丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 真田幸村
 2019/04/17

日本一の兵 真田幸村の子孫はどこへ?真田一族の血脈を探る

松代藩真田家の菩提寺である長国寺。ここに真田幸村・大助父子の供養塔も。
松代藩真田家の菩提寺である長国寺。ここに真田幸村・大助父子の供養塔も。

大坂の陣といえば真田幸村の鬼神のような戦いぶりが印象的であるが、実は幸村の本名は「信繁(のぶしげ)」である。 後世の講談などで幸村という名で登場し、大人気を博したことで「幸村」の名のほうが有名になり、そのまま定着してしまったというのが事実であるらしい。

さて、大坂夏の陣で真田信繁は討ち死にするのだが、その子孫は残っているのだろうか。豊臣氏の忠臣であっただけに、男系の一族は根絶やしとなったと思いがちであるが、どうやらそうでもないことがわかってきた。(文=pinon)

幸村(信繁)直系の子孫の今

意外かもしれないが、信繁はずいぶんと子宝に恵まれた。まずは、男子の系統を調べてみた。

<a href='https://sengoku-his.com/yukimura'><a href='https://sengoku-his.com/400'>真田幸村</a></a>(信繁)の系図
真田幸村(信繁)の系図

幸昌(ゆきまさ)

講談などでは「大助(だいすけ)」という名で通っているため、本名はあまり知られていないが、幸昌はれっきとした信繁の嫡男である。大坂夏の陣では若年でありながら、道明寺の戦いに参戦し、敵将の首を取ったという。

『魁題百撰相 滋野大助』(真田幸昌の見立絵、月岡芳年作)
『魁題百撰相 滋野大助』(真田幸昌の見立絵、月岡芳年作)

史実では、大坂城落城の際に速水守久に脱出を勧められるも、秀頼に殉死することを選択したということになっているので、幸昌の血統はここで絶えたわけである。

しかしながら、一方で豊臣秀頼とその子国松とともに鹿児島へ逃れたという伝承も存在する。何の裏付けもないため、研究者の間では単なるデタラメであろうという評価が大半のようである。

ところが、関係者の子孫の間では、また違った見方が存在する。

豊臣秀吉の正室おねの子孫である木下家19代当主木下崇俊氏によると、秀頼の子国松が幸昌とともに鹿児島へ逃げて、その後に日出藩(ひじはん)木下家に匿われた、という一子相伝の言い伝えがあるのだという。

崇俊氏の父は幼い頃、この言い伝えを祖母に暗唱させられたというから驚く。秘伝であるだけに表立った証拠があるわけではないが、ここまで徹底した伝授のされ方をみると、大助は本当に鹿児島に落ち延びたのかもしれない。

だとすると、その子孫が今も存在している可能性はゼロではないだろう。

守信(もりのぶ)

守信(幼名は大八)は信繁の次男である。

高野山・蓮華定院に残る記録には、「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」とあるという。「印地打ち」とは石投げのことであるが、守信は、いつかは不明ながら石投げの最中に石にあたって死んだというのだ。

しかし、この記述には腑に落ちない点がある。

もしこれが大坂の陣前の出来事とするなら、守信はまだ3歳にも満たぬ幼児である。幼児が石投げに参加するというのは不自然ではないか。しかも、守信は信繁の蟄居中に紀伊国九度山で生まれており、京都に行く機会はないはずなのだ。

大坂の陣後だとしても、徳川の徹底した落人狩りのさなかに京都で石遊びするなど自殺行為に等しい。どうやら、守信を死んだことにしたい理由があったようなのだ。

仙台真田家の祖・真田守信の肖像画
仙台真田家の祖・真田守信の肖像画

実は、守信は大坂城落城の折、信繁家臣の我妻佐渡によって、京都の伊達家家臣である片倉家の元に護送されたという。 大八の身の安全を考慮して、石遊びで死んだということにしたとすれば辻褄が合うのではないだろうか。

