徳川家康の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介

戦ヒス編集部
 2019/01/01
カード家康

徳川家康の様々なエピソードを対話形式(LINE風)でまとめてご紹介いたします。

  • 【原作】『名将言行録』など…
  • 【イラスト】Yuki 雪鷹
  • 【脚本】戦ヒス編集部

家康、元服時のふるまい(1555年)

これは弘治元(1555)年、竹千代(のちの徳川家康)が元服した時のことである。

━━ 駿府にて ━━

今川義元

竹千代よ。今年から松平家の本拠であった三河・岡崎城へ移り、統治を行ないなさい。

今川義元アイコン
徳川家康アイコン

家康

幼少のときより今日まで、いろいろお世話になり、また、岡崎城に帰参するようにとのこと、一方ならぬご厚恩でございます。

お指図どおり、岡崎に帰りますが、まだ若年の身でございますので二の丸におり、本丸にはこれまでどおり、山田新左衛門をそのまま置かれ、諸事意見を聞きたいと存じます。

今川義元

元信はとても若輩とは思えん。生来分別厚き人物で成長すればどのような者になるのか計り知れん。

氏真(=義元の子)のためにはよき味方だと思うと、わしも満足じゃ。亡き広忠(=家康の父)が生きておったらさぞ喜ばれるだろうに。

今川義元アイコン

といい、涙を浮かべたという。
また、これを伝え聞いた上杉謙信は・・

上杉謙信

元信は15にしてこのような智恵があるということは、文字通り、”後世可畏”だ。将来稀代の良将となるであろう。 ※後世可畏:後から来る若年者は、無限の可能性を秘めていて侮りがたい存在であるという意。

上杉謙信アイコン

といい、感歎したという。

家康の岡崎入城(1560年)

※原作:『名将言行録』

家康の守備する大高城に、織田方の刈屋城主・水野信元の使者・浅井道忠がやってきた。

── 尾張国 大高城 ──

浅井六之助道忠

申し上げます!桶狭間で義元殿が命を落とされ、今川方の城々はみな、開城を余儀なくされて退却しました。早く岡崎城へお帰り下さい!

家来アイコン

水野信元は織田家臣であったが、家康の叔父であったので、こうして使者を派遣してきたのである。三河の岡崎城は元々は家康の父・松平広忠の居城であったが、広忠亡き後は今川氏の城となっていた。

家康家臣アイコン

家康家臣ら

家臣A:殿!ここは急ぎ岡崎城へ戻るのがよろしいかと存じます。
家臣B:ささ、早くまいりましょう。

家康の近臣たちも、岡崎へ帰城することを進言するが、家康は、

家康アイコン

徳川家康

・・・。信元がわが母の兄弟であることは誰もが知っていることだが、今は敵同士。もしはかりごとによって、この城を明け渡して逃げ去ったと言われることがあったなら、弓矢を取る者の恥辱となり、後世の笑い草になるであろう。
六之助(=使者の浅井)を押しとどめておき、味方の知らせを待ち、そのあとに三河に帰るべきだ。

こう言って家康は二の丸から本丸に移り、軍備の配置を図った。

そして、その夜・・・

鳥居忠吉アイコン

鳥居忠吉

殿!よ、義元公がお討死なされましたー!

家康家臣の鳥居忠吉が家康の元に帰り、桶狭間での義元討死の報をしたのである。

家康アイコン

徳川家康

!!!
このうえは兵を返すことにしよう。しかし、夜は暗くて乱れる恐れがある・・。

そう言い、月が出るのを待ってから大高城を後にしたが、このとき、使者の浅井六之助に道案内をさせた。そして、三河の地鯉鮒(ちりふ)に着いた時、刈屋から討って出た一揆勢に遭遇。

浅井六之助道忠

水野下野守の使者・浅井六之助道忠が案内をしているところだ!

家来アイコン

六之助が大声で叫んだので、一揆勢は道を開いて、家康は難なく岡崎に到着することができたのであった。このときに殿(しんがり)をつとめたのは大久保忠俊であった。

翌日、岡崎城に入った家康は六之助を帰らせ、後日の証にと扇子を2つに裂いてその一方を手渡した。その扇子の骨は6本だったため、六之助は浅井家の家紋として長く伝えたという。

徳川家康、空城の計によって窮地を免れる(1572年)

※原作:『名将言行録』

元亀3年(1573年)12月、三方ヶ原の戦いで武田軍に大敗を喫した家康は、かろうじて浜松城に戻ってきた。

━━ 浜松城 ━━

徳川家康アイコン

家康

はぁ・・はぁ・・・。
元忠、これから引き上げてくる兵を収容するため、門を開くのじゃ。

鳥居元忠

承知いたした!

鳥居元忠アイコン

こうして武田軍の追撃を受けていた徳川兵も引き上げてきて浜松城へ入った。

徳川家康アイコン

家康

たとえ武田兵が追ってきても、わしのいる城にたやすく入らせることはせぬ。 はぁ、はぁ・・・。門を開けたままにして "かがり火" をいたる所に焚くのじゃ。

その後、侍女が湯漬け飯(ゆづけめし)を家康に差し出すと、これを三度も替え・・・

徳川家康アイコン

家康

わしはもう疲れた・・。

そう言って高いびきで寝てしまった。

━━━━━━━

一方で武田軍は追撃を行ない、浜松城近くまで攻め寄せてきていた。

山県昌景

むう・・
徳川の者らは門のトビラを締める暇もなかったとみえる。どう攻め入ろうか?

山県昌景アイコン
馬場信春アイコン

馬場信春

・・・。負けて引き返したならば、門を閉じて掛け橋も引くべきところ、そうせずにかがり火を焚いて白昼のようにしておる。

山県昌景

どういうことじゃ?

