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  • 織田信長
 2019/03/06

「本圀寺の変」信長の留守中を狙い、三好三人衆が逆襲!?
──永禄12年1月(1569年)

京都・本圀寺(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA" target="_blank">wikipedia</a>)
京都・本圀寺(出所:wikipedia

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆こと三好長逸(ながゆき)・三好政康・岩成友通らが突如、京都の本国寺を包囲しました。お寺の中には第15代将軍・足利義昭をはじめ、足利・織田方の家臣たちがいたのです。

「本圀寺(ほんこくじ)の変」「六条合戦」とも呼ばれるこの戦い、一体何が起こったというのでしょうか。
(文=こばやかわ)

本国寺(本圀寺)とは?

戦いについて紹介する前に、少しだけ本国寺について触れたいと思います。すでに気が付いている方もいらっしゃると思いますが、この記事では「本国寺」と「本圀寺」を併用しています。

いい加減に書いてるんじゃねぇよ! とお叱りの言葉も聞こえてきそうですので、一応お断りをしておきます。

現在のお寺の名前は「本圀寺」、そして戦いの名前も「本圀寺の変」とされているのですが、当時のお寺の名前は「本国(國)寺」でした。ということで、本記事では戦いの名前以外は「本国寺」としています。

ちなみに本圀寺の“圀”という文字、どこかで見覚えはありませんか? ヒントは、悪者たちとのチャンバラが終わったタイミングで、印籠を見せつけてくる人(最初から見せておけば犠牲者が出ずに済むはずなのに)……の横にいるおじいちゃんです。

そう、水戸黄門こと徳川光圀です! 実はこちらのお寺、江戸時代の初期に徳川光圀が訪れたということで、「本圀寺」に改称したのだそうですよ。

おっと、本題とかなりずれてしまいました。そんな本国寺には当時、将軍義昭の“仮御所”(六条の御所)が置かれていたのです。

山城国本圀寺の場所(現在の京都府京都市山科区)

戦いの背景

そんな本国寺を取り囲んだ、三好三人衆。彼らといえば、かつて畿内など支配していた「三好政権」を支えた重臣たちです。三好長慶(ながよし)の死後は、対立していた第13代将軍・足利義輝(よしてる/義昭の兄)を松永久秀とともに暗殺したり、信長・義昭の上洛の際には京で交戦(その後、阿波へ逃亡)したりと、要するに義昭や織田方にとっては(逆も然り!)因縁の敵だったというわけですね。

そんな彼らが「今、仮御所には信長いないらしいよ」、と聞いたらどうでしょう。よっしゃ、今こそ京都奪還のチャンス! と考えそうですよね。このときの信長は実際に、明智光秀ら近江・若狭の国衆に本国寺の警護を任せ、本国・美濃へと帰っていたのです。

そこで三好三人衆たちは、信長が留守をしている本国寺を包囲することに。このときの三好方は、しめしめ……と思っていたでしょうね。このときは、まだ。

主な参戦武将

▼織田・室町幕府連合
▼三好三人衆ら
  • 三好政康
  • 三好長逸
  • 岩成友通
  • 三好康長
  • 斎藤龍興ほか…

戦いの経過・結果

三好方・先陣の大将を務めたのは、薬師寺貞春。門前の家々は焼き払われ、このままでは御所が危ない……! と思われましたが、『信長公記』によると織田方・若狭衆の山県源内と宇野弥七という、名の知れた勇士が薬師寺の旗本に斬りかかり、敵に多くのダメージを与えたといいます(しかし両人は討死)。

虚を突かれたとはいえ、足利・織田方はかなり奮闘していたのです。そのため三好の軍勢は、御所へと攻め入ることはできませんでした。

そして、そうこうしているうちに、足利・織田方には援軍(細川藤孝・三好義継・池田勝正・伊丹親興・荒木村重ら)が到着。そして桂川付近で一戦を交えることになり、三好方は高安権頭(ごんのとう)・林源太郎・小笠原信定といった、名のある武将たちを失っています。

たとえ信長がいなくても、織田軍は強いんですね! 三好三人衆、残念すぎる。

翌日の1月6日には、岐阜にいた信長にもこの出来事は伝わりました。信長は直ちに上洛の指令を出して京に向かいますが、この日の天気は珍しい大雪。そのため、人夫や下働きの者の中には数人の凍死者が出たのだとか……。

そんな最悪のコンディションにもかかわらず、信長は3日かかる行程を2日で走破。同時に京まで駆け付けられたお供は、10騎もなかったそう。さすがの信長も、必死だったんですね。

しかし、いざ京に着いてみると、御所は安泰。それを見た信長は大変満足したようで、今回の戦いで活躍した池田正秀(清貧斎)らを賞しています。また、ちゃんとした御所を造ろうということで、二条城(足利義昭のために造った城で、徳川家康が築いたものとは別物)の造営を開始したのでした。

なお、義昭が京から追放された後、その二条城は取り壊されて、安土城の資材になったそうですよ。

まとめ

勢力の巻き返しを図っていた三好三人衆らが、織田信長の留守中を狙い、足利義昭の仮御所・本国寺を襲った「本圀寺の変」。結局は足利・織田方が勝利し、三好方の京都奪還は叶いませんでした。

有名な「本能寺の変」とは一字違いなので、何かの間違いかと思ってしまう人も多そうな気がします。ですがこの戦いに関しては、明智光秀は襲った側ではなく、襲われた側です!





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