「鎌倉殿の13人」と徳川家康を繋いだ『吾妻鏡』のあれこれ

 昨年放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。その最終話冒頭、松本潤さん扮する次回作『どうする家康』の主人公徳川家康がサプライズ登場して話題になりました。語りの長澤まさみさんから「家康は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』を愛読していた」と説明がありましたが、公式サイトによれば、脚本の三谷幸喜さんは『吾妻鏡』が原作のつもりで『鎌倉殿の13人』を執筆されたそうです。

 『鎌倉殿の13人』と徳川家康を繋いだ『吾妻鏡』とはどういった書籍なのでしょうか。今回は『吾妻鏡』と家康について掘り下げたいと思います。

『吾妻鏡』編纂の時代背景

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって編纂された歴史書です。その内容は、治承4年(1180)4月、平氏討伐を命じる以仁王の令旨が伊豆の源頼朝のもとに届いた記事から始まり、終わりは文永3年(1266)7月、6代将軍宗尊親王の京都送還までとなります。

 『吾妻鏡』は鎌倉幕府創設から発展の歴史を描いたものとなっていますが、なぜ終わりが文永3年(1266)なのかはわかっていません。この文永3年は時代的には蒙古(元)の国書が到来し、北条時宗が執権に就任する2年前になります。一説によれば『吾妻鏡』は未完成のまま編纂が終わったとも言われています。

 『吾妻鏡』は80年以上の歴史を、歴代将軍の年代記の体裁で年代順に記されています。日記形式をとっていますが、その当時に書かれたものではなく、実際は、鎌倉幕府の執筆担当者が様々な史料を参考にして後に編纂したものと考えられています。通説では実際に『吾妻鏡』が書かれたのは13世紀末から14世紀初頭とされています。

 13世紀末という時代は、元との戦い(元寇)やそれに付随する異国警備の負担から、困窮する御家人が増加していました。鎌倉幕府は永仁の徳政令を出すなど対策はしましたが、依然として政情は不安定でした。そのような時代状況のなかで、鎌倉幕府はこれまでの幕府の歴史を振り返り、今後の幕府運営や施策の参考にすべく、歴史書『吾妻鏡』を編纂するに至ったと考えられています。

『吾妻鏡』の書式の変化

 『吾妻鏡』は鎌倉時代の武家社会の歴史を詳細に叙述しているため、鎌倉時代を知るうえでの基本史料として古くから注目されてきました。そのため、『吾妻鏡』の特徴についても様々な見解があります。その一事例として『吾妻鏡』の書式が途中で変わっていることが挙げられます。

 具体的には3代将軍・源実朝以前の記述とそれ以降の記述では変化みられるというものです。実朝の代まではエピソードが豊富に収録され、物語性を感じられる記述形式、一方で、4代頼経以降は官僚制的な書き方に変わっているという指摘です。

 これには鎌倉幕府側に何らかの意図があったためと推測されています。実朝暗殺後、4代頼経以降は源氏以外の人物が鎌倉幕府の将軍になっているため、それまでの源氏三代の将軍と御家人の関係性が、頼経以降は変化したとされています。

補足:鎌倉幕府の将軍について

 源氏出身の初代頼朝・2代頼家・3代実朝は源氏将軍。藤原氏(摂家)出身の4代頼経・5代頼嗣は摂家将軍。皇族出身の6代宗尊親王~9代守邦親王までは皇族将軍と呼ばれています。

 源氏三代の将軍は御家人からみれば頼朝挙兵以来からの主従関係でした。一方で、京都に縁が深い4代頼経以降の摂家将軍・皇族将軍は、源氏将軍と比較すると、御家人からみれば馴染みの薄い将軍になります。そのため、4代頼経以降は将軍と御家人の関係性に変化が生じ、『吾妻鏡』の書き方も変わったとする指摘です。

 また、頼朝と実朝の時代を神話化するために、書き方が変わったとする指摘もあります。この説によれば、神話化することによって、鎌倉幕府発展の基礎が築かれた頼朝と実朝の時代を「いい時代」として描く意図があったとしています。

