「永正の錯乱(1507年)」細川政元の3人の養子による家督相続争い

永正4(1507)年、管領の細川政元が暗殺されました。政権を掌握した細川京兆家の当主の座にはいったい誰が座るのか。上図のように、実子のいなかった政元には3人の養子(澄之・澄元・高国)がいましたが、彼らは当主の座をめぐって争い、以後数十年にわたって続く事になるのです。

この戦乱は、彼らを擁する勢力(三好氏、大内氏、波多野氏、内藤氏、薬師寺氏など)同士の戦いでもあり、また、ややこしいことに明応の政変でふたつに割れた将軍家の争いも絡んで、とても複雑なものに発展していきます。

本記事では、きっかけとなった細川京兆家の家督相続争いを中心に、「永正の錯乱」の流れを追ってみましょう。

実子を持たなかった細川政元の3人の養子

この細川氏とその周辺、さらには将軍家をも巻き込んだ壮大すぎる争いが起こった原因は何かといえば、政元が生涯妻を持つことなく、実子がいなかったこと。原因の半分以上はこれでしょう。

修験道に没頭し、妻を持たなかった

政元は細川京兆家の当主でしたが、修験道に没頭していたために妻帯せず、女性を近づけることなく生涯独身で過ごしました。

修験道とは、仏教と日本の山岳信仰が結びついた宗教で、密教要素も多分に加わり、山での厳しい修行、加持祈祷などで験力を得て、救済をめざすものです。仏教には八斎戒という8つの戒律があり、その中には「不淫戒(ふいんかい/性交を行わない)」というものがあります。

また、密教でも、法力を得るためには戒律を徹底することが重要であると考えられてきました。そして神道に由来する山岳信仰においては、血は穢れとみなされ、生理中・産褥期の女性が神域に立ち入ることはタブーとする考えがいまだに残っています。山の神は女神なので、女性の立ち入りを嫌う、という話もありますね。

さまざまな信仰が習合して生まれた修験道では、このような理由から修行の場から女性を排除する女人禁制の考えが徹底されたものと思われます。

つまり、修験道に凝る政元は、女性と交わると法力が得られないからという理由で真面目に生涯を独身で過ごしたわけです。よく「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」なんていいますが、政元は本当にそのために律義に戒律を守っていたのでした。

細川澄之(九条家)

政元が最初に迎えた養子は、九条政基の末子の澄之でした。

延徳3(1491)年にわずか2歳で養子に迎えられると、細川京兆家の当主が代々名乗った幼名「聡明丸」と名付けられ、嫡子として育てられることになります。

実は、政元が澄之を養子に迎えた理由には、純粋に跡継ぎがほしかったという理由だけでなく、当時政元が次期将軍にしようと考えていた足利義澄の従兄弟であるという理由がありました。
しかし、政元と将軍となった義澄との対立が深まったこともあってか、関係が良くなかった澄之を廃嫡することもありました。

『続英雄百人一首』に描かれている細川澄之
『続英雄百人一首』に描かれている細川澄之

細川澄元(阿波細川家)

澄元は細川氏の庶流のひとつ阿波細川家で、細川義春の子として生まれました。

政元にはすでに澄之という養子がいましたが、政元自身と折り合いが悪かったこと、また内衆(うちしゅ。使用人・家来の意味)らが細川家と血縁ではない九条家の澄之を当主に立てることに難色を示したことから、庶流の血縁である澄元に白羽の矢が立ちます。

文亀3(1503)年、内衆の薬師寺元一らが主導して進められて養子に迎えられました。

細川澄元の肖像画(狩野元信筆 永青文庫 蔵)
細川澄元の肖像画(狩野元信筆 永青文庫 蔵)

細川高国(細川野州家)

高国は、細川氏の庶流のひとつである細川野州家の、細川政春の子として誕生。政元の養子となった時期は不明で、政元の死の前後も時期当主として争われたのは高国を除いた二人でした。

しかし、実は政元に養子を迎えるにあたって最初に候補に挙がったのは高国であったようで、澄之を迎える前年の延徳2(1490)年に政元隠居の話が出た際に養子に迎えるはずでしたが、結局政元の隠居がうやむやになったことで高国の件も先延ばしになったようです。

細川高国の肖像画(東林院 蔵)
細川高国の肖像画(東林院 蔵)

政元と内衆の関係悪化

澄元を養子に迎えた後、永正元(1504)年3月に赤沢朝経が政元に背きますが、薬師寺元一のとりなしで一時帰参します。しかし9月には今度はその薬師寺元一が主導して反乱を計画します。

これは政元が摂津守護代を元一から別の者に交替させようとしたことが理由です。元一は政元を廃して澄元を擁立すべく、阿波細川氏らとともに摂津で挙兵しますが、失敗に終わりました。

修験道に傾倒する政元

それ以降も、政元と内衆らの関係は悪化の一途をたどります。
理由の一つには、政元が修行のために奥州巡礼の旅に出たいなどと言い出したことがあったようです。後継者問題から何から、政元の修験道にかける情熱は内衆らの悩みの種だったのです。

三好之長らの台頭

このころ、阿波細川氏に仕えていた三好之長が細川京兆家の家臣として活躍し始めます。罪を赦された赤沢朝経の大和攻め・河内攻めを支援して戦い、その後も丹後の一色義有攻めに参加。軍事面で政元を支えました。

之長は当然、阿波細川氏出身の澄元を政元の後継者として支持していました。この之長の活躍を受け、政元は阿波細川氏との連携を強めると、今度は澄之ではなく澄元の力が強まったのです。

畿内の内衆らは三好氏の台頭に脅威を感じました。血縁のない澄之ではなく澄元を支持したのは内衆の薬師寺元一でしたが、その弟の長忠は違いました。三好氏の所領侵犯を恐れる長忠や香西元長といった有力な内衆らが京都で喧嘩沙汰を起こすなど、両者の対立は深まっていきます。

澄之派、政元を暗殺!

