「北条氏康」関東支配を巡り、上杉氏と対立し続けた後北条氏3代目の生涯とは

 北条氏2代目当主の北条氏綱から家督を継承し、北条氏の勢力をさらに拡大して関東一円に大きな影響力を持ったのが3代目当主である北条氏康(ほうじょう うじやす)です。その生涯は関東支配をかけた上杉氏との戦いの日々でした。今回は氏康が上杉氏といかに戦ってきたのかについてお伝えしていきます。

氏康の家督相続と周辺勢力との関係

氏康の元服と婚姻期

 氏康は北条氏綱の嫡子として永正12年(1515)に誕生しました。母親は氏綱の正室である養珠院殿だと考えられています。幼名は伊豆千代丸です。

 大永3年(1523)、氏綱は伊勢氏から北条氏に改姓していますが、当初北条氏を名乗れたのは氏綱だけだったようです。そのため氏康も伊勢新九郎と称していました。氏康の元服は享禄2~3年(1529~30)にかけてで、初陣は『異本小田原記』では享禄3年(1530)の武蔵小沢原の合戦と伝えています。この合戦で氏康は武蔵国府中に侵攻してきた扇谷上杉勢を撃退しました。

 氏康の正室は今川氏親の娘である瑞渓院殿です。いつごろ結婚したのか不明ですが、天文5年(1536)の今川氏輝の小田原城滞在前でしょう。今川氏輝は氏康の2歳年上で、ここで今川氏と北条氏との関係を強めたのですが、駿府に戻った氏輝は急死し、家督相続を巡る花倉の乱が起こります。新たに当主になったのは今川義元であり、義元はこれまでの外交方針を一変して武田信虎の娘を正室に迎え、北条氏に対抗する構えを見せました。

 氏綱はすぐに駿河国に攻め込み、河東を制圧します。さらに氏綱は小弓公方を滅ぼし関東管領に補任され、古河公方の外戚として足利家御一門に加えられることになるのですが、周囲を敵に囲まれた状態のまま、天文10年(1541)に病没しました。


今川氏、武田氏との和睦

 家督を継いだのは27歳の氏康です。しかしかなり困難な状況での家督相続でした。駿河国では今川氏・武田氏と争い、武蔵国では扇谷上杉氏・山内上杉氏と争い、さらに上総国では里見氏と争っているのです。

 氏綱の死去の動揺を突いて、扇谷上杉氏は北条領の河越城や江戸城に攻め寄せています。天文14年(1545)には今川氏、武田氏が駿河国河東に侵攻しており、最前線の拠点である吉原城を放棄し、伊豆国国境沿いの長窪城に後退しています。

河東の乱関連マップ。色塗エリアは駿河国。青マーカーは北条方の城、赤は敵方の本拠。

 このように北条はすべてを敵に回していたのではとても対応できないような危機を迎えていました。そこでまず、氏康は武田晴信(のちの武田信玄)の調停に従い、今川氏と和睦します。長窪城を義元に引き渡し、駿河国河東一帯の維持をあきらめました。代わりに扇谷上杉氏との戦いに戦力を集約させます。

 この頃には扇谷上杉氏は古河公方の足利晴氏にも働きかけ、彼を北条方から離反させており、河越城の攻略にさらに力を注いでいました。

上杉氏との対立

扇谷上杉氏の滅亡

 相模国守護の扇谷上杉氏は長年に渡って北条氏と争ってきた宿敵です。その扇谷上杉と北条との決戦は天文15年(1546)でした。

 籠城する河越城の後詰めとして出陣した氏康は、この決戦で扇谷上杉勢3000人を討ち、さらに総大将である上杉朝定も倒しました。扇谷上杉氏は拠点である松山城も放棄し、ここで扇谷上杉氏は滅亡したのです。

 なお、氏康はその勢いで上総国の里見氏の拠点である佐貫城を攻めていますが、その隙に扇谷上杉氏の旧臣である太田資正に岩付城を攻略されています。

 資正は上田朝直に岩付城を任せ、さらに松山城に攻め込みますが、朝直が北条方に寝返ったため、天文17年(1548)には資正も降伏し、扇谷上杉氏の勢力は完全に滅びています。

山内上杉氏の越後落ちと上野国の制圧

 こうなると次なる敵は関東管領を世襲している山内上杉氏です。氏康は天文17年(1548)からどんどん山内上杉氏の領土に侵攻し、天文19年(1550)には拠点である平井城まで攻め寄せています。攻略までとはいきませんでしたが、かなりの圧力をかけることに成功しました。