山県昌景アイコン
馬場信春アイコン

馬場信春

相手は海道一の弓取り。なにか策があるかもしれぬ。
軽々しく攻めるべきでなく、よく見届けてからがよいであろう。

山県昌景

ううむ・・。

山県昌景アイコン

こうして武田軍が躊躇しているところ、元忠らをはじめとする100余の徳川兵が城から打ち出てきたため、武田兵は退いていき、ついには攻めかかってこなかったのである。

信長へ2度も援兵を頼んだ家康(1575年)

天正3年(1575年)4月、武田勝頼の軍が大軍を率いて三河・長篠城を包囲した。いわゆる「長篠の戦い」である。

長篠城主・奥平貞昌は 「 家康 → 勝頼 → 家康 」という流れで服属と離反を繰り返しており、武田氏から離反したため、勝頼が攻め込んできたのである。

そして、これを知った家康は援軍を乞うため、岐阜の信長のもとへ家臣・小栗重常を遣わした。


━━ 【岐阜城】━━

小栗重常アイコン

小栗重常

こたびは家康公の使者として参りました。

織田信長

申してみろ!

織田信長アイコン
小栗重常アイコン

小栗重常

はっ!たったいま、甲斐の武田勝頼の軍勢1万5千もの大軍が、我が三河・長篠城を包囲しております。
何卒、織田殿に援軍をお願いいたしたく存じまする。

しかし、信長はこの援軍要請を拒否。

信長は武田家臣らの背信によって勝頼は近いうちに自然に滅びるであろうと考えていたのである。


━━ 【三河・岡崎城(家康居城)】━━

小栗重常アイコン

小栗重常

殿!信長は援軍をだす気はないようでござる。

徳川家康アイコン

家康

なにぃ!!? ぐぬぬっ!!

・・・ならばわしにも考えがある。重常よ。もう一度、岐阜へいって信長を説得するのじゃ!

小栗重常アイコン

小栗重常

はあ・・ しかし・・・・。

徳川家康アイコン

家康

わしは先年、信長と講和を結んで互いに助け合うことを約束した・・・。
六角義賢を退治して以来、数度にわたって信長を助け、大功を遂げさせておる。

信長がこの期に及んで加勢しないというならば、わしは勝頼と和を結んでその先鋒となり、尾張を攻め取って、遠江を勝頼に与え、わしは尾張を治めよう。

そちはこのことを密かに矢部善七郎に告げよ!

こうして家康の命により、重常は2度目の援軍要請として信長のもとへ向かった。


━━ 【岐阜城】━━

矢部善七郎

これは小栗殿、本日はいかがなされた?

矢部善七郎アイコン
小栗重常アイコン

小栗重常

実は・・かくかくしかじか・・・。

矢部善七郎

!!!
それはまことでござるか?

矢部善七郎アイコン

重常は信長側近の矢部善七郎に家康の密旨を伝えた。

そして再び信長に謁見して援軍の話をしたが・・・・

織田信長

その件は先日に断ったはずじゃ!!

織田信長アイコン

信長は許さず、再び家康の援軍要請を拒否した。

すると善七郎が重常より伝え聞いた家康の胸の内を信長に伝えた・・・。

矢部善七郎

殿!実は家康公がかくかくしかじか・・・

矢部善七郎アイコン

織田信長

!!なんじゃと!!?

織田信長アイコン

こうして信長は驚き、ようやく援軍をだしたのであった。

長篠合戦での家康の洞察力(1575年)

長篠の戦いの中で鳥居強右衛門は武田軍に包囲されている中で長篠城を抜け出て、信長や家康のいる岡崎城へ赴き、長篠城の窮状を伝え、まもなく援軍が出陣することを知った。

しかし、これを味方に知らせるために長篠城へ引き返した際に武田軍に捕えられ、磔にされて処刑されてしまった。

これに対して家康は周りの者に言った。

徳川家康アイコン

家康

勝頼は大将の器ではない。なぜなら勇士の使い方をわかっておらぬ!

鳥居のような剛の者はたとえ敵であっても助命して、その志を褒め称えてやるべきじゃ。
これは味方に忠義というものを教える一助になるのだ。自分の主君に対して忠義を尽くす将を憎いといって磔にすることなどがあるか?

家臣たち

周囲の者A:勝頼はひどいやつじゃ!

周囲の者B:殿の言うことはもっともじゃ!

その他大勢:そうじゃそうじゃ~~

家臣団アイコン
徳川家康アイコン

家康

そう思うじゃろ?今にみていよ。勝頼が武運尽きて滅亡するときは譜代恩顧の将たちも背くであろうから、浅ましいことじゃ!

と・・・。

実際、勝頼の末路は家康のこの言葉通りとなったのである。


また、家康は合戦を前に武田の陣をみて言った。

徳川家康アイコン

家康

敵が一手になって無理に押し切りかかってくれば、わが勢は弱気だから一気に崩れるであろうし、そうなると大軍の騒動は敗北のもととなり、立ち直ることはできぬ。

家臣たち

・・・・

家臣団アイコン
徳川家康アイコン

家康

しかし、武田の陣をみるとまともな陣立てじゃから1、2というように手を分けてわずかな軍勢を多勢にみせようとしておる。

武田は入れ替わりで攻めてくるはず・・・。そうすると、こちらは柵で支えて鉄砲を浴びせればわが軍勢の勝利に疑いないじゃろう・・。

と・・・。

実際、設楽原での両軍本隊による決戦は家康のこの言葉通りとなったのである。

家臣の諫言を許さない者は滅びる(1570~86年の間)

※原作:『常山紀談』『名将言行録』

家康が浜松を居城としていたころのことである。

━━ 家康居城・浜松城 ━━

ある日の夜、家康と本多正信の前で、とある家臣が懐から文書を取り出した。

徳川家康アイコン

家康

なんじゃそれは?