澄之の名には、元服した時点で当主が代々与えられるはずの「元」の字はなく、それは後から養子となった澄元に与えられました。このころ、政元は澄元を伴って行動するようになっていました。

澄之を支持する香西元長や薬師寺長忠らは、澄之の家督相続の望みが薄くなったことから、ついに無理やり政元を排除する手段に出ます。

永正4(1507)年6月23日、42歳の政元は、月待ちの行水中に元長、長忠、竹田孫七ら澄之派の襲撃を受けて暗殺されてしまったのでした。

家督は澄之から澄元へ

政元を討った澄之派の行動は素早く、澄元を襲撃。澄元は之長とともに近江へ逃れました。

澄之は7月8日に将軍・義澄から御内書を受け取ると、細川京兆家の当主に立ちます。

しかし、無理やり当主の座を奪った澄之は、翌8月1日に細川高国らの襲撃を受け、澄之以下元長や長忠ら有力な内衆はことごとく討ち取られ、あっという間に澄之の時代は終わってしまいました。

高国の活躍により、近江の甲賀に逃れていた澄元が戻り、正式に家督を相続することが決まりました。この後、澄元と高国はしばらく良好な関係を保っていましたが、状況は一変します。

高国派の台頭。家督は澄元から高国へ

足利義稙と大内義興の登場

ここに絡んでくるのが、かつて明応の政変で政元に将軍の座を追われてしまった足利義稙(このころは「義尹」と名乗っていましたが、便宜上以降の表記は「義稙」で統一)です。

義稙は幽閉先から逃亡し、各地を転々として最終的に周防の大内義興を頼って数年を過ごしていましたが、政元が討たれたこのタイミングを好機とみて、大内義興の支援を受けて上洛を試みます。

足利義稙の肖像画
大内義興の力を借りて再び将軍に返り咲く足利義稙

反澄元に転じる高国

周防から徐々に京へ近づいてくる義稙。澄元は高国に和睦交渉にあたらせますが、これはうまくいきませんでした。それどころか、交渉にあたっていた高国が反旗を翻し、義稙と通じて澄元と対立する姿勢を示したのです。

高国が澄元と争うことになった背景には、澄元家臣の三好之長と対立する摂津国衆らの存在があったようです。

近江へ逃れる澄元と義澄

永正5(1508)年4月、義稙が義興の軍とともに上洛するという報せがもたらされると、澄元と義澄は近江に逃れました。将軍としての義澄はここで終わりを迎えます。

6月、義稙は15年ぶりに京に足を踏み入れ、7月1日に征夷大将軍に再任されました。それに先んじて、義稙側についた高国は5月に細川京兆家の家督を相続しています。

数十年にわたる家督相続争い(両細川の乱)に突入


近江に逃れた澄元と義澄は翌年に再起をめざして之長とともに京都を攻めますが、高国軍・義興軍の大軍を前に、多勢に無勢で敗れます(如意ヶ嶽の戦い)。

また、義澄は刺客を放って義稙の暗殺を試みますが、これも失敗に終わりました。澄元は阿波へ戻り、四国の軍を集めることに力を注ぎます。

その後も幾度か戦いが繰り広げられ、義澄・澄元軍が優勢に転じて京を奪還したこともありました。しかし、永正8(1511)年8月14日、義澄が決戦となる船岡山合戦を前に病没すると、義澄軍は大敗。その後、澄元も一気に力を失っていきます。


その後も澄元は上洛をめざし続けました。永正17(1520)年、一時義稙が高国から澄元に乗り換え、澄元は政権を取り戻します。

しかし、長くともに戦ってきた三好之長は等持院の戦いに敗れてふたりの子とともに処刑され、失意の澄元は逃れた阿波で同年6月10日に死去しました。

澄元と高国の家督をめぐる戦いは、澄元の死をもってとりあえずは高国の勝利に終わりますが、ふたつに割れた細川京兆家の対立はこの後も続きます。

また、澄元に乗り換えた将軍・義稙と高国の対立も続きます。高国が亡くなった先の将軍・義澄の遺児・義晴を擁立したことで、将軍家も引き続き義稙系(義稙・義維・義栄)と義澄系(義澄・義晴・義輝・義昭)に分かれて将軍の座を争うことに。

政元の後継者問題に端を発した永正の錯乱を契機に始まったこの内戦(両細川の乱)は、澄元と高国の対立以後、20年以上にわたって続くことになるのでした。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 日本史史料研究会監修・平野明夫偏『室町幕府将軍・管領列伝』(星海社、2018年)
  • 丸山裕之『図説 室町幕府』(戎光祥出版、2018年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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