真田氏の本拠となった上田城はなぜ築かれたのか?

 徳川勢を二度も撃退したことで知られるのが、真田氏の拠点である信濃国の「上田城」です。築城が開始されたのは、本能寺の変が起こった天正10年(1582)以降のことで、天正13年(1585)には徳川勢が攻め寄せています。

 この時期になぜ上田城は築城されたのでしょうか?今回はその理由や背景など、深掘りしてお伝えしていきます。

真田氏は誰と敵対していたのか?

本能寺の変の後、上杉氏に従属

 織田氏に従属していた真田氏でしたが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こると、まもなく状況が一変しました。支配者を失った甲斐国や信濃国に向け、越後国の上杉景勝や相模国の北条氏政・北条氏直親子、駿河国の徳川家康などが侵攻し始めたのです。いわゆる「天正壬午の乱」です。

旧武田領の争奪戦となった天正壬午の乱マップ
旧武田領の争奪戦となった天正壬午の乱。信濃の国衆である真田は次々と主君を変えて生き延びた?

 この巨大な勢力すべてを敵に回せるほどの力を真田氏は有していません。当主である真田昌幸は、どこに帰属すべきかを早急に決めなければならない状態になりました。

 まず身近に迫った脅威は上杉氏です。いち早く北信濃に侵攻してきます。そこで昌幸は弟の加津野昌春とともに上杉氏に従属することを決めました。上杉勢は昌幸・昌春兄弟の協力を得て、更級郡牧之島城を攻略。さらに青柳氏や岩下氏を味方に引き込み、ついに木曾義昌を退去させて深志城まで勢力を拡大します。

 この時点では真田氏は上杉氏に大きく貢献しているわけです。

先を見抜き、北条氏に従属

 しかし、同年6月中旬には、信濃国の国衆で北条氏に味方する者たちが増えてきます。小県郡では室賀氏、出浦氏、禰津氏、佐久郡では伴野氏が北条氏に従属したことで、昌幸にとってもっとも驚異になったのが北条氏でした。

 上野国でも真田氏の領土は北条氏と隣接していますから敵対すると真っ先に潰される危険性がありました。そこで昌幸は昌春をそのまま上杉氏に残し、北条氏に寝返るのです。

 北条氏はそのまま北信濃の川中島まで侵攻しますが、上杉氏との全面衝突は避けて、甲斐国制圧に転じました。昌幸は上杉氏追撃を食い止める役を任され、そのまま自領に残ることになるのですが、周辺に敵を抱える上杉氏には追撃する余裕はなく、おかげで昌幸は静かに今後の状況を見定めることができました。

さらに先を見据え、徳川氏に従属

 信濃国で徳川氏に味方し、必死に戦っていたのが依田信蕃です。しかし北条氏に味方する国衆が多く、圧倒的に不利な状態でした。小諸城を捨て、ゲリラ戦を展開しています。

 そんな信蕃が目をつけていたのがかつてともに武田氏に仕えていた昌幸でした。信蕃は昌幸の器量を認めており、また徳川氏からも許可されて昌幸調略を進めていきます。

 昌幸にとってはこのまま北条氏が信濃国を制圧してしまうと身動きが取れなくなること、徳川氏に味方すると信濃国一郡(さらに信蕃が諏方郡も譲るとの条件も加わる)を得られることなどを加味して、10月中旬には正式に北条氏から離反することを公表しています。

 昌幸は兵糧不足に悩む信蕃に対して兵糧を運び込み、さらに北条氏の糧道を断って損害を与えています。そのため北条氏は徳川氏との和睦を模索することになりました。この時点では真田氏は徳川氏に大きく貢献しているわけです。

 天正壬午の乱については以下の記事でかなり詳細に書いていますので、興味のある方はぜひご覧ください。


北信濃を巡る上杉氏と徳川氏の対立

昌幸の小県郡平定

 北条氏と徳川氏の和睦は10月29日に執り行われましたが、信濃国では北条氏に味方する国衆と徳川氏に味方する国衆との衝突が続いています。昌幸はこの好機に小県郡制圧をもくろみ、12月までに禰津昌綱を降伏させました。