 天文21年(1552)、山内上杉氏の武蔵国の唯一の拠点である御嶽城を氏康は攻めました。ここには上杉憲政(憲当)の嫡子である竜若丸が入っていましたが、城主の安保全隆が降伏したことによって落城。竜若丸は処刑されました。北条勢の勢いを怖れた憲政は拠点の平井城を放棄し、重臣・長尾憲景が守る白井城に移り、さらに越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びていきます。

 氏康は桐生城・厩橋城・白井城・沼田城・岩下城など、抵抗勢力を次々と従属させ、永禄2年(1559)頃にはついに上野国の制圧に成功しています。ライバルである扇谷上杉氏を滅ぼし、北条氏と並んで関東管領にあった山内上杉氏を追い出したことで、北条氏は関東最大勢力となったのです。

 しかし、こうした事態に上杉憲政に頼られた上杉謙信は黙っておらず、まもなくして動き出すことに。そして氏康と謙信との争いが幕をあけることになります。

上杉謙信との戦い

古河公方の家督相続と甲相駿三国同盟

 一方、氏康が上野国を制圧するまでの間に大きな出来事がふたつ起きていました。

 一つ目は古河公方の家督相続問題です。古河公方の足利晴氏は、北条氏綱の娘を正室に迎えており、元々は良好な関係でしたが、河越城の戦い以後には関係が悪化していきます。


 そうした中での天文21年(1552)、氏康は晴氏に圧力をかけて嫡子の足利藤氏を廃嫡させ、自分の妹(芳春院)が産んだ末子の梅千代王丸(のちの足利義氏)を家督委譲させます。そして古河公方となった義氏は下総国葛西城に入り、ここを御座所と定めるのです。

 隠居した晴氏と藤氏はこれに反旗を翻して下総国古河城に入城しますが、氏康は天文23年(1554)に古河城を攻め、晴氏を幽閉しています。

 義氏は弘治元年(1555)に元服、永禄元年(1561)には拠点を下総国関宿城に移しています。こうして氏康が関東管領として執権を担い、孫の義氏が関東公方として北条氏は関東に絶大な勢力を築いていくのです。

 二つ目は駿河国の今川氏、甲斐国の武田氏との三国同盟です。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟の略系図

 天文23年(1554)に氏康の娘である早河殿が、義元の嫡子である今川氏真に嫁ぎ、さらに信玄の娘である黄梅院殿を氏康の北条氏政の正室に迎えています。

 河東の乱が終結した後も今川氏と北条氏は互いに疑心暗鬼になっていましたが、この婚姻と同盟によって再び手を取り合う間柄に戻ったのです。「甲相駿三国同盟」の成立によって氏康は関東制覇に集中していきます。


謙信の小田原城包囲

 氏康は長く敵対してきた上総国の里見氏を攻めて、その本拠地である佐貫城を天文22年(1554)に攻略しており、里見氏は内陸部の久留里城に拠点を移しました。

 三国同盟成立後の永禄2年(1559)に氏康は家督を氏政に譲っていますが、あくまでも主導権は氏康が握っており、小田原城にあって御本城様と呼ばれています。そして永禄3年(1560)5月に里見氏を滅ぼすべく、久留里城を包囲したのです。

 関東にもはや頼れる勢力のない里見氏は、越後国の謙信(この時点では謙信と称していませんが、謙信で統一表記していきます)に援軍を要請しました。

 謙信はこの要請に応えて、8月に出陣し、越山(関東侵攻)して9月には上野国の城を次々と攻略。関東諸将に参陣を呼び掛けると、関東管領の上杉憲政を奉じる謙信の元に国衆たちがゾクゾクと参陣、兵力は膨らみ続けました。そして驚くべきことに最終的には10万にも及んだといいます。

上杉謙信の関東遠征マップ。青マーカーは上杉方の城。赤は北条方の城だが、×は遠征中に上杉方に攻略された城。

 こうした事態に氏康は久留里城の包囲どころではなくなります。すぐに武蔵の松山城に入城して迎撃を試みますが、上杉方の大軍勢を前にして「勝機はない」と悟ったのでしょう。やむなく松山城を放棄し、本拠・小田原城へと帰還。籠城戦を決意するのです。

 そして翌年の永禄4年(1561)3月、上野国、武蔵国の国衆のほとんどが北条氏を見限って謙信に味方したため、ついに小田原城まで包囲される事態に…。まさに ”絶体絶命” という状況のはずですが、氏康はこの窮地を難なく? 乗り越えています。ちょっと拍子抜けですね。