とある家臣

はっ。それがしが兼ねてから書きつけておいたものでございまして、恐れながらもご参考になることもあるかと思いましてご高覧いただきたく存じます。

家臣アイコン

これに対して家康は怒るどころか、むしろ感心して言った。

徳川家康アイコン

家康

ほほう。それは感心なことじゃ。
正信!それを読み上げてみよ。

本多正信

承知いたしました。それでは・・
え~かくかくしかじか・・・

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

うむうむ、それはもっともなことじゃ。

家康は一条ずつ読み終えるたびにうなずいていた。そしてすべてが読み終えると・・

徳川家康アイコン

家康

うむ。そちの志には感動して言葉もないぞ。
これからも遠慮せずに告げるがよい。つくつぐ感心なことじゃ。

とある家臣

ははっ!ありがたきお言葉。

家臣アイコン

こうして家康は繰り返し褒め、諫言をした家臣は退出していった。

そして家康は正信に訪ねた。

徳川家康アイコン

家康

正信。いま読んだことをどう思う?

本多正信

はい。殿のお役に立つようなことは特にないかと存じますが・・。

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

いやいや、そうではない。
先ほどの者が思ったことを書きつけたものだから、それはそれでよいのじゃ。

本多正信

??

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

もっともわしの参考にすることはないが、日頃から感じたことを書き留め、時機をみて、わしに見せようと思っておったその志は何にもたとえがたい。それが役に立つかどうかなどは関係ないのじゃ。

徳川家康アイコン

家康

自分の過ちというのは気づかぬものじゃ。
小身の者なら朋友との交わりなどがあるから過ちを知りやすいだろうが、大身の者は自分の過ちを知ることができぬ。

徳川家康アイコン

家康

大身の者の言うことが道理にかなっていなくても、それに異をとなえる小身の者はないものじゃ。大身の者の損というものじゃ。

徳川家康アイコン

家康

およそ人の上に立って諫言を許さぬ者で、国を失い、家が滅びなかった者は昔からないのじゃ。

本多正信

・・・さすがは殿。

本多正信アイコン

正信はのちに、子の正純にこのことを語り、涙したという。

諌める者の志(時期不明)

※原作:『常山紀談』『名将言行録』

ある夜、諌める者について家康が語ったとされる話である。

──

徳川家康アイコン

家康

総じて主君を諌める者の志というのは、戦場で先駆けするよりも勝っておる。

そして、家康はその理由を長々と語り始めた。

徳川家康アイコン

家康

戦いに臨んで1番に進み出ることは、身を捨ててのことではあるが、必ずしも討死はせぬ。

徳川家康アイコン

家康

たとえ討死しても名誉にもなるじゃろうし、幸運にも功をあげれば恩賞で子孫が繁栄する基にもなる。
だからその働きで得るものはあっても、失うものはないのじゃ。

徳川家康アイコン

家康

しかし、主君を諌める者は10のうち9までは危うい勝負じゃ。
主君が無分別で悪事を好むようならば、疎まれ、疎むようになる。ついには処罰され、また、妻子をも滅ぼすことになるものじゃ。
失うものはあっても、得るものがないものじゃ。

徳川家康アイコン

家康

"武功"というのは我が身の名誉や利益のためじゃが、その心を持って"主君への諫言"をすることはないじゃろう。

これが合戦での先駆けよりも "主君への諫言" が勝る理由である。

家康、秀吉と戦う大義名分を掲げる(1584年)

※原作:『名将言行録』

信長死後、柴田勝家を倒して織田家の覇権を握ったのは羽柴秀吉であったが、一方でないがしろにされた信長の二男・織田信雄は秀吉と不和になっていった。

やがて秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三家老を懐柔しようとするが、信雄が三家老を裏切り者として処刑してしまった。

こうして秀吉と信雄との戦いは決定づけられ、信雄は旧恩のある者たちを味方につけようとするが、誰も同意する者はいなかった。

━━ 天正12年(1584年)━━

織田信雄

くっ!もはや家康以外に頼れる者はおらぬ。

織田信雄アイコン

こうして信雄は家康に使者をだして、支援を求めた。


━━ 家康の居所 ━━

信雄の使者

織田信雄よりの使者として参上いたしました。

家来アイコン
徳川家康アイコン

家康

どのような用件でしょうか?

信雄の使者

はっ!かくかくしかじか・・・・
そして、もしできたなら父・信長との旧交を思われ、見捨てずにこのたびの危急を救っていただきたく、進退まさに極まれりといった有様でございます。

家来アイコン

これを聞いて家康は、あわれに思い、次のように言った。

徳川家康アイコン

家康

うむ。秀吉はいまやその権といい、名声といい、真に盛んではあるが、もともと今川の松下之綱の奴隷であったところを信長公の抜擢があって今があるのだ。それなのに旧恩を忘れ、正しい旧主の子孫を倒そうと謀るのは恩に背くことであり、義理に欠くことであろう。

徳川家康アイコン

家康

信長公の恩顧の者らも、秀吉に加担するのは、時の流れにしたがう習わしとはいえ、信義のない輩だ。
わしは信長公の生前に固く約束しあったこともあるから、いま、その子が困っているのをみても救わないというのでは武士たる者の本意ではない。

そして、使者に向かって言った。

徳川家康アイコン

家康

信雄殿の趣は承りました。秀吉が攻め入るならばすぐに手勢を連れてお味方いたします。
それがしが味方につけば、少しも恐れることはございません。一切ご心配は無用です。

信雄の使者

ははーっ!ありがたきお言葉にございます。

家来アイコン

使者が戻り、この旨を聞いた信雄はたのもしく思ったという。

家康、ついに秀吉へ降る!(1586年)

