「中尾城の戦い(1550年)」入洛をめざす幕府軍と三好政権の戦い

同族の三好政長と元主君の細川晴元を破った三好長慶は、細川氏綱を擁して三好政権を樹立。一方、敗れた晴元と将軍・義輝は、再起の時をうかがい、慈照寺の背後に中尾城を築きます。

中尾城の戦いは、細川晴元ら室町幕府軍が、京都復帰のために再挙した最初の戦いであり、幕府軍として実戦ではじめて鉄砲を使用した戦いとしても知られています。

三好長慶に敗れた足利義輝・細川晴元は再起を目指す

三好長慶と三好政長(宗三)が戦った天文18(1549)年の江口の戦いで、敗れた政長を支援していた細川晴元は六角定頼を頼って近江坂本へ逃れました。前将軍である足利義晴、その子で13代将軍の足利義輝も晴元に伴われて坂本に入ったため、京は将軍不在の状態に。

長慶は細川京兆家の家督をめぐって晴元と敵対していた氏綱を仲間にし、将軍のいない京で三好政権を樹立しました。戦国時代最初の天下人として歩み始めていたのです。

三好長慶の肖像画(大徳寺・聚光院蔵)
三好政権樹立後も細川晴元や将軍義輝と長期間対立した三好長慶。


中尾城の築城

同年7月に長慶が入洛した一方、近江坂本にいた前将軍の義晴はさっそく京奪回をめざし、数か月後の10月18日に築城を始めました。

義晴は、現在銀閣寺の名で親しまれる東山の臨済宗相国寺派寺院・慈照寺の背後、中尾に山城を建て始めました。場所は如意ヶ嶽の前山で、ちょうど大文字(だいもんじ)のあたりです。そのため、中尾城は如意城、如意ヶ嶽城とも呼ばれています。

中尾城の位置は近江坂本と京の間、京側の出入り口あたりにあり、近江からの支援も受けやすく、また逃れやすい場所にありました。

義晴死後、義輝が引き継ぐ

築城は一時中断され、翌天文19(1550)年2月15日から再開されました。

築城の指揮の先頭に立っていたと思われる義晴はこのころから病が重くなり、3月7日に坂本から穴太(滋賀県大津市)に移ったものの動けず、5月4日、そのまま穴太で死去しました(享年40歳)。

このとき将軍の義輝はまだ15歳ほどの若年で、義晴は幼い将軍の後見を続けていた中で没したのです。父の死後、築城は義輝が引き継ぎ、6月9日に晴元とともに中尾城へ入りました。

中尾城の戦い

鉄砲使用の早い例(東山の合戦)

7月8日、幕府軍は馬廻衆をやり、東山麓の吉田・浄土寺・北白川へ出兵しました。14日には山崎に陣を敷いていた長慶軍の十河一存(そごうかずまさ/長慶弟)、三好長逸(ながゆき)、三好弓介(きゅうすけ/長逸の子)らが1万8000の兵で進みました。

中尾城の戦い 要所マップ。色塗部分は山城国

しかし、幕府軍の主力である中尾城は動かず、晴元の足軽100人あまりが出撃しただけの小競り合いで終わりました。小規模とはいえ、この戦で弓介の与力が鉄砲で撃たれて死んでいます。

鉄砲が日本に伝来して7年。晴元が鉄砲を扱い始めて1年あまりのことで、実戦に使われた早い例とでした。短い期間で末端の足軽が実戦で使用するまでになっていたことは注目に値します。

義輝、中尾城を棄てる

東山の合戦の後、長慶は一度、六角義賢(定頼嫡男)を通して幕府方に和議を申し込みますが、これはかないませんでした。晴元は元主君としてのプライドがあったのか、これ以降も武力による京奪回の希望が完全に潰えるまで断固として譲らなかったのです。

10月20日に長慶軍が再び上洛し、六角や晴元の軍と交戦が始まりました。

11月19日、長慶軍は中尾城の麓の聖護院、北白川、鹿ヶ谷、田中、吉田、岡崎のあたりに放火してさらに攻撃の力を強めます。長慶は家臣の松永長頼(久秀の弟)の数万の兵を向かわせると、これを六角氏が迎撃します。

しかし、近江に入った長慶軍が大津や松本に放火し始めると、義輝はせまる長慶軍に退路を断たれることを危惧してか、21日に自ら中尾城を焼いて撤退し、近江堅田へ逃れました。義輝が棄てた中尾城はこの二日後の11月23日、三好軍が入って破却しました。

現在、中尾城址は土塁や堀切、曲輪など、そこに山城があったことを思わせる遺構が残るのみです。

義輝・晴元は次の機会をねらう

義輝が撤退したことで長慶も本拠地の摂津へ戻り、天文20年のはじめごろは平和な時を過ごします。しかし幕府軍の反撃はこれで終わったわけではありませんでした。堅田へ逃れた義輝・晴元はまた別のチャンスをねらい、再び京奪回の作戦を練り始めていました。

中尾城の戦いの熱も冷めやらぬ天文20(1551)年3月。二度の三好長慶暗殺未遂事件が起こります。動いたのは進士賢光で、暗殺を指示したのは義輝でした。

この暗殺は失敗に終わるものの、5月には三好方の遊佐長教が僧侶に暗殺されるという事件も起こります。こうした流れで、義輝・晴元は再起をかけて兵を進めるのでした。

三好政権と幕府方の戦いはなかなか決着がつきません。




【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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