 このときの上杉軍は大軍勢といっても即席の連合軍であり、指揮系統も整っていないことからか、争いも小競り合い程度だったとか。さらに氏康も籠城に徹したため、最終的に謙信は攻略をあきらめて撤退しています。

 ちなみにその後の謙信は鎌倉鶴岡八幡宮に参詣し、ここで山内上杉氏の名跡を継承しています(この時点では上杉政虎と称しています)。氏康に並び、謙信も関東管領となったのです。

武田信玄との戦い

三国同盟の崩壊

 謙信が越後国に帰還するとすぐに氏康は反撃に転じます。永禄4年(1561)に葛西城を奪回、永禄6年(1563)には武田勢の協力も得て松山城を奪回しています。その後は数年に渡って謙信と氏康のせめぎ合いとなり、関東の国衆は状況によって謙信側に味方したり、氏康に降伏したり二転三転するのです。

 しかし、永禄11年(1568)になると状況が一変します。桶狭間の戦いで義元亡き後の今川氏が衰退していく中で、逆に勢力を拡大していった織田や徳川。こうした情勢をにらんで信玄は信長や家康と好を通じて外交方針を転換。同盟国であるはずの今川氏の領土に侵攻を開始するのです。(駿河侵攻)

 これは三国同盟の崩壊を意味していました。氏康は今川氏との同盟を優先し、信玄と敵対することを決断します。こうなると謙信との戦いを続けていくワケにもいかないので上杉氏との同盟を模索していきます。

 ちなみに信玄の駿河侵攻開始後まもなく、今川本拠の駿河今川館(のちの駿府城)は占領され、当主の今川氏真は逃亡、最終的に北条氏の庇護下に置かれることになったため、ここに戦国大名としての今川氏は滅んでいます。

越相同盟の成立

 駿河国をめぐって武田と北条の戦いが続く中、北条と上杉の同盟が成立したのは永禄12年(1569)です。これは「越相同盟」と呼ばれています。

 この同盟を結ぶために氏康は謙信にかなり妥協しました。まず、対立していた関東管領の地位を完全に謙信に譲渡しました。これまでは互いに伊勢氏、長尾氏と呼び合っていましたが、氏康が関東管領を謙信に譲ったことによって、北条方は上杉方を長尾氏とは呼ばず、上杉氏と呼ぶようになりました。

 また、領土も割譲しています。上野国は上杉氏の領土であることを認めました。さらに養子縁組も行い、氏康は末子の三郎を謙信の養子としています。謙信の養子となってからは上杉景虎と称しました。

上杉景虎のイラスト
謙信の後継者候補だった上杉景虎。最期は後継者争いに敗れて非業の死を遂げた。

 こうして関東支配を巡る争いや関東管領の地位の正当性を巡った北条氏と上杉氏の争いは終結したのです。

 一方で武田と北条の戦いは長期化し、まさに泥沼化しています。永禄12年(1569)10月の三増峠の戦いはよく知られています。この戦いの前、信玄は氏康の本拠・小田原城にまで攻め寄せて包囲しますが、攻略できずに撤退します。これを好機とみた北条方が小田原城から追撃、別動隊と挟み撃ちする作戦にでたことで、武田と北条の両軍が三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で激突したのです。

 このときは挟み撃ちがうまく実現せずに信玄の勝利に終わっています。その後も両軍はたびたび駿河国周辺で争いましたが、最終的に武田方が駿河国を完全制圧して、ようやく戦いは終結。元亀2年(1571)正月のことでした。

晩年の氏康

 話が前後しますが、永禄8年(1565)を最後に氏康自身は出陣していません。氏政に軍事面の指揮権を完全に譲ったのはこの頃ではないでしょうか。ちなみに家督自体はすでに譲渡済みでした。ここから氏康は受領名の相模守を称し、官途名の左京大夫は氏政が名乗っています。

 扇谷上杉・山内上杉、および上杉謙信らと関東を巡って戦い続け、その後は武田信玄とも争い、元亀2年(1571)に入ってようやく戦が一段落ついた氏康。最期は同年10月に重病となって亡くなっています。


おわりに

 氏康の死後まもなく、氏政は越相同盟を破棄して再び信玄と甲相同盟を結んでいます。『異本小田原記』では、この外交転換は氏康の遺言によるものとしています。

 戦国時代最強と評判の上杉謙信や武田信玄ですが、彼らとほぼ互角の戦いを演じた北条氏康もまた、「最強」の武将の一人としても過言ではないでしょう。謙信、信玄という英雄の間で北条氏が関東最大の勢力を誇れたのは、氏康という希有の英雄が登場したからこそではないでしょうか。


【参考文献】
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 伊東潤、板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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