「第二次国府台合戦(1564年)」北条と里見が激突!北条氏、上総国進出の足掛かりを得る

 関東に一大勢力を築いた「北条氏康」の前に立ちはだかったのは越後の龍と呼ばれた「上杉謙信」(当時は長尾景虎、以降は謙信の表記で統一します)でした。

 永禄4年(1561)、謙信は越山(関東侵攻)して北条氏の領土に攻め込み、その勢いで本拠地の小田原城まで進軍し、小田原城を囲いました。これより関東の国衆は上杉派と北条派に分かれ対立していきます。

 今回はその中でも関東への北条氏の影響力を取り戻すきっかけとなった「第二次国府台合戦」についてお伝えしていきます。

関東における北条氏の地位

第一次国府台合戦により関東管領となる

 かつて北条氏2代目当主である北条氏綱が嫡子の氏康と共に小弓公方である足利義明と戦ったのが、天文7年(1538)のことです。

 「第一次国府台合戦」と呼ばれるこの戦いで氏綱は義明を討ち、小弓公方を滅ぼしました。この勝利によって古河公方の足利晴氏は関東足利氏の正嫡の座を守ることができ、氏綱は関東管領に補任されます。

 さらに氏綱の娘(寿春院殿)が晴氏に嫁いだことで、北条氏は足利家御一門に加えられました。軍事力だけでなく、政治的な地位も手に入れた北条氏は関東で最も巨大な勢力となっていきます。

謙信が山内上杉氏の名跡を継承

 そんな北条氏の台頭に反発した関東の国衆が頼ったのが越後国の上杉謙信です。謙信は永禄4年(1561)、打倒北条氏の兵を挙げて関東へ侵攻しています。

 謙信は小田原城を包囲するまでに至ったものの、結果的に攻略はできませんでした。ただし、帰国前に鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、正式に山内上杉氏の名跡を継承しています。

 元来、関東管領は山内上杉氏が世襲しており、政治的な地位でも謙信は北条氏と並びました。そしてここから関東管領を称する北条氏と上杉氏のふたつの勢力が関東の覇権を巡って争っていきます。

※参考:上杉謙信の関東遠征(1560-61年)マップ。青マーカーは上杉方、赤は北条方の城。× は遠征中に上杉方に攻略された城。

 そして上杉氏と結んで北条氏と対立した勢力の代表格が安房国の里見氏です。里見氏は第一次国府台合戦のときにも北条氏と敵対する小弓公方に味方しています。この際には義明を早々と見限って撤退し、被害を最小限に抑えました。

 上杉軍の関東遠征の際には、謙信と手を結んだ里見義堯に葛西城を攻略されています。しかし氏康は巻き返しを図り、謙信が帰国した後の永禄5年(1562)にはこの葛西城の奪回に成功しました。

 さらに氏康は武蔵国の松山城や岩付城(岩槻城)の攻略にも動きます。松山城もまた謙信の小田原攻めに際して、岩付太田氏に奪われていたからです。

 里見氏は謙信からの援軍の要請を受け、永禄6年(1563)江戸湾へ出陣し、下総国市川に在陣しています。


第二次国府台合戦の発端

太田康資の離反

 ここで氏康を見限り、里見側に加わったのが、江戸衆寄親の太田康資です。

 江戸太田氏は関東の国衆の中でも最大の勢力を誇っています。そのため北条氏は江戸太田氏と縁戚関係を結んでいました。康資の母親は氏綱の娘(浄心院殿)ですし、正室は氏康の養女(遠山綱景の娘)です。実名の康資も氏康の偏諱を受けています。

 康資がここまで関わり深い北条氏を裏切ったのには、理由は戦功への見返りの不満があったと考えられています。北条氏が葛西城を奪回できたのは康資の功績であり、事前に葛西城を恩賞に与えるという約束がされていましたが、氏康は遠山綱景に葛西城を与えています。

 その他にも同心の太田宗真が北条直臣に取り立てられたため、家臣や領土を削減されたといった理由が挙げられます。

 しかし、康資の裏切りは太田次郎左衛門尉や恒岡弾正忠といった家老の反発にあって失敗し、康資は岩付城の太田資正を頼っています。

 江戸城代は富永氏、遠山氏、江戸太田氏と三人いましたが、江戸太田氏が欠けたために氏康は御一門衆の北条康元を江戸城に派遣し守りを固めました。

里見氏の援軍と氏康の出陣

 武蔵国の岩付太田氏の領土は謙信側の最前線であり、突出していましたから北条氏としてはなんとしても攻略したい地域です。

 岩付城を包囲して兵糧攻めを行う北条氏に対し、岩付太田氏の援軍として駆け付けた里見氏は兵糧米の搬入を図りますが、米を買い付けしたくても価格で折り合いがつかない状態が続きます。このあたりおそらく北条側の政治的戦略も功を奏したのではないでしょうか。