※原作:『名将言行録』

天正14年(1586年)、家康と和睦した秀吉は、家康を上洛させて支配下に置こうと企み、まずは妹の旭姫を家康の正室にさせたときのことである。

━━ 家康の居城・浜松城 ━━

徳川家康アイコン

家康

こうなってはもはや上洛しないわけにもいかぬ。

酒井忠次

殿!上洛する必要はございませぬ。どうか思い留まって下され。
そのために秀吉と敵対したとしても仕方ありませぬ。

酒井忠次アイコン

重臣たち

重臣A:酒井殿の言うとおりですぞ!
重臣B:秀吉ごときに降る必要などございませぬ!
他の重臣ら:そうじゃそうじゃ~

家臣団アイコン
徳川家康アイコン

家康

汝らはなぜそのように言うのじゃ?わし一人が腹を切って多くの者を助けようと考えておるのじゃ。

徳川家康アイコン

家康

わしが上洛せねば、かならずや秀吉とは敵対するであろう。さすれば100万騎で秀吉が攻め込んできても、討ち果たすこともできるが、合戦の習いとしてはそうばかりではない。

徳川家康アイコン

家康

わし一人が腹を切れば、みなの命を助けることができるのじゃ!

重臣たち

重臣A:うっ・
重臣B:ううっ・・・
他の重臣ら:・・・・。

家臣団アイコン

酒井忠次

殿!そこまでの御決意でしたら、それはもっともな事。上洛なさってくだされ。

酒井忠次アイコン

忠次の言葉には、他の家臣らも "老臣にふさわしい返事" だと感じ入り、こうして家康は上洛を決意したのである。

━━ 数カ月後 ━━

一方、秀吉が再び家康の上洛を促すため、母・大政所を人質として岡崎城に下向させると伝えてきた。

いよいよ上洛せざるを得なくなった家康は、井伊直政と大久保忠世に大政所を預かることを厳命して言った。

徳川家康アイコン

家康

万が一、上洛してわしが腹を切るようなことになったなら、政所を殺せ!
ただし、その侍女どもは助けて帰すのじゃ。家康は女どもをみな殺して腹を切ったとなれば、そのうわさは他国や末代まで伝わるであろうからのう。

井伊直政

はっ!承知いたしました。

井伊直政アイコン

こうして家康は上洛して秀吉に臣下の礼をとったのである。

そして何事もなく無事に帰国したため、徳川家中では「めでたいこと」と喜び、大政所も井伊直政を警護につけて大阪へ帰したのであった。

人質として送った秀忠、返される(1590年)

※原作:『名将言行録』

天正18年(1590年)、秀吉による北条討伐が行なわれる少し前、家康の息子・長丸(=のちの徳川秀忠)が秀吉と初対面するため、井伊直政らお供とともに上洛を果たした。



━━ 秀吉の居城にて ━━

豊臣秀吉

ふぉほほ。直政よ、家康殿はまことに幸運じゃのう~。よい男児を多く持たれたものじゃ。
長丸はおとなしそうでよい生い立ちじゃ~。

豊臣秀吉アイコン
井伊直政アイコン

井伊直政

はっ!

豊臣秀吉

しかしのう・・。髪の結い方や衣服がちょっと田舎びておったから、いま都風に改め、そして家康殿もさぞかし心配して待っておるじゃろうから、長丸を帰そう。
はやくお供して帰るのじゃ。ふぉほほ。

豊臣秀吉アイコン


━━ 家康の居城・浜松城 ━━

井伊直政

ただいま戻りました。

井伊直政アイコン
徳川家康アイコン

家康

おお!直政よ。長丸も帰ってきたのか。御苦労であった。
で、秀吉はなんと言っておった?

井伊直政

はい。かくかくしかじか・・・。

ということで帰れ、と。

井伊直政アイコン
徳川家康アイコン

家康

ふっ、なるほど。
要するに北条討伐に向けて、長丸を戻してやる代わりに我が城を貸せということじゃろうな。

家康は長丸を人質のつもりで上洛させたが、すぐに帰されたため、このように考えたのである。

徳川家康アイコン

家康

正信よ。話を聞いておったであろう。その準備をせよ。

本多正信

はい。おおせのとおりに。

本多正信アイコン

こうして家康は家臣に命じ、三河国より東の諸城や道・橋を改修していったのである。



━━ 3日後 ━━

本多正信

殿、秀吉から書状が届きましたぞ。

本多正信アイコン

そして、秀吉からの書状をみると、家康が考えたとおり、小田原征伐のために徳川の諸城を借りたいとの内容であった。

徳川家康アイコン

家康

うむ。やはり城を貸せということじゃ。

重臣たち

さすがは殿じゃ~。わいわいがやがや・・

家臣たちアイコン

家臣たちはみな、家康の先見の明に感心したのであった。

秀吉を接待せず(1590年)

※原作:『名将言行録』

天正18年(1590年)、ついに秀吉による北条討伐が開始され、秀吉が沼津城に軍を2~3日滞在されるという噂があったときのことである。



━━ 家康の居城・浜松城 ━━

本多忠勝

殿、沼津は徳川の領地。秀吉がこちらにくることは稀でしょうから接待しないわけにもいきますまい・・。

本多忠勝アイコン

榊原康政

しかし、まだそれを命じられないのは、どのようなわけでございますか?

榊原康政アイコン
徳川家康アイコン

家康

うむ。秀吉をもてなそうと思わないわけではない。しかし、考えるところがあって命じていないのじゃ。

井伊直政

??

井伊直政アイコン
徳川家康アイコン

家康

わしが思うに、秀吉という人は尋常ではない。俊敏な才で天下をおさめておる。

徳川家康アイコン

家康

だから秀吉に"才能ある者"と思われれば、何事にも妨げになる。万事において鈍であると思われたなら、きっとよい事が多いであろう。
だからこそ、わしは秀吉をもてなす事を命じないのじゃ。

と言い、ついに秀吉を接待しなかったのであった。

時期尚早(1590年)

※原作:『名将言行録』

秀吉による北条討伐が行なわれている中、秀吉が14、5騎という少数で宿営したことがあった。
これを好機ととらえた家康家臣らが秀吉を討つように進言したときの話である。

井伊直政

殿!まさに絶好の好機かと存じます。

井伊直政アイコン

榊原康政

いま(秀吉を)討ち取れば、天下は殿の手中におさまりますぞ!

