松平昌久と大草松平氏 家康生誕の地・岡崎は実は他の松平氏の所領だった!
- 2023/01/16
では、実際にこの松平昌久という人物はどのような人物だったのでしょうか。家康と同じ松平氏ですが、昌久は大草松平氏と呼ばれる別の一族になります。そこで今回は松平昌久と大草松平氏について、一族の由来と家康一家との関係を中心に考察していきたいと思います。
家康の松平氏と大草松平氏の関係
松平氏が大きく分家したのは家康の6代前にあたる松平信光の子どもの時です。信光の子どもは48人いたと一説に伝わっており(『朝野旧聞裒藁』では19人、『寛永諸家系図伝』では9人の実名が伝わっている)、この子どもたちが三河各地で分家になったと考えられています。家康の松平氏は安城松平氏といい、信光の四男・親忠から続く系譜です。一方で、大草松平氏は五男(一説には六男)と推測される光重の系譜となります。
『三河物語』によれば、松平信光は応仁の乱が三河に波及した後、東軍として細川氏に味方しています。そして信光の攻めた西軍方が安城と岡崎であったと考えられます。当時の岡崎領主は西郷弾正左衛門頼嗣であり、松平光重が西郷頼嗣の婿養子として岡崎を継いだとされています。さらに西郷頼嗣が隠居の地としたのが大草でした。
こうした経緯から、この時期の大草松平氏は岡崎松平氏と呼ぶのが正しいと思われます。また、松平光重は西郷氏を継いだとして、西郷光重と称されることもあります。光重の年齢は家康直系の親忠の弟なので、永享(1429~1441)末期から嘉吉(1441~1444)年間の生まれではないかと推測されます。
岡崎松平氏は史料が少ない
岡崎松平氏の活動は史料上ほとんど確認されていません。『三河物語』や『朝野旧聞裒藁』でも存在がほぼ触れられていません。これは「家康の本拠地が岡崎である」という印象をつくりたかった後世の人々による意図的な動きであった可能性があります。最大の理由は家系が既に断絶しているためですが、「岡崎には元々別の松平氏がいた」という事実は徳川将軍家にとって不都合な真実だったと言えます。そのため、江戸時代前期に編纂された二次史料ではほぼ触れられることがなかったのでしょう。
この可能性については『三河松平一族』の著者平野明夫氏や、『新編 岡崎市史』の編纂に携わった新行紀一氏も同様の指摘をしています。岡崎松平氏による岡崎支配の開始は文明(1469~1487)年間と考えられ、後述する松平清康による岡崎征服まで最低でも40年近く支配が続いていたことになります。
岡崎松平氏が断絶したことで、そうしたかつての支配者に関する記録を減らし、徳川将軍家の正当性を高めようとした可能性は十分あると考えられます。
松平清康による岡崎征服と大草への移転
松平光重は周辺支配を確立するために現在岡崎市内にある大林寺・大樹寺といった寺院に文書を発行しています。文亀元年(1501)には息子の親貞が文書に署名しているので、この時期には光重から親貞に家督が継承されていると考えられます。しかし、親貞の主な記録はそれのみであり、その後は3代目の信貞(親貞の弟と思われる)の記録が永正8年(1511)に残っているだけになります。記録は成就院という寺に文書を発行したもので『信光明寺文書』に残っています。同年11月にも文書が確認されています。
この10年間に三河で起こったこととして、永正3年(1506)の今橋合戦から永正5年(1508)の井田野合戦があげられます。特に井田野の合戦には家康の高祖父にあたる松平親忠が参加しており、松平親貞が参加した可能性は高いと考えられます。この合戦は非常に多くの死者が出たとされ、親貞は討死または戦傷による隠居などを余儀なくされた可能性が高いです。
大永4年(1524)、清康は岡崎にいる松平信貞を攻撃し、山中城を落としました。その猛攻に耐えられなかった信貞は降伏し、清康に岡崎を明け渡して大草に隠居したと伝わっています。
『三河物語』にはこのとき信貞が「トテモ成間敷ト思召レ」と言って降伏し、臣下に加わったと記されています。信貞は西郷氏からの養子説もありますが、大草が以前の岡崎支配者である西郷氏の所領であったこともその根拠の1つとなっています。
降伏と同時に信貞は自分の娘(『大林寺由緒書』では於波留という名であると伝わっている)を清康に嫁がせています。その後、清康は享禄3年(1530)ごろに岡崎城に本拠を移しています。
信貞の娘(於波留)については2つの説があり、大永5年(1525)に清康と離別したとする説と、天文17年(1548)に死去するまで岡崎にいたという説です。
離別説をとるならば、清康との夫婦生活はわずか1年程度ということになります。清康の子どもの中に信貞の娘が産んだ子はいません。清康の後を継いだ広忠は大永6年(1526)生まれなので矛盾もしません。『大林寺由緒書』には、隠居した信貞の死没年は同年8月10日と伝わっています。よって信貞の死が原因で離別をしたか、信貞とともに謀殺されたのではないかと思われます。
天文年間死去説ならば、父の信貞・夫の清康の両者が死亡した後も彼女は岡崎に滞在したと考えられます。家康誕生時も岡崎城に滞在していたと考えられるでしょう。
いずれにしても、信貞の死後、大草松平氏は広忠・家康の2代に仕えることになります。
家康の家臣・松平昌久について