 里見氏の当主は永禄年間に義堯から嫡子である里見義弘に譲られています。岩付太田氏への援軍を率いた総大将はこの義弘であり、状況を打開できずに焦っていたと考えられます。

 逆にこれを好機と見た北条側の国衆が小田原城の氏康に報告。氏康はこの報告を聞いて自ら出陣を決意するのです。

第二次国府台合戦の経緯と結末

 永禄7年(1564)1月4日、氏康は諸将に小田原城への参集を命じていますが、迅速さが要求されるため、兵糧の準備は3日分で充分とし、後は北条氏が用意すると伝えています。

 同月5日には嫡子である氏政と共に出陣。7日には江戸城に到着しました。そして下総国市川の国府台目指して進軍します。以下、両陣営の主な武将です。

◆ 北条勢
  • 北条氏康
  • 北条氏政
  • 北条氏照
  • 北条氏邦
  • 北条綱成
  • 遠山綱景
  • 松田憲秀
など…
VS
◆ 里見勢
  • 里見義弘
  • 太田康資(江戸太田氏)
  • 太田資正(岩付太田氏)
  • 正木信茂
など…

氏政の活躍

 北条勢は氏康と氏政に兵を分けており、氏政が先に国府台を攻めています。

 先陣を務める遠山綱景、遠山隼人佑の親子、さらに富永康景は敵が退いたと思って深追いし、国府台を上る途中で里見勢に押し掛けられて崩れ、従者50人と共に討ち取られてしまいます。

 同じ城代を務める江戸太田氏の寝返りに気づけなかった責任を感じて、3人はかなり突出して攻め込んだと考えられます。

第二次国府台合戦マップ。色塗部分は下総国。赤マーカーは北条方、青は敵方の城。

 しかし、緒戦に敗れたものの、氏政の旗本が里見勢に襲いかかって押し返します。氏政の活躍で北条勢は総崩れすることなく持ちこたえることができました。

 この活躍に対し、将兵は氏政を「前代未聞の総大将」だと感じ入ったと記されています。

北条勢の勝利と江戸衆の再編

 その後、氏康は後続を召集して国府台の3里下へ移動。霞が立っていたことで里見勢はこの動きを察知することができませんでした。氏康はこのまま二手から里見勢を攻めて2000人の将兵を討ち、北条勢の大勝利となります。

 緒戦で江戸城城代らを討たれた北条勢でしたが、その後の逆襲によって、里見勢の正木弾正左衛門尉、里見民部、里見兵部少輔、薦野神五郎の他、加藤氏、長南氏など主要な将を討ち取っています。

 里見義弘も撤退し、同じく国府台に出陣していた岩付の太田資正、江戸の太田康資も逃げ延びました。

北条綱成のイラスト
「黄八幡」の旗を掲げたことで有名な北条綱成。このときの逆襲でも大活躍だった?

 この第二次国府台合戦では氏政の活躍の他、北条氏照、北条綱成、北条康成、松田盛秀の嫡子である松田憲秀、北条宗哲の嫡子である北条氏信らが大きな活躍をしたと記録されています。ただし、北条勢が城を陥落させたのは2月中旬頃と考えられているので、攻略はかなり難航したことが伺えますね。

 なお、江戸城城代の遠山氏は綱景の子で八大坊に入寺していた四男を還俗させ、継承させています。官途名は右衛門大夫、実名は氏政からの偏諱を受けて政景と名乗りました。

 同様に富永氏も11歳の嫡子である富永亀千代が家督を継ぎ、氏政の偏諱を受けて政家と名乗っています。

 このように第二次国府台合戦によって江戸衆の寄親は太田大膳亮以外すべて再編されたのです。北条氏の干渉はさらに強まったといえるでしょう。

おわりに

 北条氏はこの勢いに乗じて上総国の里見領へどんどん進出、さらに岩付太田氏が嫡子の太田氏資(氏康の娘婿でもある)が、当主の資正を追放して北条方に味方したこともあり、北条氏は関東での勢力を盛り返すことに成功しました。

 永禄10年(1567)の三船山の戦いで里見氏が北条氏を破るまでは、上総国での里見氏の影響力は低下していくのです。


【参考文献】
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団』(洋泉社、2018年)
  • 黒田基樹『図説 戦国北条氏と合戦』(戎光祥出版、2018年)
  • 伊東潤、板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』(PHP研究所、2017年)
  • 黒田基樹『 中世武士選書 戦国北条氏五代』(戎光祥出版、2012年)


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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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