家康と室賀正武による真田昌幸暗殺未遂事件の全貌とは?(1584年)
- 2020/05/03
「徳川家康」は豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いや大坂城攻めの勝利によって天下を治めることに成功しますが、その家康を苦しめたのが「真田氏」です。
家康にとって天敵は真田氏の当主を務めた「真田昌幸」でした。そんな昌幸を家康が暗殺しようとしていたという説があります。今回は家康による昌幸暗殺計画についてお伝えしていきます。
家康にとって天敵は真田氏の当主を務めた「真田昌幸」でした。そんな昌幸を家康が暗殺しようとしていたという説があります。今回は家康による昌幸暗殺計画についてお伝えしていきます。
なぜ家康は昌幸を暗殺しようと考えたのか
天正壬午の乱の終結と和睦条件
家康と真田昌幸の関係は、本能寺の変での信長死後に勃発した天正10年(1582)の「天正壬午の乱」からはじまります。この戦いは、主に上杉・北条・徳川といった周辺の大名が、旧武田領の三国(上野、信濃、甲斐)を侵略する戦争でした。信長の死により、旧武田領の情勢が不安定になったことが原因です。
渦中にあった真田昌幸は主君を次々と変えて生き残りをはかり、最終的に家康に従属し、この危機的状況を乗り越えることに成功しています。しかし、乱が終結した10月、家康は北条との和睦条件として真田氏の領土である沼田・岩櫃領を北条に譲渡することを約束してしまうのです。
もちろん家康としてはその代替地を昌幸に提示していたと考えられますが、沼田・岩櫃領は家康から与えられた領土ではないため、そのような指示を受ける覚えはないと昌幸はこれを断固拒否します。(沼田領問題)
こうして昌幸と家康は主従関係でありながら、悪化の一途をたどっていくことになります。
北条氏からの強い要請があった
家康が昌幸の領土問題を本格的に扱っていれば、北条と徳川を敵に回すほどの力を持たない昌幸は譲渡せざるを得なかったでしょう。しかし家康はそれができない状態でした。急速に勢力を拡大している豊臣秀吉(この時期は羽柴姓ですが豊臣秀吉で統一します)と対峙していたためです。さらに天正12年(1584)に入ると、小牧・長久手の戦いが起こるなど、家康と秀吉が軍事衝突をして覇権を巡る争いとなりました。もはや沼田領どころではありません。
家康は秀吉に対抗するため北条氏との同盟関係をより強固なものにし、援軍を要請するのですが、ここで北条氏政・氏直父子は援軍を出す代わりに沼田・岩櫃領の問題を解決してほしいと要請しました。
もちろん家康は再三再四、昌幸に領土引き渡しを要求しますが、昌幸が承諾することはありませんでした。家康にとって昌幸は実に目障りな存在になっていくのです。
室賀正武が昌幸暗殺の刺客となる
昌幸暗殺計画
家康と秀吉が対峙している最中、昌幸暗殺計画が進められていきます。首謀者は信濃国小県郡で真田氏と勢力を二分していた室賀氏の当主である室賀正武。NHK大河ドラマ「真田丸」をみていた方は、西村雅彦さん演じる正武の名セリフ「黙れ 小童(こわっぱ)!」が印象に残っているのではないでしょうか。
『加沢記』によると、同年6月、家康の指示で密命を受けた鳥居元忠が正武と接触し、昌幸暗殺を持ちかけたと記されています。昌幸を邪魔に思っていた正武はこれに承諾し、密かに機会にうかがいました。すると上方から囲碁の名手が昌幸のもとに訪れることになり、正武にも上田城招待の知らせがきます。
正武は家臣の室賀孫右衛門を使者に選び、7月7日、上田城に登城した際に昌幸暗殺を実行することを元忠へ伝えました。混乱した城内を鎮めるための援軍を派遣してもらう要請です。そして当日は供回りの数を減らして登城し、昌幸を油断させる作戦を実行します。
昌幸の調略の方が一枚上手だった