榊原康政アイコン

家臣たちの進言に対し、家康は言った。

徳川家康アイコン

家康

もっともな事だが、秀吉の出陣はわしを頼りにしてのことであるのじゃ。飼い鳥の頭をむしるようなムゴイことはしないものじゃ。

榊原康政

!!

榊原康政アイコン
徳川家康アイコン

家康

武勇武辺というのは、その身に生まれつき備わっている幸運にはとうてい及ばぬもの・・・。秀吉は天下人となる幸運が元々なければ、今のように天下人にはなれておらぬ。

徳川家康アイコン

家康

そのようなムゴイことをするのは、敵を恐れるあまり、無理に相手を討とうとする "あせり" のようなもの・・。
時を待てば、そのようなことをせんでも自然に時機はくるのじゃ。まだ早すぎる。

家康はこのように言い、家臣たちを諌めたという。

九戸討伐での出陣順序(1591年)

※原作:『名将言行録』

天正19年(1591年)、豊臣政権による奥州仕置に反発して起こった九戸政実の乱で、家康が武州岩附(=埼玉県岩槻)の城まで出陣したときのことである。

━━ 武州岩附にて ━━

徳川家康アイコン

家康

直政!そちは軍備がととのい次第出陣して、蒲生や浅野に力を貸して、九戸の軍力を計るのじゃ。

井伊直政

ははっ!

井伊直政アイコン

本多正信

殿。恐れながら・・・・。
直政は徳川家の大切な執権でございますれば、このたびの討ち手は、まず直政よりも下の者を遣わし、それが叶わなかったときにこそ、直政を遣わされるのがよいかと存じます。

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

正信よ。そのようなことは思慮のない者がすることじゃ。わしの婿・北条氏直などのような者がな。

本多正信

!!

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

なぜなら、最初に軽い者を遣わし、埒が明かないからと言って、重い者を遣わせば、はじめに行った者は面目を失い、討死するほかないであろう。そうすれば、理由もなく家臣を殺すことになるため、まことに惜しいことではないか。

東国へ出陣する理由(1600年)

※原作:『名将言行録』

これは家康が会津征伐で関東へ向かっていたある時、ひそかに重臣の本多正信、井伊直政、本多忠勝、榊原康政を呼んで語った話である。

━━ 慶長5(1600)年6月 ━━

徳川家康アイコン

家康

よう聞け。こたびの上杉景勝の謀反は1人のことではない。関西の諸大名の多くが上杉と通じており、その中心となっているのは石田三成、増田長盛あたりであろう。
わしが関東に下れば上方(=京都や大坂を初めとする畿内を指す)が蜂起することは間違いない。

井伊直政

!!

井伊直政アイコン
徳川家康アイコン

家康

だからわしは関東へゆっくりと下って江戸に留まり、上方の形勢をうかがうつもりでおる。おぬしらもこのことをよく聞いて心に留めておけ。

本多正信

・・・・殿。恐れながら。
そのようなお考えでしたら、毛利、宇喜多、島津、立花らを会津に向かわせて、殿は大阪で秀頼公を守護する旨のお触れをだされるのがよろしいかと。。

本多正信アイコン

榊原康政

うむ。さすれば石田らの挙兵をゆるすまい。

榊原康政アイコン

井伊直政

たしかに・・

井伊直政アイコン

本多忠勝

上方にて石田ごとき、この本多平八郎忠勝が成敗してくれるわ!

本多忠勝アイコン
徳川家康アイコン

家康

・・・(こやつらわかっておらぬな。)

本多正信

関東へ下られれば関西の連中はいよいよ旗をあげることでしょう。

本多正信アイコン

このように重臣4人は同じ意見であった。しかし、家康は・・・

徳川家康アイコン

家康

おぬしらの申していることは全くもって間違っておるわ!

本多正信

    

!!!

本多正信アイコン
徳川家康アイコン

家康

毛利や宇喜多らを会津へ向かわせれば、必ず上杉方に味方し、江戸を攻めてくることになる。そのときにわしが関東へ下ろうとすれば、石田や増田らに付く将は我が先にと、わしを追撃してくるであろう。
さすれば我が軍は敗北を喫し、江戸は敵の手に落ちる。

本多忠勝

むむうっ・・。

本多忠勝アイコン
徳川家康アイコン

家康

関東はわしの基盤じゃ。

たとえ全国の諸大名がみな背いたとしても、わしが関東におったならば、わが兵で奮戦すれば何も難しいことはない。わしはここ数年このように考えておる。

だからこそわしは日頃から身分を問わず、わしと同じ志を持つ輩や、勇ましく義を重んじる諸将らをこの東征に従軍させたのだ。

榊原康政

そういうことでございますか。

榊原康政アイコン
徳川家康アイコン

家康

こうした輩はたとえ上方が大騒乱となったとしても、わしに属するであろう。だからわしは上方の動きにかまわず、東国へ向けて出陣するということなのだ。

井伊直政

・・いつもながら殿の明察には感服いたしまする。

井伊直政アイコン

本多正信

さすがは殿でございますな。

本多正信アイコン

こうしてみな、家康の考えに感心しきりであった。

会津征伐の最中、のんきに鷹狩り?(1600年)

※原作:『名将言行録』

これは家康が会津征伐で関東へ向かっていた道中の駿府で宿営していたときの話である。

━━ 慶長19年(1600年)6月 ━━
【駿河国・駿府にて】

家康は上杉景勝や直江兼続らを討つため、大阪から関東へ下る途中、駿府(=静岡県静岡市葵区)に滞在しており、軍の陣営の用意もせずに一日中、鷹のことにかかりきりであった。