 年明けの天正11年(1583)1月には昌幸の進出に対して河南の国衆が蜂起しましたが、昌幸はこれを徳川氏に対する逆心であると家康に報告し、討伐の許しを得ます。丸子三左衛門の丸子城を攻略するなどして、室賀氏以外の勢力を帰属させ、小県郡を平定しました。

 これに脅威を感じたのは隣接する上杉氏です。3月には景勝が牧之島城主である芋川親正に対し、真田氏の動きを厳重に警戒するよう指示しています。

 家康は甲斐国を出陣し、諏方郡の高島城を攻略。北信濃へ侵攻し、上杉氏に味方していた尾代秀正や深志城主の小笠原貞慶の調略に成功してさらに足場を固めていきました。

 景勝は家康の侵攻に備えるため、虚空蔵城に兵力を集めて迎撃する構えを見せています。一度は上杉氏に従属していた昌幸でしたが、このときには徳川氏に従属し、上杉氏と敵対していたのです。

虚空蔵城攻めでの激突

 3月15日、昌幸の実弟である真田信尹が、上杉氏領の長沼城代である島津忠直宛に書状を送っています。

 内容は「徳川氏はこれ以上、信濃国に侵攻する意図はない」というもの。あくまでも味方である真田氏を守るために出陣してきたということでしょう。ただしこれは昌幸の策謀だったようで、上杉勢を油断させておいてから3月21日には虚空蔵城に奇襲を仕掛けています。

 ここで昌幸が見事に虚空蔵城を攻略していたら、上田城の築城はなかったはずです。虚空蔵城は大きな損害を受けながらも落城を免れ、真田勢を追い返しました。

 景勝はこのまま兵力を増強して追撃したかったでしょうが、越中国の佐々成政を警戒する必要もあり、出陣したくてもできない状態でした。4月になって飯山城代の岩井信能に虚空蔵城への援軍を指示するに留まっています。徳川氏と上杉氏の戦いは膠着状態となりました。

 そして上田城の築城が開始されたのが、ちょうどこの4月です。虚空蔵城と対峙できるように建てられたのです。

上田城を築城したのは家康だった

家康の命令で徳川氏によって上田城は築城された

 実は近年まで上田城は昌幸が築城した真田氏の本拠地と考えられていました。しかし2008年に寺島隆史氏の研究によって、昌幸が築城したのではなく、「家康が上杉氏への備えのために築かせた徳川氏の城」だったことが明らかになりました。つまり、上田城の本来の持ち主は家康だったのです。

 景勝の書状によると、「真田が海土淵(尼ヶ淵)を取り立てて築城を始めた」とあります。小泉氏の拠点であった尼ヶ淵城を拡張、改修して上田城を築城したわけですが、そこで大きく貢献したのは間違いなく真田氏だったということです。ただし、この時点で上田城は徳川氏の領土に築城された徳川氏の城です。家康もまさかこの後、上田城が天敵の要衝になるとは思ってもみなかったことでしょう。

なぜ真田の本拠地になったのか?

 徳川の城がなぜ真田の拠点になったのか、詳細ははっきりしていませんが、おそらく「天正壬午の乱」での和睦の際に、真田氏の領土だった沼田領が北条氏に譲渡すると決定したため、その代替地として昌幸に上田城が与えられたと考えられます。

 家康としてみれば、上杉氏への備えは真田氏に任せるという決断だったのでしょう。天正12年(1584)には家康は秀吉と対峙していましたから北信濃の情勢まで気にする余裕はなかったのです。

おわりに

 ただ、昌幸は沼田領を北条に譲ることは受け入れませんでした。家康との関係が悪化する中で、時間を引き延ばしながら敵対する準備を整え、やがて家康と手を切って上杉氏に転属。徳川勢と真田勢が激突する「第一次上田城の戦い」へと話が進んでいきます。

 家康は自分が築城させた城を攻略できずに苦戦することになるわけですが、そのような状況にうまく運んだ昌幸の知謀には恐れ入ります。結論からすると「自分を守る城を敵に築かせた」わけですから、昌幸にとっては快心の一手、家康にしては実に不愉快な話だったのではないでしょうか。




【参考文献】
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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