしてこないだろうと考えていたのでしょう。完全に油断を突かれて砂久保の扇谷上杉勢はまさかの壊滅。当主である上杉朝定、および重臣の難波田善銀らが討ち死にし、残った兵も拠点である松山城を放棄しています。また、河越城城内にいた北条綱成は敵陣が大いに混乱したのを確認して出撃し、東の古河公方の陣を攻めています。
この大敗によって両上杉氏と古河公方は死傷者を1万6千人ほど出して潰走したと伝わっています。氏康はそのまま松山城を攻略し、これによって長年の宿敵であった扇谷上杉氏をも滅ぼしたのです。
おわりに
8千の兵で8万の大軍を撃退するとはまさに奇跡的な大勝利だったのですが、そこには氏康の用意周到さも大きく関わっていました。北側の太田氏は事前に北条氏に内通していたため、戦うことなく撤退しています。敵は半年の包囲で気が緩んでおり、さらに河越城一帯が湿地帯のため、他の陣との連携がうまく取れなかったようです。もちろん駿河国の領土をすっぱりと諦めて割譲し、河越城救出に集中できる環境を作れたからこその勝利でもあります。
この大勝によって北条氏は山内上杉氏を圧倒していく勢力となっていきました。北条氏の発展において大きな分岐点のひとつといえるでしょう。
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【参考文献】
- 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)
- 伊東潤・板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
- 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
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