本多忠勝はこのことを諌めようと家康の前へ行くが、このときも家康は鷹匠(=主君の鷹を飼って、鷹狩りに従事する者)を集めて鷹の”へお”(=鷹の脚に結びつける紐のこと)等を吟味していた。

徳川家康アイコン

家康

ん?なんじゃ忠勝。

本多忠勝

・・・。
少々申し上げたいことがあり、参上いたしました。
・・お人払いを。

本多忠勝アイコン

忠勝は仏頂面でこう言い、そして家康は奥の間へ入った。

本多忠勝

殿はいま、上杉景勝をお討ちになるためにここまでいらっしゃったわけでございます。
しかるにその支度をなさらず、鷹のことばかり。いたずらにここに留まっておられるうち、上方では乱をおこす者もでてくるでございましょう。もしそうなればいかがなされるつもりでございましょうか?

本多忠勝アイコン
徳川家康アイコン

家康

忠勝。鷹のことにかかりきりのわしが「うつけ」にみえるか?

本多忠勝

さよう。ただただ徳川家の滅亡に向かっているように存じます。

本多忠勝アイコン

すると、家康は忠勝の口を押さえて言った。

徳川家康アイコン

家康

だまれ!こうせねば天下は取れぬ。

わしが"うつけ"となり、上杉攻めに時間をかけなければ、上方で乱は起きぬのだ。わからぬか?
こうしておれば、やがて上方で乱が起きるであろう。

本多忠勝

!!

本多忠勝アイコン
徳川家康アイコン

家康

そうなれば、ここからすぐに引き返して上方の謀反人どもを打ち従えよう。さすれば天下はわが物よ。そうなったらお前もついに国持ち大名になるのだ。

本多忠勝

そうなりましたら一段とめでたいことでござりまする。

本多忠勝アイコン

そういって忠勝は退出した。

━━━━━━━

やがて家康の言ったように石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いとなった。

徳川方が関ヶ原で勝利した後、その戦功によって伊勢国桑名藩(現在の三重県桑名市)10万石に移された忠勝は、このことを村上左衛門に次のように語り、腹を立てたという。

本多忠勝

殿が前々から仰せられていたことはまるで"さすのみこ"(=よく当たる陰陽師の意)のようだ。しかし拙者へ国を下さるというお仰せだけは違っていたわ!

本多忠勝アイコン

忠勝は国持ち大名とまではいかなかったということである。

関ヶ原への転進の時(1600年)

※原作:『名将言行録』

家康が同年9月1日に江戸から関ヶ原へ転進するときの話である。

石川家政

殿。今年は今日が西塞(にしふさがり)です。できれば他の日に出発するのがよろしいかと・・。

石川家政アイコン
徳川家康アイコン

家康

それならば、わしが出発してそれを開こう。

家康はそう言い、決戦の地に向けて出発したという。

小早川秀秋の寝返りに喜ぶ家康(1600年)

※原作:『名将言行録』

9月14日の決戦前日、家康が南宮山の敵を巡視したとき、本多忠勝が家康に寄ってきて言った。

本多忠勝

殿!小早川秀秋は我らに味方しようと、既に黒田長政を使者として人質を取り交わしました。

本多忠勝アイコン
徳川家康アイコン

家康

なにぃ!?なぜ秀秋は寝返ったのじゃ?
ならば戦はすでに勝ったも同然じゃ!!

家康が声を大にして言ったため、周囲の者らはこれを聞き、喜び勇むことこの上なかった。

そして家康は小西正重・西尾伊兵衛の2人を秀秋の陣のある松尾山につかわして、様子をうかがわせ、2人が帰ってきて声高に報告した。

小西正重

殿!やはり秀秋は寝返るようです!

小西正重アイコン
徳川家康アイコン

家康

フフフ。そのようなことは小声でいうべきことじゃぞ。もし秀秋が裏切らなかった場合は気落ちするからのう。

宇喜多詮家に対し・・(1600年)

※原作:『名将言行録』

関ヶ原の戦いのとき、宇喜多詮家(のちの坂崎直盛)が家康に会って言った。

宇喜多詮家

それがし、粉骨砕身でご奉仕いたします。

宇喜多詮家アイコン
徳川家康アイコン

家康

それはそれは。ご念の入ったご挨拶ですな~。

家康がそう言うものの、近臣の者は警戒し、「(宇喜多詮家は)あいさつがあまりにも丁寧すぎる」と家康に進言した。

これに対して家康は・・

徳川家康アイコン

家康

・・あのような者には、このように言っておくのがよいのだ。

と言ったという。

冬の陣の密事。家康、豊臣との和睦に偽文書を利用?(1614年)

※原作:『名将言行録』

大阪冬の陣(1614年)での激闘は和睦という形で終結した。これは家康による狡猾な密事で成し得たという和睦の舞台裏の話である。

━━ 慶長19(1614)年 ━━

徳川家康アイコン

家康

わかっておるな?秀頼公と淀君だけにお見せするのじゃぞ・・・。

京極忠高の母

かしこまりました。

京極忠高の母アイコン

大阪冬の陣が終盤を迎えている中、家康は豊臣方との和睦に向け、京極忠高の母と阿茶局(=あちゃのつぼね、家康の側室)を使者として淀君・豊臣秀頼のもとへ向かわせた。

ちなみに京極忠高の父が京極高次であり、その正室が淀君の妹・常高院、側室が京極忠高の母(山田氏)である。

━━━ 大阪城にて━━━━

淀君

淀君

本日はどのような御用でございましょうか?

