「遠山綱景」北条家の筆頭家臣として戦国関東の外交に力を注いだ将

関東の雄・北条氏の重臣として江戸城代を務めた遠山綱景(とおやま つなかげ)。江戸衆筆頭に列せられ、相模国に多くの知行を与えられていたとも伝わる彼の生涯はどのようなものだったのでしょうか。この記事では、史料や文献に基づいて彼の生涯を分析していきます。

北条重臣として、父から江戸城代の職務を受け継ぐ

綱景は、北条氏の重臣にして遠山家の初代当主にあたる遠山直景の嫡男として生を受けました。

生年は不詳とされていますが、嫡子の年齢などから推定するに、大体永正年間(1504年~)の初めごろに生まれたと考えられています。

遠山氏は、父直景が幕府奉公衆であった伊勢宗瑞(北条早雲)に仕えたのがはじまりです。 綱景の誕生当時、宗瑞はすでに伊豆の堀越公方であった足利政知を滅ぼしており、勢力を拡大しつつあった北条家の筆頭家臣と目されていくようになっていきました。

やがて宗瑞の後継者として北条氏綱が北条家当主になると、氏綱から「綱」 の一字を貰い受けて「綱景」を名乗ったとされています。氏綱が大永4年(1524年)に扇谷上杉家の拠点であった武蔵国・江戸城を攻略すると、その後に直景が城代を務めるようになったようです。

直景は筆頭家臣として遠山家の勢力を松田家に次ぐものに拡大しましたが、『延命寺文書』に記されている法事の内容から、天文2年(1533年)に彼が亡くなっていることが分かります。父の死に際し、綱景は家督と江戸城代の職務を引き継ぎます。

主に外交面で活躍か?

家督を継承した綱景は、合戦の面において活躍を見せています。『快元僧都記』によれば、国府台の戦いにおいて先陣を切って勝利に貢献したと記されています。

実は綱景は江戸城代ではあったものの、江戸周辺においては扇谷上杉氏の残党が抵抗を続けており、その地域で大量の領地を保有することができなかったのです。その代わり、綱景は天文7年(1538年)の国府台の戦いにおいて勝ち得た葛西地域(現在の千葉県市川市付近)に多くの所領を構えます。また、葛西城の管理も担当し、のちには争いが落ち着いた江戸地域においても所領を与えられています。

ただ、綱景が本領を発揮したのは戦よりもむしろ外交面と考えられ、北条家筆頭の家臣として寺社や他家との取次や交渉役を担っています。

伊勢神宮や鶴岡八幡宮とのやり取りも史料から確認することができ、さらに今川氏や武田氏など関東の覇権を争う他家との政治交渉にも貢献しました。

また、綱景は土地柄か足利氏との取次を担当することが多いのも特徴です。

天文3年(1534年)には小弓公方の足利氏と政治交渉を行い、その後は北条氏康の外戚にあたる古河公方の足利義氏という人物を保護していたようです。義氏は上杉氏との争いの中で何度か居城を移動していますが、その支援を担当していたのが綱景であると推測できます。

このように足利氏との交渉役を任じられた景綱は、その役にふさわしい教養も兼ね備えていたようです。綱景は「連歌」にも関心があったようで、連歌師・宗長との書状のやり取りを確認することができます。
当時の関東は今と異なり「田舎」と考えられていたため、都とは遠く離れた地域にありながら教養人として振舞っていたことが推測できるでしょう。

里見氏との抗争に敗れ、討ち死に

永禄元年(1558年)、古河公方・足利義氏が小田原城を訪問した際には、北条氏の五宿老の一人として綱景が拝礼を行っています。このことから、三代目北条氏康の代になっても引き続き北条家中で厚い信頼を受けていたことが理解できるでしょう。

しかし、家中で盤石の立場を築いていた綱景も、戦国関東の戦乱に飲み込まれる形で最期を迎えることになります。彼の死地は、江戸城からさほど離れていない東に位置する国府台城になりました。

この地は下総国の玄関口という要所であり、先ほども記したようにこれ以前からたびたび争いの火種になっています。

永禄7年(1564年)(※永禄6年という説もあり)、綱景と同じ江戸城代で娘婿でもあった太田康資は「江戸城主になれないこと」「葛西地域の支配権を譲るという約束が履行されていないこと」などを理由に、同族の岩付城主・太田資正を通じて上杉謙信に寝返りを図りました。

しかし、この情報を察知した北条氏は先手を打って彼らの合流を阻止。窮した康資は同族の大田資正の元へ落ち延びます。これに際して謙信は太田康資・資正の救援のために里見氏に援軍要請し、1万2千の里見軍が国府台へと派遣されました。こうして開戦したのが、第二次国府台合戦です。

国府台城を守備する千葉氏から援軍を受けた氏康は、綱景や北条綱成ら2万もの軍勢を派遣しています。

このとき、綱景は太田康資の離反を察知できなかったことに責任を感じていたという説もあります。そのためか、北条綱成の本隊よりも先行して攻撃をしかけるものの、逆に里見軍の反撃にあって嫡男の遠山隼人祐とともに討ち死にするのです。


【主な参考文献】
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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