正武はこのとき、昌幸を討って小県郡全域を制圧することを夢見ていたことでしょう。しかし、正武の策略は昌幸に筒抜けでした。実は元忠のもとにこの策略を伝える使者に選ばれた孫右衛門はすでに昌幸に味方していたのです。甲斐武田氏が滅ぼされた際に、正武の勢力のほとんどが昌幸の調略によって真田氏に内通したのですが、孫右衛門もそのひとりだったわけです。孫右衛門は武田滅亡時からスパイとして昌幸に室賀氏の内情を密かに伝えていたのかもしれません。そんな相手に正武は大事な使者を任せてしまいました。
昌幸暗殺計画はただちに昌幸に伝わり、昌幸は返り討ちにする準備を進めます。昌幸を騙すために供回りを少なくしていたのですから、城内で待ち伏せされたらひとたまりもありません。こうして正武はあっさりと昌幸に討たれてしまいました。
家康と結託して画策された昌幸暗殺計画はこうして失敗に終わったのです。調略にかけてはやはり昌幸の方が一枚も二枚も上手だったということでしょう。
これを知った正武の妻子は自害しようとしましたが、常福寺の善誉に止められ、甲斐国へ逃れています。この経緯は善誉から上杉氏や栗田氏に送られた書状にも記されており、正武が昌幸を裏切って殺されたのは間違いないようです。
こうして昌幸は小県郡を完全に制圧したのです。
暗殺計画失敗後に何が起こったのか
家康は圧力をかけるため甲府に入る
天正13年(1585)に入ると、秀吉との和睦によって軍事衝突が当面の間は回避できるようになったため、家康には真田氏の領土問題に対処するための余裕が生れました。家康は甲府に入り、昌幸に圧力をかけます。家康は沼田領を北条氏に引き渡すように要求しましたが、ここでも昌幸はかたくなに拒否しています。
家康としても調略によって倒せる相手であればそうしたのでしょうが、前年の暗殺計画が失敗に終わったこともあり、方針を転換する必要がありました。それが軍事力で昌幸を圧倒するという方法です。
これに対して昌幸は先手を打って徳川氏を離反し、上杉氏に従属しました。そして同年8月には徳川勢が昌幸の本拠地である上田城を攻めています。これが徳川勢の歴戦の将が大勢の兵を率いて攻め込みながらも昌幸の戦術に翻弄されて迎撃された「第一次上田合戦」です。
家康は暗殺計画が失敗に終わっただけではなく、軍事力で昌幸を叩き潰すという作戦も失敗してしまったのです。
昌幸が家康の天敵と呼ばれているのはこのような背景があったからこそです。家康にとって昌幸は、秀吉と並んで扱いにくい相手だったのではないでしょうか。
正武の子による仇討ち
余談にはなりますが、正武の子である室賀久太夫はどうなったのでしょうか?『士林泝洄』によると、善光寺に入った後、上杉氏に仕える直江兼続に招かれて還俗しています。その後も父親を殺した昌幸への恨みは募っていったのでしょう。再び野に下り、昌幸暗殺を試みますが失敗しています。
しかし父親を裏切った一族の室賀源助を討って無念を晴らし、その後は尾張徳川氏に仕えたと記されています。そして室賀氏は幕末まで旗本として徳川氏に仕えていくのです。
尾張藩の初代藩主は家康の九男である徳川義直です。久太夫はその参謀を務めたとされており、大坂夏の陣では義直は1万5千の兵を率いて後詰めをしています。このとき家康の本陣目指して突撃を仕掛けてきたのが豊臣方の真田信繁(昌幸の二男)でした。信繁はあわやというところまで家康を追い詰めますが、最終的には力尽きて戦死しました。
もしかすると混乱の中、ここで大いに活躍して真田勢を迎撃したのが久太夫だったかもしれません。だとすると親の仇を久太夫は見事に討ったということにもなります。
おわりに
表だって語られることがほとんどない家康の昌幸暗殺計画。はたしてどこまでが真実なのか、実に興味深いところです。これがもし真実であれば、家康の策略をはねのけた昌幸の知謀はもっともっと評価されるべきなのかもしれません。【参考文献】
- 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社、2015年)
- 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP研究所、2011年)
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