京極忠高の母

実は・・家康公が真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永の3人へ書状をつかわしたところ、それぞれ返書を受け取りました。

京極忠高の母アイコン

真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永の3人は大阪の陣で豊臣方に味方した主力な将である。

そして、京極忠高の母はこの3人の徳川宛ての書状を淀君と豊臣秀頼へ手渡した。

淀君

淀君

・・・
・・・・・
・・・・・・・

!!! こっ、これは!

秀頼

母上!!いかがなされたのです?書状をおみせくだされ!!

豊臣秀頼アイコン
淀君

淀君

このような物はにわかには信じられぬ!

・・・この3つの書状をみてみよ。

3人の家康への返書には、それぞれが徳川方に味方する旨の内容が書かれていたのである・・・。

秀頼

そ、そんな!!

し、しかし・・、この筆跡や花押は彼らのものでございまする。

豊臣秀頼アイコン
淀君

淀君

それはまことか!?

秀頼

・・・・・はい。

豊臣秀頼アイコン
淀君

淀君

くっ!!

京極忠高の母

家康公は「この書状は御母子様にお目にかける筋のものではございませぬが、お伝えせねば秀頼公が諸牢人らに捕えられて当方へ差し出されることにもなりかねず、そうなれば双方にとっても好ましくないので、よく御相談なさっていただきたい」と・・・。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

また、家康公は「秀頼公も大阪でご自由になり、自分も既に年老いているから駿府へ帰りたい」と。
そして「将軍(秀忠)は年も若く、孫娘の千姫のこともかわいそうなので、是非とも和談になさるように」と申しております。

京極忠高の母アイコン

実はこの交渉で使った3人の返書は家康が事前に作らせた偽の書状であり、3人の花押や手跡をそっくりにし、徳川方に味方することを承諾するような内容に仕立てたのものであった。

しかし、秀頼は書に通じていて3人の花押や手跡を知っていた。このため熟慮することもなく、淀君の意向であっさりと和睦交渉となったのである。

家康の謀略?冬の陣の和睦条件で大阪城を埋める!(1614年)

※原作:『名将言行録』

大阪冬の陣(1614年)の戦いは徳川方が大阪城を完全包囲し、砲撃戦とともに水面下で和睦交渉を進めるなど終盤を迎えていた。これは家康がその和睦条件に大阪城の堀の埋め立てを要求し、和平を成立させたときの話である。

─ 慶長19年(1614年)─
【大阪城周辺 徳川陣営】

徳川秀忠アイコン

秀忠

こたびの戦、ともかく豊臣を攻め滅ぼさねばならぬ。

本多正信

ふう・・。殿がそうは申しましても大御所様(=家康のこと)は強く和平をお望みのようでござりまするぞ。

本多正信アイコン

家康は冬の陣で豊臣方との和睦による終結を考えていたが、秀忠は和睦に否定的でしきりに豊臣家を滅ぼすことを主張していた。
しかし、父の命に背くこともできない秀忠はやむを得ず、ついに折れて和睦の意向を示した。

徳川秀忠アイコン

秀忠

・・・和談としてもかまいませぬ。

しかしながら、秀頼が拙者にたてつくので父上のご意見によって和平となっても、何かその証拠がなければ帰陣するわけにも参りませんし、秀頼もよく考えて拙者も面目がたつようであれば、父上におまかせします。

こうした秀忠の意を伝え聞いた家康はぼやいた。

徳川家康アイコン

家康

ううむ・・・。秀忠はわしと違っていらぬところに意地をはるところがある。それが事のほか大きな欠点じゃ。
しかし、そのことを悪いといっても持って生まれたものであるから、今すぐに変えられるものでもない。

ああだこうだと言っているうちに、また秀忠が和談しないなどと言い出しては、これまでの苦労が無駄となろう。

かくなる上は秀頼公にもわしの意見を申し上げるとしよう。

そして家康は秀頼に以下のような旨を伝えた

  • 将軍秀忠は生まれつき意地の悪い者だ。
  • 事が伸びれば心配。自分の和平の意見が無になる。
  • 秀頼も秀忠へ隔心ない証拠として外の堀を埋めてほしい。
  • 秀忠と話し合って外の堀をざっと埋めればそれを機に早々和平としたい。
  • 秀忠も秀頼の籠城の苦労を思って急いで帰城し、自分もはやく駿府に戻って鷹狩りなどして、安心して老後をいたわりたい。

こうしてついには徳川と豊臣との和平が成立したのであった。

-- 大阪城 --

和睦が成立すると、徳川方はさっそく本多正純(=本多正信の長男)や安藤直次らを普請奉行として埋め立てに取り掛かった。やがて埋立工事は外曲輪の堀だけではなく、二の丸の堀も始められてしまった。

これに豊臣方は"約束が違う"と言ってきたので、本多正純は普請を行なう年配の物頭(=足軽大将)に外曲輪の堀以外の堀は埋め立てないように下知した。

物頭たち

はっ!かしこまりました。

家来アイコン

しかし、正純がいなくなると・・・

物頭たち

・・・・

ふんっ!無礼者めが!!

家来アイコン

おもしろくない物頭たちは悪口を言いながら、大阪城の堀を埋めたいように埋めてしまった。

これを知った淀殿や秀頼は阿玉(おたま)という女房頭を使者として本多正純らに状況を伝えて抗議。
しかし、正純は生まれつき口が悪く、阿玉に対して「いい女だ」などと乱暴な事を言う始末であり、もう一人の普請奉行の安藤直次も何の返答もしなかった。

らちのあかない豊臣方は家康に談判するしかないという事になり、阿玉に大野治房を付けて京に上らせたのであった。

-- 京都二条城 --

阿玉ら豊臣方の使者に対し、家康に代わって本多正信が応対した。

本多正信

拙者のたわけ者のせがれは下知する術も知らずに残念です。すぐに事の起こりを家康公にお伝えします。
しかし殿はここ2、3日少し風邪を患っていらっしゃるのでご回復したらお伝えいたします。

