「花倉の乱(1536年)」なぜ今川義元は家督継承に成功したのか?

 駿河国を支配した今川氏では、何度も家督争いが起こっています。今川氏9代目当主である「今川義元」も例外ではなく、兄である玄広恵探(げんこうえたん)との家督争いを乗り越えて、今川氏の家督を継いでいます。

 そのときの家督争いが 花倉の乱(花蔵の乱) です。今回は多くの謎に包まれたこの乱にフォーカスしていきたいと思います。

義元は五男だった?

義元とその兄弟

 今川家7代目当主である今川氏親と中御門宣胤の娘(のちの寿桂尼)との間に、永正16年(1519)に誕生したのが芳菊丸(方菊丸とも、のちの今川義元)です。

今川義元の略系図

 嫡男には同腹の兄・氏輝がいました。また、父氏親と側室の福島氏の娘との間に良進(のちの玄広恵探、別名は花蔵殿)もおり、庶兄と記されています。

 義元は氏親の三男と記されていることも多いですが、どうやら他に彦五郎という次子と、象耳泉奘という兄がいたと考えられるので、そうなると義元は五男です。

早々と僧籍に入れられた理由

 氏親は義元の教育係として京都の建仁寺にいた雪斎(九英承菊)を三顧の礼をもって呼び戻しました。雪斎は庵原氏の出で、庵原氏は駿河国庵原郡の在地領主であり、今川氏に仕える譜代の家臣です。

 義元と雪斎は大永2年(1522)または翌年には、駿河国富士郡の臨済宗善徳寺に送り出されます。義元は3歳か4歳の時期には親元を離れ、寺に入ったのです。同じく庶兄の玄広恵探や象耳泉奘もそれぞれ寺に入っています。

 なぜ氏親は嫡男の氏輝と次子の彦五郎以外を僧籍に入れたのでしょうか?これは氏親が過去の今川氏の家督争いを鑑みて、それを未然に防ぐためだったと考えられます。

 氏親自身も幼年のころに父が討死し、その後の家督争いで同族の小鹿範満と長く争った経緯がありました。次男の彦五郎が僧籍に入れられなかったのは、嫡男の氏輝が病弱だったため、何かあったときに家督を継げるようにしたのでしょう。

 大永6年(1526)には氏親が病没すると、兄の氏輝8代目当主となっています。ただし彼は14歳と若かったこともあり、領国統治には母である寿桂尼が強く関わりました。

 ちなみに氏親の末子の今川氏豊は、氏親が没したときにはまだ幼く僧籍には入っておらず、その没後に尾張国那古野今川氏を継いでいます。皮肉にも家督相続を防ぐために僧籍に入ったふたりが、後に家中を二分する家督争いを起こすわけです。

乱の勃発前に、雪斎が果たした役割とは?

富士郡善徳寺は甲斐国との防衛拠点だった

 氏親が没した後の享禄3年(1530)、義元は得度の式を行い、芳菊丸から「梅岳承芳」と名乗ります(義元と名乗ったのは正式に家督を継いだ花倉の乱後のことです)。

 『幻霊文書』によると享禄5年(1532)の夏には京都の建仁寺に移りました。さらに妙心寺に移っています。こうして京都で知識を蓄え人脈を築いた義元は、天文5年(1536)になって再び駿河国の善徳寺に戻っています。

 実はこの前年に、氏輝は北条氏と連携して甲斐の武田信虎を攻めました。このときは信虎が扇谷上杉氏と手を結び、留守となっていた北条氏の本拠・小田原城を狙ったため、今川・北条軍はやむなく撤退しています。

武田信虎の肖像画
信玄の父・武田信虎。

 善徳寺はそんな甲斐国と戦う上で重要な拠点だったと考えられています。ここから義元の参謀的存在である雪斎と武田氏の両者が接近。結果として雪斎と武田氏の繋がりが、この後に起こる「花倉の乱」に大きな影響を及ぼすのです。

謎めいた氏輝の急死と御内書の内容

 義元が善徳寺に戻った翌天文5年(1536)3月、当主の氏輝が突如急死します。もともと病弱だったということもあり、家中では予想していた事態だったかもしれませんが、奇妙なことにその後の家督を継ぐはずだった次子の彦五郎も同日に亡くなっているのです。

 これは偶然なのか、作為があったのかはハッキリしていません。また、氏輝と彦五郎が同一人物ではないかという説もあるので、真相は謎のままです。ただ、氏輝の死によって、今川氏の家督を誰が継ぐのか大きな問題になったことは事実です。

太原雪斎のイラスト
雪斎が裏から手をまわした?

