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  • 北条五代
 2019/06/10

「北条氏規」今川での人質生活の経験を生かし、外交で活躍した北条御一門衆

静岡県伊豆の国市の韮山城の土塁(手前)と本丸跡(奥)
静岡県伊豆の国市の韮山城の土塁(手前)と本丸跡(奥)

北条氏規(うじのり)は北条氏の家臣で北条氏康の四男として主に外交面で活躍した人物です。

戦国期といえば、やはり「戦い」のイメージが強いかもしれませんが、そこに至るまでの「外交」という手段は、現代とそう変わることのない重要性をもっていました。したがって、外交面の役割は家中でも位が高く、主君が信頼を置いている人物に任されることが多かったポジションでもあります。

このように、北条家で重要な地位を占めることになる氏規がどのような生涯を送っていたのか。文献や史料に基づいた形で解説していきます。
(文=とーじん)

幼少期は家康と同じで今川の人質に

天文14年(1545年)、氏規は北条氏3代当主・北条氏康の四男として誕生しました。

江戸時代以降、通説では「北条氏康の五男」と考えられていたので、ここで アレ?と思った方がいるかもしれません。実は近年の研究で四男と目されていた氏邦が五男であった可能性が指摘されるようになり、最新の研究では氏規を四男とするのが一般的です。

家康とは幼なじみだった?

母は氏康正室の今川氏親の娘・瑞渓院殿であり、幼名を 「助五郎(すけごろう)」といいました。

『言継卿記』によれば、彼は幼少の頃に今川氏の人質として祖母の寿桂尼に預けられて以来、駿府(現在の静岡県静岡市葵区)で生活を送っています。

また、史料の上で彼は「次男」と記されており、これは「北条姓を名乗る氏康の息子」として見た時、対外的には彼が「次男」であると解釈されていたためでしょう。

さらに、『武徳編年集成』によれば、当時は徳川家康も今川の人質として駿府におり、氏規の隣屋敷に住んでいたといいます。これが事実ならば、ここで家康と知り合ったことが、後年になって彼の「外交官」としての立場に大きく関係してくることになります。

今川家臣・関口家の後継者になるはずだった?

そして、注目すべきは氏規が元服も今川義元の下で行なっていることです。ここから「助五郎」という幼名が、伝統的に今川家の幼名として採用される「五郎」を継承していることが推測できます。さらに、「氏」の一字も「北条氏康」から取ったものではなく、「今川義元」から今川家古来の通字として与えられた可能性があるのです。

これらの点から、今川家の家臣で「助五郎」を通称していた「関口家」という家柄の後継者として同家に送り込まれていたという仮説が成り立ちます。この計画が遂行されていれば、氏康六男の「上杉景虎」と同じような位置づけの人物になったのかもしれません。

もっとも、理由は不明ですが永禄7年(1564年)には北条領国で彼の活動が確認されるようになり、関口家の家督継承は白紙になったと考えられます。これは、当時の関口家が家臣離反の責任を取って処刑されたためと推測されており、そのことが原因で氏規は北条家の一員として小田原へと舞い戻ったのでしょう。

北条の「外交官」として能力を発揮

北条家へと帰還した氏規は北条綱成の娘を娶り、彼が一時的に管理していた相模国三浦郡の支配権を引き継いだと目されています。

この地はもともと早くに病没した北条氏綱の三男・北条為昌が管理していた領地であり、彼の死後は表向きは綱成でしたが、実際には氏康が管理していたようです。そのため、氏規は為昌の後継者として目されていたのでしょう。彼は三崎城を建築し、その地を本拠と定めました。

こうして御一門衆に位置付けられた氏規は、主に外交面で成果を見せるようになります。里見氏との外交交渉や長南武田氏の奏者を務めるなど、房総半島との結びつきも深かったようです。

永禄12年(1569年)武田信玄が徳川家康と示し合わせて駿河侵攻を開始した際には伊豆国韮山城に入り、家康と同盟交渉にあたっています。これは先ほど述べたように氏規が幼年期から家康と旧知の間柄であったことが関係しているのかもしれません。

天正7年(1579年)には北条氏政武田勝頼との間で同盟が破棄されると、氏規は再び韮山城へ入り、西国での軍事的緊張に備えていたようです。

また、氏規は非常に多く他大名との交渉を担当しており、徳川家だけでなく伊達家・武田家・豊臣家との関係も深かったと推測できます。彼が後年に豊臣家との徹底抗戦派と袂を分かった理由としては、同家との交渉でその脅威を十分に認識していたからかもしれません。

天正10年(1582年)には武田勝頼が信長によって滅ぼされ、武田の所領であった甲斐・信濃・上野は織田の領地となりました。しかし、その後すぐに本能寺の変で信長が横死したことでこれら武田旧領は大混乱に。同地をめぐって「天正壬午の乱」と呼ばれる争奪戦が勃発します。

この戦いの主役は徳川氏と北条氏でしたが、長期戦の末に両者は和睦して同盟を締結し、そこで氏規は同盟交渉を担当しています。その後は、伊豆を離れて上野国館林城の城将となりました。

豊臣政権とのパイプ役を務める

やがて天下の趨勢が豊臣家へと傾いていく中で、氏規は秀吉への臣従を主張します。そのため、自身のコネクションから家康を介して豊臣政権との交渉役を担っています。

そして、天正16年(1588年)には秀吉からの上洛要請に対し、当主・氏直に代わって氏規が秀吉に謁見したことで北条氏もついに秀吉に臣従する形となりました。その後は北条領へ戻って再び伊豆国韮山城へ入っています。

しかしながら、翌天正17年(1589年)に北条家臣で沼田城代の猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を襲撃するという事件が勃発。この沼田領一帯は北条氏と真田氏が長く抗争を繰り広げていた土地であり、やむなく秀吉が仲裁に入って所領の分担を決めたばかりのことでした。(いわゆる沼田裁定)

この事件により、かねてから北条家の振舞いに憤りを覚えていた秀吉の堪忍袋の緒が切れ、北条攻めの決意をさせてしまいます。

これに対し、北条家は氏政をはじめ、一門の氏照ら有力な武将たちも徹底抗戦を主張。そうした中でも氏規はあくまで服従の道を模索しますが、結局は彼らの力に屈する形となって開戦を受け入れざるを得ませんでした。

北条滅亡後は豊臣家臣に

こうして天正18年(1590年)に豊臣政権による北条討伐が開始。氏規は韮山城へ籠城して豊臣の大軍を前にしばらくは善戦したものの、最終的には家康の説得を受けて開城しています。その後は氏政・氏直父子に降伏を勧める役目を果たし、氏規の予想通り北条氏は降伏して小田原城も開城となってしまいました。

戦後、開戦派とみられた氏政・氏照らは処刑されましたが、かねてより開戦に後ろ向きだった氏規は北条氏直とともに高野山へ追放され一命をとりとめています。

のちに秀吉に許されると、翌天正19年(1591年)に河内国丹南郡、文禄3年(1594年)に河内国河内郡に所領を与えられ、豊臣家の将として晩年を送りました。そして、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の前に病没しています。


【主な参考文献】
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。





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