「浅井亮政」北近江の国衆を束ねて下克上を果たす

 天下布武を掲げて勢力を拡大する織田信長を裏切り、窮地に追いやったのが北近江の戦国大名だった浅井氏です。浅井氏といえばやはり有名なのは、信長の妹を娶った浅井長政ですが、その浅井氏を一家臣の立場から北近江の最大勢力まで大きくしたのが、長政の祖父である「浅井亮政(すけまさ)」です。

 はたしてどのような人物だったのでしょうか?今回は亮政の生涯についてお伝えしていきます。

京極氏の後継者問題

浅井直種の子として誕生

 浅井氏は、近江国・隠岐国・出雲国・飛騨国の守護を務める京極氏の家臣であり、亮政はその浅井氏にあっても庶流の浅井直種の子として、延徳3年(1491)に誕生しました。

 ただし、浅井氏当主である浅井直政に男子がいなかったため、亮政は嗣養子として直政の娘・蔵屋を娶り家督を継ぎました。このとき、勝政という名から亮政に改名しています。

 当主といっても京極氏の一家臣に過ぎず、北近江の国衆のひとりです。とても北近江を制するような力は持っていません。『東浅井郡志』によると、亮政の武勇を褒め称えながらも、どれだけ負けても勝利への希望を失わない粘着性の強い意志をしていたとも評価されています。

 何があっても諦めず、コツコツと成果を積上げて周囲の人望を得ていく器量が亮政にはあったのではないでしょうか。それが浅井氏の下克上を成功させる鍵になっていきました。


京極髙清を追放する

 大永元年(1521)、京極氏の執権だった上坂家信が亡くなり、さらに大永3年(1523)には京極氏の後継者問題が勃発します。

 当時、京極氏の当主は京極高清で、高清は二男である京極五郎高慶(高佳、高吉)を後継者にしたいと考えましたが、長男である京極六郎高延(高広、高明)を支持する家臣たちとで家中が二分されてしまいます。

京極氏の略系図

 亮政は高延を支持し、有力者である浅見貞則との相談のもと国衆の一部を率いて小野江城に立て籠もります。国人一揆です。高清と高慶は今浜を出陣しますが、亮政らの軍勢に敗北して尾張国へと落ち延びていきました。その後、高延が小野江城に入り、北近江を制圧、京極氏の当主は実質的に高延となり、執権の座は上坂氏から浅見氏に切り替わりました。

 この京極氏後継者争いに貢献したのが亮政であり、国衆をまとめてクーデターを成功させたことによって京極氏家臣の中での発言力を強めていきます。

六角氏との抗争

六角氏の小谷城攻め

 大永5年(1525)、実権を握っていた浅見氏を、亮政は国衆をまとめて対抗し、浅見氏を北近江から追放します。さらに上坂氏の家督を継いでいた上坂信光と和解したことで尾張国から京極高清も帰国できるようになりました。亮政は小谷城を築城し、ここに京極丸を築いて高清・高延親子を迎え入れています。

 しかし、この北近江の混乱に乗じて南近江を支配する六角定頼が領土拡大に動きました。北近江はどんどん侵攻され、やがて小谷城も攻められます。

観音寺城跡にある六角定頼の騎馬像
観音寺城跡にある六角定頼の騎馬像

 そのまま攻城戦が続けば小谷城も陥落していたでしょうが、南近江で一揆が起き、六角氏と京極氏の和議が結ばれました。このとき六角氏の援軍として細川高国が駆けつけている他、越前国の朝倉教景(宗滴)も登場しています。

 『寺院雑要抄』では朝倉氏は京極氏の援軍として駆けつけたとされており、ここから朝倉氏と浅井氏の関係が強化されたと推測されていますが、一方で『朝倉家伝記』では六角氏の援軍として北近江を攻めたと真逆のことが記されています。こちらの通りであれば、亮政は敗北し、高清・高延親子と共に美濃国まで逃亡しました。