 ちなみに先代の氏親の葬儀の際の列席順は庶兄の玄広恵探よりも、義元の方が上に記されていたので、家督を継ぐ順序も義元に優先権があったと考えられています。というのも、義元は亡くなった氏輝と同じ正室である寿桂尼の子だからです。

 5月には室町幕府12代目将軍である足利義晴から御内書が発せられています。内容としては今川氏の家督は今川五郎殿が継ぐことと記されています。

 今川五郎とは義元のことだと考えられますので、おそらく雪斎が京都の公家との人脈を利用して将軍にいち早く働きかけたのでしょう。正式な証がないと義元の家督相続が危うかったのかもしれません。

花倉の乱は義元の圧勝だったのか?

 こうした義元の家督相続に異を唱えたのが、庶兄の玄広恵探でした。拠点である志太郡花倉城(葉梨城)で外祖父の福島氏と共に挙兵、これが「花倉の乱」です。

 ただし、状況的に玄広恵探に味方する者はほとんどいなく、6月10日に朝比奈川を渡った先にある支城の方ノ上城(かたのかみじょう)を岡部左京進親綱に攻略され、花倉城も大軍に攻められたため玄広恵探は城を落ちます。

 山を越えて瀬戸谷に逃れ、同日に善門寺で自害したというのが通説です。あまりにもあっけない敗北で、これを義元が脅威に感じることはなかっただろうと予想されます。

花倉の乱の要所マップ。色塗部分は駿河国。

国を二分したという新説

 しかし近年研究がすすみ、この花倉の乱は今川氏の勢力を大きく二分していた政権抗争だったとする説も登場します。これは単なる家督争いにとどまらず、外交上の問題にも発展した、とする見方です。

 福島氏は遠江国で大きな勢力であり、高天神城の城主です。他にも例えば今川氏の重臣である朝比奈氏からも朝比奈千太郎などが玄広恵探に味方しています。実際、乱の終結後には、千太郎の所領は功績のあった平野弥四郎に恩賞として与えられています。

 以下は『人物叢書 今川義元』(有光友學著)の中で提示されている乱の構図です。

  • 今川義元
  • 太原雪斎
  • 武田氏
VS
  • 玄広恵探
  • 北条氏
  • 福島氏
  • 寿桂尼

 北条氏と福島氏は血筋の繋がっている可能性があることから、北条氏も玄広恵探に味方したのではないかと考えられています。

 また、義元の実母である寿桂尼が敵の玄広恵探に加担するのは、おかしな話だと思いますが、史料には「寿桂尼が玄広恵探に同心し、側近である福島越前守に今川氏家伝の重書を渡していた」という記載があります。この重書は岡部左京進親綱の手によって奪い返され、義元は親綱に感状を与えています。

 このほか、

  • 寿桂尼の側近として福島氏が仕えていた
  • 寿桂尼の娘(瑞渓院)は北条氏康の正室

といった点などをあげ、彼女が恵探派となった解釈を試みています。

 …だとすれば玄広恵探の支持基盤はかなり大きなものだったことになります。義元としても危機感があったのではないでしょうか。

戦後に外交方針を転換したのはなぜ?

 色々と謎の多い花倉の乱ですが、『高白斎記』によると、花蔵生害は6月14日と記されており、玄広恵探が敗北して善門寺で自害したのは確かなようです。

 これにより今川氏9代目当主の座に義元が就き、正式に「義元」を名乗るわけですが、直後に今川氏は外交方針を一変し、対立していた武田氏と同盟を結んでいます。

 このとき義元は信虎の娘を正室に迎えています。信虎の嫡男である武田晴信(信玄)も義元の斡旋により、公家の三条公頼の娘と結婚しています。雪斎が乱以前から武田氏と交渉して、このような話が進んでいたのは疑いようがありません。

 一説には花倉の乱に北条氏が介入しすぎて、旧領を取り戻そうとしているのではないかと危惧した義元が北条氏と手切れし、武田氏と結んだ、とあります。

 そもそも義元が家督を継ぐためには、武田氏と結んで北条氏と対立しなければならなかったとも考えられるのです。

おわりに

 そして今川氏と北条氏は天文6年(1537)から武力衝突していきます。これが「河東一乱」です。

 玄広恵探と北条氏が繋がっていたとしたなら、その後の今川氏の武田氏との同盟や河東一乱も納得いきます。雪斎が武田氏との盟約を取り付けなければ、もしかすると玄広恵探が義元を破り、今川氏の家督を継いでいたのかもしれません。


【参考文献】
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。