【家系図】家康のルーツをたどる!始祖・松平氏の事績とは?
- 2017/10/18
徳川家康の名字は "松平"です。徳川家康が今川家から独立を果たし、戦国大名として「松平」から「徳川」に改姓したことはよく知られています。「徳川」といえば、江戸時代には将軍家や御三家・御三卿として馴染み深い氏族ですよね。しかし「松平」というと、特に家康以前のことはあまり知られていないのではないでしょうか。そこで、この記事では家康のルーツを概観してみたいと思います。
【目次】
家康の出自と家系図
松平氏の始祖は松平親氏とされています。徳川将軍家によると、親氏は源氏の嫡流であるといいます。しかし、これは家康が三河国を平定して松平から徳川に改姓したときに系図を操作したとみられており、実際には松平氏は西三河の土豪にすぎなかったというのが正しい見解のようです。こうしたことからか、松平の系図や歴史には多くの混乱があります。上記は松平氏の略系図です。
松平歴代当主のうち、初代親氏と2代目泰親の事績に関しては、伝承レベルでしかなく、その真偽は定かではありません。3代目信光からようやく確かな史料にその事蹟があらわれてきます。着目すべきは6代信忠までに一族が18家にまで拡大(十八松平と呼ばれる)され、多くの庶家を輩出している点です。そして家康は9代目当主にあたります。
以下は各松平歴代当主の事績です。
松平親氏(ちかうじ、?-?年)
松平氏の始祖とされる。上野国徳川郷で誕生し、流浪して時宗の僧となり三河国加茂郡松平郷へ移り、土着して勢力を広げたとされる。移った時期は永徳元年(1381年)、明徳年間(1390-94年).永享元年(1429年)など諸説あり。武略に長け、慈悲深い心の持ち主であり、松平郷の太郎左衛門家に婿入りして同家の富力を背景として、やがて額田郡などに勢力を伸ばしたといい、松平郷の開発にも努めたという。
松平泰親(やすちか、?-?年)
第2代松平当主。「親氏の子、もしくは弟」の2説があり、生誕年は正平19年(貞治3年、1364年)から文安元年(1444年〉まで諸説ある。額田郡岩津村と同郡岡崎へ進出、それぞれの地で築城している。松平郷に嫡子の信広を置き、岩津を信光に譲渡して自らは岡崎に居住したという。また、本拠は岩津としたようである。
松平信光(のぶみつ、1401?-88年)
第3代松平当主。碧海郡安祥城を奪取。本拠岩津を惣領家の親長に、安城を三男親忠に譲る。のちに本拠を安城へ。松平親忠(ちかただ、1431?-1501年)
第4代松平当主。岡崎大樹寺を建設、父とともに活躍して西三河一の勢力になる。家康の家系となる安祥松平氏を興したが、もともとは庶家であり、本来の宗家は岩津松平氏である。松平長親(ながちか、1473?-1544年)
第5代松平当主。駿河・遠江を支配して台頭した今川氏親や、それを支援する北条早雲らと戦った。長親の代は松平勢力は安定していた。松平信忠(のぶただ、1490?-1531年)
第6代松平当主。配下の一門衆や国人らに見限られ、相次ぐ離反等で勢力後退して安城のみとなる。松平清康(きよやす、1511-35年)
第7代松平当主。家康の祖父にあたる。彼は岡崎城を奪取し、離反した一門衆や国人らも戻ってきたことで松平勢力を大きく回復させている。やがて西三河を支配すると、東三河や尾張へも触手を伸ばして勢力拡大に成功。清康の代には松平一門衆が多かったゆえ、軍事力は強化されていたものの、一方で内訌のリスクも抱えていた。若い清康を大きく支えたのは叔父・松平信定であったが、やがて不和となって最期は家臣に討たれるという不慮の死を遂げた。一説に信定の謀略と伝わる。
松平広忠(ひろただ、1526-49年)
第8代松平当主。家康の実父。清康の横死により、居城・岡崎城を庶家の松平信定に支配され、まだ幼かった広忠は追放という憂き目に会う。しかし、今川氏の庇護下に入って岡崎城への帰参を果たすと、晴れて松平当主となる。内訌状態の松平家の立て直しをはかるが、今度は隣国の織田信秀の侵攻に悩まされ、今川義元からの援軍を得るのと引き換えに嫡男竹千代(=のちの家康)を今川の人質に差し出す約束をし、まもなく不慮の死を遂げた。
まとめ
上述してきましたように、松平氏は初代親氏から5代長親までは順調に三河国で勢力を伸ばしていきましたが、6代信忠のときに一旦は縮小するものの、7代清康の代には再び盛り返して三河全土を支配する勢いで一気に勢力拡大に成功しました。しかし、一族が多いゆえに清康は最期には内訌で殺害され、以後の松平氏は一気に弱体化してしまいます。家康の父・8代広忠は、今川家の庇護下に入ることを余儀なくされ、さらに家康を今川の人質に差しだす約束をして、まもなく没してしまいます。
幼くして父を亡くした家康は、今川の人質という立場でありながら、護送途中に織田信秀に売り飛ばされて尾張で過ごす、という不遇な環境に身を置いていました。さらに当主不在の松平氏はまもなく居城・岡崎城を今川氏に取り上げられ、完全に今川配下の一族となってしまいます。
しかし周知のとおり、桶狭間で主君・今川義元が討たれると、家康はこれをきっかけに岡崎城へ帰参して今川から独立を果たし、やがて三河国を統一して徳川の姓を得るのです。
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