徳川家康の外交(独立編) 鳴くまで待とうホトトギス…家康の前半生における、粘り強い忍耐の外交手腕

 家康の前半生における外交で、もっとも有名なのは、織田信長との同盟でしょう。今川氏から独立した家康は、この同盟によって後顧の憂いが無くなり、三河の平定や今川との戦いに専念することができました。

 近年の研究では、信長との同盟関係は徐々に対等な関係から徳川氏が織田氏に従属する関係に変容していったと考えられています。しかし、少なくとも同盟締結から本能寺の変までの20年余り、家康と信長が敵対することはありませんでした。このため、家康の前半生の外交政策として、織田氏との外交関係はクローズアップされやすい傾向にあるようです。

 しかし、家康は信長以外にも様々な外交政策を展開していたことはあまり知られていません。そこで本記事では、今川氏からの独立~本能寺の変における家康の外交、特に織田氏以外の外交政策について掘り下げたいと思います。

今川氏からの独立直前の外交

 永禄4年(1561)4月、今川氏から独立した家康ですが、その直前、独立に向けての準備とみられる外交を2つ実行しています。

 1つは織田信長との和睦(同年2月頃)。2つ目は室町幕府13代将軍足利義輝に馬を献上したことです(同年3月)。

独立準備その1:信長との和睦

 1つ目の信長との和睦については、苅屋の水野信元の仲介で実現しました。

 水野信元は家康の伯父にあたり、当時は織田方に属していました。松平氏と織田氏は長年対立関係にありましたが、この和睦によって織田氏と松平氏の領土の境目が確定され、これ以降両氏が敵対することはありませんでした。

 なお、通説では家康が清州に赴いて、「清州同盟」を結んだとされていますが、同時代史料では家康が清州に赴いたことが確認できないことや、そもそも今川氏と戦争中で元康が清州を訪問する余裕はないだろうと予想されることから、近年の研究では和睦はしたものの、元康の清州訪問については無かったものと考えられています。

独立準備その2:将軍への献馬

 2つ目の将軍義輝への献馬については、義輝が諸大名に馬を求めたことがきっかけでした。

 家康は将軍義輝の要望にいち早く応じ、直接室町幕府と外交関係を構築することができました。今川氏よりも上位の足利将軍と関係を構築することで、足利将軍家を中心とする秩序の中で、家康は敵対勢力よりも優位に立とうとする意向があったと考えられています。

 当時、家康は今川方の大給松平氏や足助鱸氏などと対立していましたが、大給松平氏などは足利将軍家と直接外交関係を持てる立場ではありませんでした。このため、家康は足利将軍と直接関係を持つことで、敵対勢力に家格の違いを見せつけることができました。

 このように独立直前の家康は、信長との和睦だけでなく、幕府との外交関係にも重きをおいたうえで、今川氏からの独立を画策していたのです。

関白・近衛前久との交渉

 家康の独立した当時、三河国内には今川方の勢力が数多く存在していました。松平氏の一族でも深溝・青野松平家は家康に味方しましたが、前述の大給松平家は今川方につきました。

 家康と今川氏との戦いは、双方譲らずに一進一退の攻防が続いて、長期化。そうした状況下の永禄6年(1563)7月頃、名を「家康」に改名しています(これまでの名は「元康」)。元康の「元」の字は今川義元からの偏諱でしたが、これを棄てることで今川氏との戦争を継続することを明示したと考えられています。

 その後、三河一向一揆(1563~1564)などもあり、戦況は混迷しましたが、幸いなことに同じ頃、今川領の遠江国の国衆等が相次いで今川氏から離反していました。当主の今川氏真がその対応に忙殺されている間に、家康は三河国内の反対勢力の制圧に成功します。

 永禄9年(1566)5月にはついに三河国を平定、その後、家康は自身を頂点とする三河支配の公認を朝廷から得るため、「松平」から「徳川」への名字改姓と、官位叙任を目指しました。

 室町時代、武家が官位を得るにあたって、朝廷への申請は足利将軍を通じて行われていましたが、三河平定当時は室町幕府の将軍が不在でした。三河平定の前年に足利義輝が永禄の変(1565)によって殺害されてしまったためです。その後は、足利義昭(義輝弟)を擁立する勢力と足利義栄(義輝従弟)を擁立する勢力の間で激しい対立が生じており、将軍不在の時期が続いていました。

 このため、家康は関白の近衛前久を通じて名字改姓と官位を得るための交渉を進めます。紆余曲折ありましたが、交渉の結果、永禄9年(1566)12月に家康は従五位下三河守の叙任を認められました。

 ここに戦国大名徳川家康の三河支配が公認されたのです。

「徳川三河守」を認めたくなかった足利義昭

 ところが家康の徳川名字の改姓や官位叙任を認めたくない人物がいました。それはのちの15代将軍・足利義昭です。

 信長と共に上洛した義昭は、永禄11年(1568)10月に征夷大将軍に就任。家康はこのとき、義昭上洛の援軍として家臣を派遣しており、上洛の手助けをしました。なお、義昭に先立って14代将軍となっていた義栄は、義昭の上洛前後に病死しています。

 さて、この頃の将軍義昭と家康の関係を示す史料から、義昭は家康を「松平蔵人」と呼んでいることが確認されています。家康は三河守に任官される以前、「松平蔵人佐」と自称していたことは確認されていますが、義昭が将軍になった時点では、すでに「徳川三河守」を名乗っていました。つまり、義昭は意図的に家康を「松平蔵人」と呼んでいたと考えられています。