本多正信アイコン

このように返答した徳川方であったが、そのまま時が立ち、正信もまた、体調不良を理由に出仕せず、しまいには京都所司代の板倉勝重に再び豊臣からの催促が来たが、勝重は本多正信の病気がよくなり次第、お伝えすると答えたままであった。

そうこうするうちに時は過ぎていき、ついに大阪城の堀は本丸まで埋まってしまった。

再び豊臣の使者がやってきて家康は大阪城の現状を伝え聞いた。

徳川家康アイコン

家康

仰せはごもっともでございます。なぜこのように埋めてしまったのか合点がいきぬのですが、さっそく佐渡守(=本多正信)を差し出して下知させましょう。

こう言うと家康は本多正信を使者として大阪に派遣。そして正信が大阪城へ赴くと、堀はすでに本丸まで埋め立てられており、工事の者は一人もいないという状況であった。

これを知った正信はあわてて家康に報告した。

本多正信

これまで堀を埋めぬようにとのお使いで参りましたが、無分別者どもが早くも全部埋めてしまい、面目なき次第でございます。
こうなってはもはやどうしようもありませぬ。

きっと拙者のせがれをはじめ、不調法者どもは殿のお叱りを受けることでござりましょう。ともかく拙者は帰ります。

本多正信アイコン

正信はそう言って帰ってしまった。その後、家康は・・・

徳川家康アイコン

家康

フフフ。秀忠もこれで和平することじゃろう。。

と言って関東へ下向したのであった。

冬の陣の密事。家康、豊臣との和睦に脅迫作戦?(1614年)

大阪冬の陣(1614年)の終盤、家康は大阪城を包囲して砲撃すると同時に、和睦交渉も進めていた。これはその和睦に向けた家康の謀略の話である。(『名将言行録』より)

─ 慶長19年(1614年)─

家康は大阪城の攻略に1度目は調停をかけておいて、2度目に攻め落とそうと謀った。名城の大阪城でも長陣となれば必ず過ちがあると考えていた。

そして大阪城を堀り崩させようと、多くの坑夫(=採掘作業に従事する労働者)を集めようとしていた。

徳川家康アイコン

家康

近国の坑夫を集めよ!

こうして丹波国にいる坑夫を京都所司代の板倉勝重に集めさせることに決定した。

この命を聞いて板倉勝重は、丹波の坑夫だと城を堀り崩す術がないとして、代わりに遠くの甲州の坑夫を呼び寄せて色々とたずねた。

甲州の坑夫

ここよりも難しい堀でもたやすいことです。ましてこれくらいの城を堀り崩そうというのは簡単な事です。

坑夫アイコン

これに対して板倉勝重が "山の岸はともかく堀の深い水堀はそう簡単にいかないのでは?"と 疑問を投げかけると、甲州の坑夫はさらに言った。

甲州の坑夫

板で箱を作り、堀の底へそれを入れれば通ることもできますし、その箱のこしらえ方については特別の方法があります。

家来アイコン

こうして板倉勝重は檜の板を取り寄せて大工を集め、甲州の坑夫に作り方を指図させて箱をつくり、山のように積み上げたのであった。

そしてちょうどその頃、家康は豊臣家の縁者の線をたどり、京極忠高の母を使者として大阪城に派遣した。

──【大阪城内】にて──

京極忠高の母

本日は家康公の意をお伝えしに参りました。

京極忠高の母アイコン
淀君

淀君

どのようなことでございましょう?

京極忠高の母

はい。将軍・秀忠公は気が強く、いま大阪城を堀り崩して豊臣家を滅ぼそうと、わざわざ甲州から坑夫を呼び寄せております。

京極忠高の母アイコン
淀君

淀君

!!!

京極忠高の母

武田信玄の時代に度々堀り崩した功者にたずねたところ、簡単に堀崩せるとのことだったので、秀忠公は諸大名に命じてその準備をしたようです。

京極忠高の母アイコン
淀君

淀君

そのような話を信用しろというのですか?

京極忠高の母

秀忠公が堀底を潜れる方法もあろうと言い、様々な材木を集めさせて山のように積み重ねたのはまことの事でございます。
家康公は「疑うようであらば、人を遣わせてご覧くだされ」 と申しておりました。

京極忠高の母アイコン
淀君

淀君

くっ!!

京極忠高の母

家康公はこれを色々と止めてはみたのですが、秀忠公が承知しなかったようで、「このままだと豊臣を攻め滅ぼすということになり、ひと方ならぬ心配だ」と案じておられました。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

また、「秀忠は秀頼公にこそ申し分はあっても孫娘の千姫にはなんの関係もなきこと。秀頼公が滅ぼされたならば、千姫もまた、滅びてしまうであろう」と。
そして「この年まで生きながらえていて、孫が理由なく滅んでいくのを目の前でみなければならぬとはなんとも致し方なきことだ」 と深く嘆き悲しんでおられました。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

家康公は「秀忠は秀頼の舅であるから、少し気に入らぬことがあっても婿分だということで堪忍してほしい。」と。そして「秀忠と秀頼が仲直りをするようにし、拙者の死後も2人が協力して天下が治まるように分別を働かせてほしい」と・・・。

京極忠高の母アイコン

京極忠高の母

秀頼公も母公もそのようなお考えであれば、家康公も秀忠公に意見をして、孫を助けたいとのことでございます。

京極忠高の母アイコン
淀君

淀君

・・・。
(このままでは秀頼も豊臣も危険かもしれぬ・・・)

淀君

淀君

家康公のお気持ちはよくわかりました。そういう事であれば当方としてもこのまま戦を続けるわけにもいきませぬ。

こうして思慮の浅い淀君は子・秀頼の身ばかりを案じ、調停にのってしまったのである。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

  • このエントリーをはてなブックマークに追加