 どちらにせよ、和睦によって六角氏との領土問題は一時持ち越ししています。

小谷城の復元模型
小谷城の復元模型(出所:wikipedia

箕浦合戦の敗北

 その後も北近江の京極氏・浅井氏と南近江の六角氏の抗争は続きました。結果的に見ると亮政は完全に押され気味です。争いの構図は以下になります。

  • 浅井陣営:細川晴元、京極氏、浅井氏
  • 六角陣営:細川高国、足利義晴、六角氏

 例えば享禄4年(1531)1月、亮政は管領の座を巡って細川高国と争っていた細川晴元に呼応し、高島郡に兵を派遣します。このとき高国に擁されていた将軍・足利義晴は坂本へ避難しました。4月には箕浦合戦で六角氏と激突し、亮政は敗北しています。

 しかし、敗北した亮政が滅びずに、さらに力を盛り返せたのは、打倒六角氏という共通目標のもとに北近江の国衆をまとめあげたからです。ただ、将軍家と強いつながりを持っている六角氏は強敵であったので、亮政は常に苦戦を強いられました。粘り強さが信条の亮政だからこそ、六角氏相手にここまで対抗できたのかもしれません。

名実ともに京極氏の執権となる

主家を饗応し存在感を示す

 亮政が北近江の実質的な支配者であることを示したのは、天文3年(1534)8月に主家である京極氏(高清・高延親子)を小谷城で饗応したことです。

 御座敷には髙清・高延親子の他、京極氏一門衆や代々仕えてきた有力家臣たちが名を連ねています。他の近習や外様も次の間で同じように湯漬をふるまわれていますが、この饗応によってはっきりとした序列が示され、亮政は名実ともに執権としての存在感を内外にアピールしました。そしてこのときから亮政による安堵状も発行されるようになったのです。

 しかしこれに反発する勢力もいました。同じ御座敷に名前が記載されている多賀豊後守資隆です。侍所所司代という名門の家柄であり、おそらく亮政のような国衆のひとりが台頭することを受け入れられなかったのでしょう。翌天文4年(1535)には六角氏に通じて反旗を翻しています。

 亮政はすぐに資隆の屋敷を襲撃しましたが、隣郡の今井氏が資隆に加勢したために敗れています。

京極氏との対立

 天文7年(1538)には高清が病没。再び高延が家督を継ぐことになりましたが、ここで再び弟の高慶が家督相続を巡って挙兵します。

 上坂氏や若宮氏などはお家存続のため、高延派と高慶派に分かれ、同族で戦い合いました。標的にされたのは佐和山城で、六角氏も高慶を支持して軍勢を送り込んでいます。そのため佐和山城は高慶に奪われ、亮政や高延は小谷城に退きました。六角氏は高慶と上坂定信をそこに置いて拠点に帰還しています。

 この時点で亮政は事実上、六角氏に降伏しているような状態であり、高延の京極氏当主としての権威は失墜していたのではないでしょうか。六角氏側の高慶と高延がどのような和睦を結んだのは定かではありませんが、おそらく高延にとって不利なものだったと思われます。

 それを認めた亮政に対し、裏切り行為と判断したのか、高延は天文10年(1541)亮政討伐の兵を挙げました。亮政はついに主家と敵対することになってしまったのです。

 亮政と高延の紛争は解決せぬまま、翌天文11年(1542)に亮政は病没してしまいました。法名は救外宗護。

おわりに

 亮政と正室との間に生まれた嫡男である浅井新四郎政弘は、早くに亡くなっていたので、浅井氏の家督は浅井新九郎久政が継ぎます。

浅井久政の肖像画
浅井長政の父で知られる新九郎久政

 そしてここからしばらくの間、浅井氏は六角氏と京極氏に板挟みにされた状態を耐えていくのです。戦って負けるシーンの多かった亮政ですが、裏を返せばそれだけ六角定頼が巨大な存在だったのでしょう。これだけ合戦に敗北しながらも北近江で最大の勢力になれたのは、亮政が武勇や人望に優れた人物であったことを証明しています。

 北近江の地で国人一揆をきっかけとして下克上を成功させた英雄、それが浅井亮政なのです。


【参考文献】
  • 宮島敬一『浅井氏三代 』(吉川弘文館、2008年)
  • 長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江』(長浜市長浜城歴史博物館、2008年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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