 なぜ、義昭は「徳川三河守」と呼ばなかったでしょうか。その理由に以下の2点が指摘されています。

  • ① 徳川名字改姓と官位叙任に関し、義昭の許諾を得ていなかった
  • ② 名字改姓等を仲介した近衛前久と足利義昭の関係の悪さ

 ①については前述のとおり、室町時代は武家が官位を得るにあたって、朝廷への申請は足利将軍を通じて行われていました。つまり、足利将軍の許諾が必要でした。しかし、当時は室町幕府の将軍が不在のため、近衛前久を通じて申請手続きを進めました。義昭からすれば、徳川名字改姓と官位叙任は勝手に進められた案件でした。

 ②については、義昭と対立関係にあった足利義栄の将軍宣下に近衛前久が関与していたためです。この経緯から義昭の上洛時に近衛前久は京都から一時出奔しています。

 この①と②の要因から、義昭としては、徳川名字改姓と官位叙任は、未承諾のまま進められたうえ、敵対する義栄に協力した近衛前久が仲介した案件であったため、認めることができなかったと考えられています。

 こののち、信長との対立の末に元亀4年(1573)に京都を追放された義昭は、京都の復帰を目論んで、各地の戦国大名に協力を求めました。その中に家康もいましたが、その際には家康を「徳川三河守」と呼んでいることが確認されています。

 これは家康を味方に引き込みたいがために、義昭は徳川名字改姓と官位叙任を認めたということでしょう。あまり知られていませんが、室町幕府最後の将軍と江戸幕府最初の将軍となる2人には、このような接点があったのです。

信長以外の周辺の戦国大名とも同盟

 三河平定を成し遂げた家康は今川氏との戦いに傾注していきます。一方で、徳川領国の北に接する甲斐・信濃の戦国大名武田信玄は、今川氏・北条氏との間で「三国同盟」を結んでいました。しかし、義元亡き以降の今川領国の混乱振りをみて、信玄は今川領国への侵攻を画策するようになり、今川氏と敵対する織田・徳川両氏に接近。

 やがて信玄と家康は、今川領国の領有の条件として、駿河国=武田氏、遠江国=徳川氏、という内容で交渉がまとまり、永禄11年(1568)12月には今川領国に同時侵攻しています。この侵攻により、戦国大名今川氏は滅亡しました。

今川滅亡時(1569年頃)の家康と周辺大名の外交。この後も武田氏を中心に、和睦と対立は繰り返された。
今川滅亡時(1569年頃)の家康と周辺大名の外交。この後も武田氏を中心に、和睦と対立は繰り返された。

 ところが、信玄は別働隊を遠江国に侵攻させたため、家康は信玄を危険視するようになり、両者の関係は悪化していきました。そうした中、家康は元亀元年(1570)10月には、越後の上杉謙信と同盟を結んで、信玄と断交しています。

 上杉謙信といえば、武田信玄と長年敵対していたことで知られていますね。実は家康と謙信との外交関係については、家康と信玄との同盟以前からあったことが指摘されています。また、謙信との交渉は家康から申し込んだことがわかっており、家康は信玄との同盟交渉と同時期に、謙信とも交渉していたことが指摘されているのです。

 おそらく家康は、同盟成立前から信玄のことをあまり信用していなかったのでしょう。信玄と対立したときに備えて謙信とも友好関係を構築していたとみられます。なお、上杉氏との同盟は、後年信長が上杉氏と敵対する過程で消滅したとみられます。

 家康はさらに、謙信の後継を巡って勃発した御館の乱(1578~1580)をきっかけに、武田氏と断交した北条氏と、天正7年(1579)9月に同盟を結びました。北条氏とは永禄12年(1569)から2年間同盟を結んでいたため、再度の同盟になります。北条氏は武田氏とは同盟と敵対を繰り返しており、武田と敵対するときは徳川氏と同盟をしていました。

 このように家康は、その時々の情勢で、信長以外にも、武田・上杉・北条といった周辺の戦国大名と積極的に外交をおこなっていたのです。

おわりに

 冒頭で触れたように、家康の外交といえば信長との同盟というイメージが強いと思いますが、実際には信長以外の戦国大名のほか、朝廷や室町幕府とも外交関係を構築していました。

 天正10年(1582)3月の、信長による甲州征伐(武田攻め)では、家康は北条氏とともに援軍を出しており、武田滅亡に貢献。戦後は三河・遠江・駿河を支配する3か国の大名となりました。

 武田氏の脅威がなくなったことで、家康は今後は安泰と考えていたかもしれません。しかし、武田氏滅亡後の3ヶ月後には「本能寺の変」で信長が急死。家康の外交情勢は急変(天正壬午の乱の勃発)することになるのです。

以下、本記事の続編として、本能寺の変以後の家康の外交に関する記事もありますので、ぜひご覧いただけますと幸いです。



【主な参考文献】
  • 小川雄・柴裕之編『図説徳川家康と家臣団』(戎光祥出版、2022年)
  • 柴裕之「室町将軍足利義昭と徳川家康」(『戦国史研究』63号、2012年)
  • 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
  • 柴裕之『青年家康-松平元康の実像―』(KADOKAWA、2022年)
  • 平野明夫「信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」(平野昭夫編『家康研究の最前線―ここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2016年)
  • 丸島和洋「武田・徳川同盟に関する一史料――「三ヶ年之鬱憤」をめぐって」(『武田氏研究』56号、2017年)
  • 宮川展夫「徳川氏と北条氏の関係は、関東にいかなる影響を与えたのか」(平野昭夫編『家康研究の最前線―ここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2016年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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