信貞の後を継いだのが松平昌久です。昌久の名前については、父親の信貞の異名として伝わる昌安の一字を受け継いだとされます。ただし、『大林寺由緒書』では信貞の法名を昌安(しょうあん)と伝えており、昌久も法名で読みは「しょうきゅう」と考えられています。そのため、名前については親光とする説もあります。生年については不明ですが、水野忠政に嫁いだ妹よりも年上なのは間違いありません。そして、この妹が大永5年(1525)以前に水野忠政長男の信元を産んでいます。仮に婚姻と出産が非常に早いとしても永正7年(1510)より妹の誕生は前になりますので、永正以前の誕生であることは間違いありません。
その後、大草松平氏は昌久の子三光、孫の正親と続いています。『寛政重修諸家譜』で生年が天文24年(1555)の曾孫である康安のことも考えると、16世紀に誕生したと考えるのは難しい年齢となります。昌久の誕生は延徳(1489~1492)年間から明応(1492~1501)年間の誕生と考えられます。そのため、かなりの高齢であることが推察されます。桶狭間以後史料上確認される昌久が法名である可能性は高いと考えられるでしょう。
昌久が家督を継いだ4年後、享禄2年(1529)に大草の隣領である高力に高力重長(熊谷氏から改姓)が移ってきて築城しており、清康が昌久を警戒していたことが伺えます。昌久が主に活躍していた時期は、広忠・家康親子にとって苦難の時期でした。元々惣領筋である昌久がどの程度広忠と同調して動いていたかは定かではありません。
昌久・三光親子の反乱
昌久の子三光は史料上では存在がほぼ確認できず、『徳川諸家系譜』などに名前が確認できるだけとなっています。この三光が昌久とともに永禄6(1563)に家康に反旗を翻し、東条吉良氏の吉良義昭と協力して東条城に籠城したとされています。東条吉良氏と三河一向一揆は協力関係にあったようですが、昌久と三光は宗派の違いから協力していたかは定かではありません。宗教的な理由で家康と戦った家臣とは立場が違うことは確かでしょう。
この反乱の3年前、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで昌久の孫であり、三光の子である松平正親が戦死しています。正親の年齢は昌久の推測される年齢から逆算すると、満15歳以上25歳未満です。家康が今川氏から独立したことや若い次代の当主が失われたことで、家康周辺との距離感が変わったことも可能性として考えられます。
永禄6年(1563)に一向一揆と同時期に反旗を翻した人物に上野城主の酒井忠尚がいます。彼は今川氏による三河支配から家康が独立し織田と協力関係を結ぶことに反対したと『参州一向宗乱記』に伝わっています。そのため独立後岡崎に出仕しなくなり、一向一揆とともに挙兵したと言われています。
どちらかと言えば昌久・三光親子は忠尚らと同じような立場だった可能性が高いでしょう。今川との関係もあって家康と戦い、敗れて没落したと考えられます。『徳川諸家系譜』では三光は討死したとされています。昌久は生き残ったと見られますが、以後は記録上の活動はなくなりました。
その後の大草松平氏
松平正親の子・康安は天文24年(1555)生まれで家康の長男である徳川信康に仕えています。『寛政重修諸家譜』によれば、元亀3年(1572)の武田信玄との二俣での合戦で初陣を迎えています。その後は信康に従って数々の合戦に従軍しますが、信康の切腹で家康の家臣となりました。その後は侍大将格で大坂の陣にも従軍し、徳川秀忠の時代まで生き延びて6千石の旗本となっています。元和9年(1623)に69歳で亡くなりました。
康安の息子である正朝も引き続き秀忠に仕えましたが、徳川家光の弟である徳川忠長に仕えることになります。寛永9年(1632)に忠長が改易された時に所領を没収され、寛永17年(1640)に御三家の水戸徳川氏で家老として復活することになりました。正朝の子正永も水戸徳川氏の家老となりましたが、跡を継ぐ子どもがいなかったために家は断絶し、大草松平氏は歴史上から姿を消しました。
しかし、水野忠政に嫁いだ昌久の妹は跡継ぎとなる水野信元を産んだため、水野信元の子孫にその血が受け継がれることになりました。仙石秀久の七男の家系や旗本戸田重康に子孫が嫁いでおり、現代にもその血はわずかに受け継がれていると推測されます。
おわりに
大草松平氏は始まりの地が岡崎であったことから、ある意味、岡崎の正統な支配者だったと考えられます。そのため、大河ドラマで松平昌久が「松平宗家の地位をしたたかに狙う野心家」と紹介されているのも的外れとは言えません。ただ、その年齢については反乱時に65歳を上回る年齢と考えるのが自然ですので、配役をもう少し年配の役者さんにした方が史実に近い形になったのではないかなと筆者は感じました。とはいえ、こうした人物に注目が集まることで未発見の史料が見つかることもあります。これを機に限られた史料上でしか確認されていない大草松平氏の新史料が発見されることを願うばかりです。そして、大河ドラマでの活躍にも大いに期待したいところです。
【主な参考文献】
- 『新編 岡崎市史 2(中世)』(新編岡崎市史編さん委員会、1989年)
- 大久保忠教『三河物語』(日本戦史会、1890年)
- 堀田正敦『寛政重修諸家譜 第7冊』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
- 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
- 『朝野旧聞裒藁』(東洋書籍出版協会、1923年)
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