室町13代将軍・足利義輝の外交政策…戦国大名は幕府再興の要。一方で朝廷は軽視?

 戦国時代の室町幕府は、京都や畿内を中心として、限られた範囲ではありますが、政治的な影響力を持っていました。ある程度は将軍の権威も保たれており、また、朝廷の他に、全国各地の戦国大名とも関わりを持っていたことも知られています。

 以上をふまえ、今回は室町幕府13代将軍・足利義輝の外交政策にフォーカスします。義輝といえば、永禄8年(1565)に三好三人衆の襲撃を受けて、非業の最期を遂げており、義輝と三好氏との関係性が注目されがちです。しかし当然ながら、朝廷や各地の諸大名とも関係構築をしていましたので、本記事ではこの点について掘り下げたいと思います。

外戚近衛氏と父義晴の朝廷活用

 足利義輝は天文5年(1536)に誕生しました。父は室町12代将軍・足利義晴、母は関白・近衛尚通の娘・慶寿院で、幼名は「菊幢丸」と名付けられました。

 天文15年(1546)に元服し、はじめは「義藤」と名乗り、天文23年(1554)に「義輝」に改名。同母弟には、最後の室町将軍となる義昭がいます。

 母・慶寿院の生家である近衛家は、公家社会最高の摂関家の家格でした。本来、足利将軍家の正室は3代将軍義満以降、日野家から迎えられていました。有名な事例としては8代将軍義政の正室・日野富子がいます。しかし、義晴は日野家からではなく、公家社会の頂点に位置する近衛家から正室を迎えました。この婚姻によって、足利将軍家と近衛家は相互に支えあう関係となりました。

 具体的には慶寿院の兄弟である近衛稙家・大覚寺義俊・聖護院道増・久我晴通等が義輝を支える存在であったことが指摘されています。さらに義輝自身も近衛稙家の娘・大陽院を正室としており、足利将軍家と近衛家の協力関係はますます強化されていったのです。

近衛家と足利将軍家の略系図
近衛家と足利将軍家の略系図

 父義晴は後継者・義輝のアピールの場として朝廷を活用しました。例えば義輝は誕生した翌年、義晴とともに参内しています。このとき義晴は、御供の人数を自身よりも義輝の方を多くしました。当然これは「まだ幼児ではあるものの、次期将軍は義輝である」と天皇や公家衆にアピールしたことが見受けられます。

 また、義輝単独の参内は天文11年(1542)12月にありました。まだ幼い義輝でしたが、このときは伯父の近衛稙家が一緒に付き添っており、後見役をしたとみられています。ここに将軍家と近衛家の協力関係の一端が垣間見えるとともに、参内を通じて朝廷に後継者義輝のアピールするねらいもあったと考えられます。

 その後、天文15年(1546)12月に義輝は義晴から将軍職を譲られ、室町幕府13代将軍に就任。義晴は将軍職を退きましたが、天文19年(1550)5月に亡くなるまで、義輝を補佐し、政治的な実権を持っていました。

義輝と各地の戦国大名

 続いて義輝と各地の戦国大名はどのような関係だったのでしょうか?

 義輝の主な外交政策として「戦国大名間の和睦調停」と「栄典授与」があげられます。まず和睦調停から取り上げましょう。

和睦調停

 戦国時代の日本は室町幕府の衰退に伴い、全国各地で戦乱が相次いでいました。

 もともと応仁・文明の乱以前は、各地の守護大名が在京して室町将軍を支えることが一般的でしたが、戦乱の時代には、大名が自身の領国を離れることは難しくなっていきます。義輝の時代、上洛した大名はいましたが、そのまま在京する大名は皆無でした。

 大名間の和睦を斡旋する義輝の目的は、かつての幕府の栄光を取り戻すことにありました。そのためには各地の戦乱の鎮静化、大名を上洛させて将軍を支える体制を構築することが必要でした。

 和睦が締結すれば、大名からの礼銭進上が期待でき、幕府の財政にもプラスに働きます。幕府再建のために大名間の和睦調停は、義輝にとって有効な政策だったのです。

 義輝の和睦調停の範囲ですが、東は奥州の伊達氏、西は九州の大友氏と全国各地に渡っており、積極的に和睦調停を行っていたとみられます。また、和睦調停に際しては現地に外戚の近衛一門を派遣する場合もありました。

 例えば、毛利氏・大友氏間の和睦調停では、聖護院道増・久我晴通が現地に派遣されました。とりわけ聖護院道増は東国にも派遣されており、義輝と東国の戦国大名の間を取り持ち、義輝と東国をつなぐ役割を果たしたと考えられています。義輝は調停成功のために信頼できる親族(近衛一門)を現地に派遣したのでした。