同じく大坂城落城の際に、信繁の三女阿梅(おうめ)を伊達家重臣の片倉重長が連れ帰っている。

阿梅は重長に生け捕りにされたという記述も残っているが、大八の件も考え合わせると、信繁の子女たちを意図的に保護したと勘ぐられないように「生け捕り」するふりをした可能性はある。

これは、予め真田・片倉・伊達の間で何らかの密約が存在した可能性をも示している。

守信の系統である仙台真田家14代当主の真田徹氏の話によると、片倉家と真田家はどちらも信州が発祥の地であるという。 そして、仙台真田家に代々伝わる話では豊臣政権の頃、真田屋敷と片倉屋敷が極めて近い距離にあったのだそうだ。

ここまでのつながりがあれば、密約が存在していてもおかしくはないと思われる。 もしかすると、伊達政宗は戦上手の信繁のDNAを持つ守信を片倉家でしっかり養育してもらい、幕府と一戦交えるという時には、軍師として活躍してもらおうと考えていたのかもしれない。

荒唐無稽な論に聞こえるかもしれないが、『東奥老子夜話』によれば、政宗は幕府軍と戦うことを想定し作戦を立てていたというから、あり得ないことではないだろう。

さて、話を大坂城落城の頃に戻そう。

その後、阿梅は片倉重長の側室となり、正室が亡くなると阿梅が継室となったという。一方、守信は仙台藩に仕え真田四郎兵衛守信と名乗った。幕府から詰問状が届いたものの、大八は当に死んでいて守信は真田信尹の次男・政信の子であると申し開きをして難を逃れている。

守信の系統が現在まで続き、現在の当主が真田徹氏であることは前述の通りである。

幸信(ゆきのぶ)

幸信は信繁の三男である。大坂城落城の2か月後に生まれたという。真田信繁の子であるということを秘すため、母が豊臣秀次の娘であった縁から三好姓を名乗った。

その後は、出羽亀田藩主岩城宣隆(いわき のぶたか)の側室となっていた姉の御田姫(おでんひめ)のつてで、宣隆の元で暮らすようになる。元服すると三好幸信と名乗り、380石の禄を与えられたと記録にはある。

1667年に幸信が没するとその子、隆長が家督を継いだ。その系譜は今も続いているという。

その他のウワサ

その他にも、プロ野球選手兼コーチの真田裕貴氏や将棋プロ棋士の真田圭一氏なども信繁の末裔であるという噂があるが、詳細は不明である。

幸村(信繁)傍系の血脈はどうなった?

信繁には3人の兄弟がいたとされる。信繁の傍系の血脈は江戸時代以降どうなったのであろうか。

信之(信幸)

信之は昌幸の長男である。弟の信繁の活躍があまりにも華々しかったので、地味な印象のある信之であるが史料によると、また違った姿が浮かび上がってくる。

『松城通記』には、信之が本能寺の変後の混乱期にあたる1584年に、北条氏邦の奇襲を察知し、吾妻仙人窟にてこれを撃退したとある。軍略に優れた真田のDNAを、信之もしっかり受け継いでいたようである。

関ヶ原の合戦においては、徳川家康の東軍についたため、西軍についた昌幸・信繁とは袂を分かつことになってしまう。

信之は家康の重臣本田忠勝の娘小松姫を正室としていた手前、東軍につかざるを得なかったろうし、信繁は豊臣秀吉の家臣大谷吉継の娘竹林院(ちくりんいん)を正室としていたため西軍につくことになったと思われる。

父昌幸は秀吉に本領を安堵された恩もあるだろうが、第一次上田合戦をはじめとして家康と度々対立していたことから、そりが合わなかった可能性はある。

結局、関ヶ原の合戦では家康率いる東軍が勝ち、信之は上田藩9万5,000石を拝領することとなる。その後松代藩13万石に移封された信之は93歳という長寿を全うしたという。