研究史料としての『吾妻鏡』の留意点

 しかし、『吾妻鏡』には史実から改竄された箇所があることがわかっています。これは編纂時の鎌倉幕府の政情を反映したためと言われています(鎌倉幕府創設期の「神話化」も改竄の一種といえます)。政治的な大事件であっても、史実を改竄したと疑われる箇所があるため、『吾妻鏡』の内容をそのまま鵜呑みにするのは注意が必要と、現在の研究では考えられています。

 このほか、以下のような指摘もあります。

  • 年月が誤っている箇所がある。
  • 偽文書を採録している。
  • 記事が幕府関係に限られているため、幕府とは関係のない記事はあまり収録されていない。
  • 幕府・御家人関係でも京都・西国で起きた出来事はあまり収録されていない。

 このように研究史料として注意が必要な『吾妻鏡』ですが、すべての内容が史実に反しているわけではありません。また、改竄の裏側に真実が見え隠れしていることもあり、改竄の発見から当時の鎌倉幕府の政治状況や武家社会の様相を探ることができます。このため、過去においても現在においても『吾妻鏡』は、鎌倉幕府や鎌倉時代の歴史を知るために重要な史料と位置付けられているのです。

『吾妻鏡』を出版した徳川家康

 現在の歴史家のなかでも多く読まれる『吾妻鏡』ですが、戦国時代の武将たちにも愛読されていました。戦国武将は『吾妻鏡』を読んで、武士の道理や治世の術を学んでいたと考えられています。そして愛読していた武将のなかに徳川家康もいました。『吾妻鏡』から政権運営について学んでいたと思われます。

 家康は学問を重んじ、様々な分野の書籍を蒐集、愛読したことで知られています。その中に『吾妻鏡』もありました。『吾妻鏡』には様々な伝本の存在が知られていますが、その蒐集に努めた家康は、集めた『吾妻鏡』を整理したうえで出版することを決めました。

 家康は五十川了庵に命じ、慶長10年(1605)3月に出版させました。このとき出版された『吾妻鏡』は「新刊吾妻鏡」と呼ばれています。

 「新刊吾妻鏡」は小田原北条氏(後北条氏)に伝来した『吾妻鏡』を中心にして編纂されたものと考えられています。後北条氏版『吾妻鏡』は文亀・永正頃(1501~1521)に、金沢文庫所蔵の『吾妻鏡』を書写したものと言われています。金沢文庫は執権北条氏の分流金沢氏の書庫です。なお鎌倉時代、金沢氏は『吾妻鏡』の編纂に関わったとされています。

 金沢文庫から書写された後北条氏版『吾妻鏡』は、天正18年(1590)の後北条氏滅亡時に黒田孝高に贈られ、慶長9年(1604)に孝高の子の長政から徳川氏に献上されました。

 つまり、長政からの献上を受けた翌年に家康は「新刊吾妻鏡」を出版したことになります。もしかしたら、長政からの献上を受けて、「新刊吾妻鏡」の出版を決めたのかもしれません。なお、家康は『吾妻鏡』だけでなく『群書治要』や『貞観政要』なども出版しています。

 このような家康の出版事業以前は、『吾妻鏡』などの古記録を目にする機会は限定されており、『吾妻鏡』などの知識は世間に流布していませんでした。しかし、家康の出版事業によって一般に公開・普及されるようになりました。

 また、家康は『吾妻鏡』などの出版に活字印刷を用いました。活字印刷は当時の最新技術で南蛮貿易や豊臣政権の朝鮮出兵などを通じて、ヨーロッパや朝鮮からもたらされました。このような最初技術を用いた出版事業によって、家康は学問を奨励していたのです。

おわりに

 大河ドラマはあくまでも「ドラマ」です。したがって一部史実ではない箇所も含まれています。しかし、家康が『吾妻鏡』を愛読していたのは事実です。このように考えると史実面において、僅かばかりですが『鎌倉殿の13人』と『どうする家康』はクロスオーバーしていたと言えるでしょう。

 一見なんの接点もないように思える2つの大河ドラマですが、『吾妻鏡』を通じて意外な歴史を見出せるのでした。ここに歴史を学ぶ面白さが見え隠れしているように思います。


【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。