 しかし、義輝の和睦調停の効果には限界がありました。これは義輝が現地の状況に配慮できなかったことや義輝と現地の戦国大名との間で考え方のズレがあったためと考えられています。

 義輝としては戦争を終わらせ、戦国大名の上洛を望んでいましたが、その一方で、戦国大名は自家の存続や領国の維持・発展が第一でした。上洛することは、領国を長期間不在にすることですから、現実的に難しい側面がありました。

 つまり、戦国大名は無理のない範囲で義輝の要求に応えるのが現状だったため、義輝の和睦調停は不完全なものであったと考えられます。

栄典の授与

 栄典授与についてはいくつかの種類がありました。例えば「義」・「輝」・「藤」などの偏諱、官位の執奏、幕府役職・家格の授与などがあります。

 義輝時代の特徴については「御相伴衆」の授与事例が増えたことが指摘されます。御相伴衆を授与されると幕府内で最高の家格に位置づけられました。

 以下は義輝により、御相伴衆を授与されたのが確認されている大名です。

  • 尼子晴久
  • 斎藤義龍
  • 北条氏康・氏政父子
  • 三好長慶
  • 三好実休
  • 六角義賢
  • 大内義長
  • 毛利元就・隆元父子
  • 伊東義祐

 また、越後の長尾景虎(上杉謙信)に代々上杉氏が世襲していた「関東管領」の就任を認め、さらに「輝」の字を偏諱し、「上杉輝虎」と改名させたことは有名です。この他、永禄2年(1559)には奥州探題に伊達晴宗を、九州探題に大友義鎮(大友宗麟)をそれぞれ補任しました。

 これら上記の栄典授与の事例は義輝の治世にみられる特徴になります。このような義輝の行動については、これまでの探題や守護などによる統治システムのなかで、実力を持つ新たな勢力(戦国大名)を幕府の役職に補任することで幕府秩序の再編を目指したと考えられています。

 その一方で、奥州探題や九州探題は今まで足利一門が補任される要職でした。前例にとらわれず、足利一門ではない現地の有力な勢力(伊達氏・大友氏)に任じたことについて、足利氏の血統を上位とする政治的な秩序を、将軍義輝自身が貶めたとする見解もあります。

 この見解をふまえ、室町幕府の崩壊につながったとする見方もありますが、この点は今後の研究の進展が俟たれます。

義輝と朝廷

 前述したように、義輝は外戚の近衛家を通じて朝廷に太いパイプがありました。ところが、義輝自身は従来の室町将軍とは少し違う姿勢を朝廷に示していたのではないかと言われています。具体的には、自身の官位昇進に興味がないこと、改元を執奏しなかったことが指摘されているのです。

 義輝は将軍に就任した翌年の天文16年(1547)に従四位下・参議兼左近衛中将に昇進して以来、30歳で亡くなるまで官位の昇進はありませんでした(従三位に昇進したとする説がありましたが、近年は疑問視されています)。父義晴は20歳のときに従三位・権大納言に昇進しており、義輝は官位の昇進にあまり興味が無かったのではないかと考えられています。

 改元については、辛酉の年(永禄4年=1561年)と甲子の年(永禄7年=1564)に義輝から改元の執奏が無かったことが注目されます。なぜかというと辛酉の年と甲子の年は、辛酉革命・甲子革令(王朝の交替や災害が発生する年)にあたるため、通例では運気を改めるとして、平安時代から明治以前までの辛酉と甲子の年には必ず、改元が実施されてきました。

 室町時代の改元の執奏は足利将軍がすることが多かったですが、義輝は執奏せず、結局は永禄4年と永禄7年に改元は実施されませんでした。甲子の年で改元しなかったのはこのときだけであり、辛酉の年は永禄4年と元和7年(1621)のみです。義輝が改元を執奏しなかったという事実は、かなり異例のことであると考えられます。

 このように、従来の室町将軍と比較して官位の昇進に興味がなく、改元すべき年に改元の執奏を行わない姿勢から、義輝は朝廷との関係をあまり重視せず、距離を置いていたのでないかとみる研究もあります。

おわりに

 ここまで義輝の外交政策について、朝廷・戦国大名との関係に注目して取り上げてきました。

 義輝は和睦調停や栄典授与などを通じて、室町幕府による支配秩序の再編を目指していました。その一方で朝廷との関係においては従来の室町将軍とは異なる姿勢を見せていたことが窺えました。義輝は戦国時代という不安定な時代のなかで、試行錯誤の政権運営をしていたといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 木下昌規『足利義輝と三好一族』(戎光祥出版、2021年)
  • 谷口雄太 『〈武家の王〉足利氏』(吉川弘文館、2021年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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