松代真田家はその後明治維新まで存続し、維新後は伯爵を授爵する。現在の当主は14代目真田幸俊氏である。

幸俊氏は工学博士にして慶応大学教授の職にあり、無線通信研究のかたわら、松代藩真田十万石まつりに毎年参加していることでも知られている。

また、松代真田氏の分家も同様に存続しており、現在の当主は14代真田幸光氏である。幸光氏は、愛知淑徳大学教授で国際金融論の専門家として知られている。

信勝

信勝は真田昌幸の三男である。しかし、生母も生年も不詳と、かなり謎多き人物であるようだ。死没した年も諸説あり、1609年に戸田半之丞を京で斬殺し雲隠れしたとも、殺されたとも言うが、はっきりしたことはわかっていない。

昌親(まさちか)

真田昌幸の四男である昌親は、関ヶ原の合戦時には兄信之に従い東軍についたことで生き残った。その子信親の代には松代藩から内分分知され2,000石の旗本となる。

信親には子がなく、信就の七男信弘を末期養子とするが、信弘は4代目が不在となった松代藩の養子となった。その後、内分分地による所領は松代藩に返還されたという。

言い伝えによると…

之親(ゆきちか)

信繁には四国に落ち延びたとする伝承が存在する。

「四国説」については、『全讃史』に信繁が1616年に讃岐の細川国弘の元に匿われたとある。2年後には、地元の農民の娘との間に子をもうけるが、この男子が之親であるという。

之親には娘がいたと言い、その娘が国弘の孫である太夫の元に嫁いだ。その子孫は当初石田姓を名乗っていたが明治維新後は、真田姓に改姓したといいその子孫は今も存続しているそうである。

瓢左衛門(ひょうざえもん)

豊臣秀頼が信繁・幸昌父子に伴われて鹿児島へ落ち延びたという伝承も残されている。

それによると、大坂夏の陣後に薩摩の船で鹿児島に落ち延び、一行はとりあえず谷山に居住したという。 その後、信繁は揖宿郡頴娃村(いぶすきぐんえいむら)に移り、同地で生涯を閉じたとされる。

この地で信繁は百姓娘との間に男子をもうけるも、幕府の残党狩りをかいくぐるために母を別府大川の浦人に嫁がせ、その子を養育させたと言われる。

この男子が瓢左衛門である。姓は真田をアレンジして真江田(まえだ)を名乗ったという。真江田家は幕末に薩摩藩より苗字帯刀を許された。そしてその系譜を今に伝えているが、その墓には真田家の家紋である六文銭が刻まれている。

あとがき

真田信繁の血脈は現在も続いていることが確認できたが、特徴的なのは信繁生存説が複数の地域に残っているということである。 普通に考えるならば、複数の地域に生存説が残っていること自体が信憑性の低い証だということになる。

ところが、戦国武将は影武者が複数いる場合が多いということを考えると、少々事情が異なってくる。実は、大坂の陣の後の首実検において「信繁の首」とされた首が3つあったという。そのうち、西尾久作のとった兜首のみが名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、信繁の首と認定されたのである。

『真武内伝追加』に、この件について面白い記述がある。

そこには、西尾が討ち取った首も、信繁の影武者である望月宇右衛門だと述べられているのである。ひょっとすると、信繁とその影武者ともども様々な地域に落ち延びたため、複数の伝承が存在するのかもしれない。

幕府の追っ手を煙に巻くための策だとするとあり得ないことではあるまい。当初は薩摩にいた信繁が後に影武者と入れ替わって讃岐に移住したとすると、薩摩と讃岐で子孫を残したという点を矛盾なく説明できる。

さて、本当のところはどうだったのであろうか。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 小林計一郎編『(決定版)真田幸村と真田一族のすべて』(中経出版、2015年)
  • 三池純正『真田信繁 「日本一の兵」幸村の意地と叛骨』(宮帯出版社、2009年)
  • 相川 司『真田信繁 - 戦国乱世の終焉』(中公文庫、2015年)
  • 黒田基樹 『真田信之』(戎光祥出版、2017年)



関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP