「両細川の乱(1509年~)」細川京兆家の家督・将軍の座をめぐる対立が絡み合った戦乱

細川氏(京兆家)略系図
細川氏(京兆家)略系図
両細川の乱は、細川京兆家の当主・細川政元の後継者争いに端を発する内乱です。二分された細川氏(高国・澄元)の対立に、それ以前から続く将軍家(義稙・義澄)の対立も絡んだ複雑な戦いで、数十年も続きました。

この内乱の終わりをどの時点に定めるかは難しいところで、高国の死・晴元政権確立をもって一応の決着となりますが、細川京兆家、そして将軍家の分裂抗争はその後も続きます。戦乱の発端となる出来事から、一連の戦いの流れを解説していきましょう。

きっかけは細川政元の暗殺事件

明応の政変によって権力を手にした管領・細川政元には、3人の養子がいました。修験道に凝っていた政元は女性を遠ざけ、妻帯することなく独身を貫いたため、実子がいなかったのです。

  • 澄之(摂関の九条家出身)
  • 澄元(阿波細川家出身)
  • 高国(細川野州家出身)

細川京兆家の家督争いの土壌が整っていたということですね。
家督は当初、最初に養子となった澄之が相続する流れでしたが、他家出身の澄之を当主にしてよいものか、という声が重臣の内衆の中から上がります。そこで、内衆のひとりである薬師寺元一らが主導して次期当主にと選んだのが、分家筋の澄元でした。

廃嫡されて当主になる望みの薄くなった澄之は、永正4(1507)年6月23日、行水中の政元を暗殺。無理やり当主の座を手に入れるのですが、同年の8月にはもうひとりの政元の養子・高国に討たれて亡くなります。

永正の錯乱と人物相関
永正の錯乱と人物相関

この後、家督を継いだのは、暗殺事件がなければ当主になると目されていた澄元でした。ところが、彼にもまた敵が現れます。それは澄元派として澄之を討った高国その人でした。

高国派の摂津国衆らは、澄元家臣として勢力を伸ばす三好之長と対立していたのです。高国は彼らの声もあって、澄元と対立する道を選んだのでした。


足利家の将軍争いも絡むことに…

一方、細川京兆家が分裂する以前から2系統に分かれていたのが将軍家です。

少し時をさかのぼります。長享3(1489)年、9代将軍の足利義尚(よしひさ)が25歳の若さで病没すると、次の将軍にはふたりの候補があがりました。

足利義稙の肖像画
足利義稙(義材・義尹。以降の表記は「義稙」で統一します)
足利義澄の像
足利義澄(清晃・義遐・義高・義澄。以降の表記は「義澄」で統一します)

義稙は8代将軍義政の弟・義視の子で、母は日野富子(義政の正室)の妹です。血縁であることから伯母の日野富子に推され、また以前管領を務めた畠山政長も強く推しました。

もうひとりの義澄は、6代将軍の義教の子・堀越公方の足利政知を父に持つ義澄です。細川政元は応仁の乱の折は西軍として義視・義稙親子とは敵対する立場であったこともあり、義澄の方を強く推しました。


この結果将軍に任ぜられたのは義稙でしたが、これが気に入らなかった政元はクーデターを起こして義稙を廃し、義澄を将軍に立ててしまいます。いわゆる明応2(1493)年の明応の政変です。

京都を制圧され、追い詰められて降伏した義稙は幽閉されますが、側近の手を借りて逃亡し、周防の大内義興を頼って再起のチャンスをうかがいます。

この明応の政変によってふたつに割れた将軍家もまた、高国と澄元の争いに大きく絡んでくるのです。


高国派と澄元派の戦い

高国が澄元を裏切り、両者対立へ

周防の地で将軍に返り咲くチャンスをうかがっていた義稙は、政元暗殺(永正の錯乱)の混乱に乗じて上洛しようと考えます。

大内義興の支援を受けて周防を出ると、永正5(1508)年4月に高国と手を組んで上洛を果たします。澄元は義稙が動き出すと、高国に和睦交渉にあたらせましたが、裏切られてしまった形です。

これにより、義澄と澄元は近江へ逃れることになりました。将軍に再任された義稙、細川京兆家の家督を継ぎ、政権を掌握。没落した義澄と澄元は立場を取り戻すべく、上洛の機会をねらいます。

この頃の対立構図は以下のとおりです。

◆ 高国派
  • 細川高国
  • 足利義稙(10代将軍)
  • 大内義興
など…
VS
◆ 澄元派
  • 細川澄元
  • 足利義澄(11代将軍)
  • 三好之長
など…

京都奪回をめざす澄元と之長

永正6(1509)年6月17日、近江にいた澄元と之長は、現在の京都市左京区にある如意ヶ嶽に陣取り、3000の手勢で京都奪回をねらいますが、高国と大内義興の軍2~3万に敗北し、阿波へ逃れることになりました。

そのころ、同じく京を追われた先の将軍・義澄も一計を案じ、刺客を放って義稙を襲撃させています。しかし、義稙は怪我を負ったものの無事で、暗殺は失敗に終わりました。

これに対して義稙は、翌永正7(1510)年に高国を近江へ出陣させ、京極高清と組んで義澄を討とうとしましたが、こちらも失敗しています。

阿波へ逃走した澄元と之長は軍を整えます。細川典厩家の細川政賢や、淡路守護の細川尚春、播磨守護の赤松義村を味方に引き入れると、ここから澄元方は有利に進めました。

永正8(1511)年7月、軍を二手に分けて一方が深井の合戦に勝利すると、もう一方も芦屋河原の合戦に勝利。合流して京に迫る澄元軍から逃れるように高国軍は丹波へ撤退しました。

義澄の死

京を奪回した澄元軍でしたが、その勢いはここまででした。丹波へ退いた高国軍は軍を整えてすぐに引き返してきたのです。

そのさなか、義澄が8月14日に突然病死してしまいます。船岡山合戦の直前のことでした。高国軍はこのチャンスを逃すことなくすぐさま反撃に転じ、23日、24日の船岡山合戦では澄元軍の総大将の細川政賢が討死。京都はあっという間に高国軍の手に戻りました。

大内義興不在の高国軍

それから数年後の永正15(1518)年、中国地方で大内氏とライバル関係にあった尼子氏が勢力を拡大しつつありました。義稙とともに上洛しておよそ10年もの間京都に滞在していた大内義興ですが、尼子氏の動きに対応するため周防へ帰国することになりました。

強大な大内軍を失った高国軍に対し、澄元軍は反撃に出ます。永正17(1520)年2月、越水城の合戦で澄元と之長の軍は越水城を落城させると、高国は義稙とともに近江へ逃走する羽目に。このころ、義稙は澄元軍が優勢になっていく状況を見て高国を捨て、澄元と通じてにわかに澄元政権が成立するのでした。

澄元、之長の死

義稙は決断するタイミングを見誤りました。高国は近江ですぐに回復すると、5月に六角氏の支援を受けて4~5万の軍を引き連れ、等持院の戦いに臨みます。

これに対して澄之方の之長軍はわずか数千程度。結果は火を見るよりも明らかです。之長は大敗を喫し、子や甥たちとともに処刑されてしまいます。

主力の之長を失った澄元は阿波へ逃れ、病に倒れて同年の6月10日に阿波の勝瑞城で亡くなりました。これにより、家督相続をめぐる抗争は一旦高国の勝利で決着がつきました。

一方、高国を見限って澄元に通じていた義稙がその後高国と関係を回復させることは叶わず、大永元(1521)年に出奔。高国は義稙のかわりに、敵対していた義澄の遺児である義晴を12代将軍として擁立しています。

打倒高国に燃える次世代

澄元、之長の遺志は晴元、元長に引き継がれる

さて、そのころ阿波では、高国派に敗れた澄元派が挙兵のチャンスを待っていました。

亡くなった澄元、之長の遺志を継いだのは、澄元の嫡男の晴元と、之長の孫の元長です。澄元の遺児である晴元は、父の死後7歳で家督を相続していました。

高国派の内乱

大永6(1526)年7月、チャンスが訪れます。高国は独裁者として君臨していましたが、重臣同士の対立で内乱が勃発したのです。高国の従兄弟で重用されていた細川尹賢が高国の重臣の香西元盛について讒言すると、高国は鵜呑みにして元盛を謀殺してしまいます。

これに激怒したのが、元盛の兄の波多野稙通(たねみち)と柳本賢治(かたはる)です。晴元と元長は稙通・賢治と連携し、阿波で挙兵して畿内まで軍を動かしました。

大永7(1527)年2月、晴元らは義晴を擁する高国に対抗して、同じく義澄の遺児である義維(よしつな)を担ぎ、桂川原の戦いで高国についに勝利しました。高国は義晴ともども近江坂本へ逃れ、政権は晴元に奪われてしまいました。

堺公方の誕生

こうして政権を握った晴元は、義維を次期将軍として立て堺に入ると、ここに堺公方政権が誕生しました。しかし、高国との和睦をめざそうという元長と、高国は排除すべきとする晴元・賢治らとが対立し始め、元長は晴元に遠ざけられ阿波に戻る事態に。

長年の敵を倒せば今度は内輪揉めで二分され、堺公方府も結局は一枚岩ではありませんでした。
この頃の対立構図を以下に整理しておきます。

◆ 高国派
  • 細川高国
  • 足利義晴(12代将軍)
  • 細川尹賢
  • 武田元光
など…
VS
◆ 晴元派
  • 細川晴元
  • 足利義維(のちの堺公方)
  • 三好元長
  • 三好勝長
  • 三好政長
  • 柳本賢治
  • 波多野元清
など…

高国の死。しかし将軍家・細川京兆家の分裂は続く

天王寺の戦い

晴元(正確には政務を担っていた側近たち)との不和で阿波に戻っていた元長でしたが、享禄4(1531)年の天王寺の戦いを前に呼び戻され、主力として戦いついに高国を討ち取ります。この戦いは「大物(だいもつ)崩れ」と呼ばれました。

晴元と元長の対立

父の代からの敵である高国を討って政権を取ったことで、政元暗殺以来続いた細川京兆家の内乱も終わったといっていいのかもしれませんが、しかしこの後も内部の対立は続くのです。

高国を敗死に追い込んだ功労者である元長は、やはり晴元の側近たちと折り合いが悪いまま。享禄5(1532)年に元長が柳本賢治の子・甚次郎を討ったことで晴元との関係は修復不可能になり、晴元は一向一揆を動かして元長を攻め、自害に追い込んでしまうのでした。この戦は天文の錯乱へつながります。


最後の管領・細川氏綱

いったいどの地点を両細川の乱の終点と見ればいいのか。結局この後も、高国派は氏綱を立てて晴元と対立し、家督をめぐって抗争が続きます。のちに氏綱を擁して晴元と対立することになるのが、元長の嫡男・三好長慶です。内乱はまた次代に引き継がれるのです。

細川京兆家の家督相続争いの終結を乱の終わりとするなら、最後の管領といわれる氏綱が家督を継いだ天文21(1552)年でようやく終わったといえるのかもしれません。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 長江正一著・日本歴史学会編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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