「天正壬午の乱(1582年)」信長死後、旧武田領は戦国武将たちの草刈り場に!

武田滅亡に続いて織田信長も本能寺で討たれ、武田旧領の甲斐・信濃・上野の三国が動乱に見舞われた「天正壬午の乱」。この戦いは周辺の徳川・上杉・北条といった大大名、そして真田をはじめとする国衆らが武田旧領の争奪戦を展開していきます。

本記事では大国に挟まれた真田氏の視点から、動乱の中で自領を守り抜いた流れをみていきたいと思います。

動乱の背景

武田滅亡直前の真田

天正10年(1582)3月11日、名門・甲斐武田氏は織田信長や徳川家康らの侵攻を受けて滅びました。そんな中、武田重臣であった真田昌幸は、武田が滅ぶ直前に主君・武田勝頼の許可を得て、居城の上野岩櫃城に向かい、難を逃れています。

主君を失ってしまった昌幸ですが、実は生き残りのために前もって策を講じていました。彼は武田滅亡直前の3月6日に、沼田城を守る矢沢綱頼宛てに以下の内容の書状を送っていたのです。

  • 綱頼の目にかなう優秀な人物に知行を配当して城を守る兵力を確保すること。
  • 指揮下に置いている牢人衆に備蓄してある城米を分配してもかまわないこと。
  • 真田氏の所領を与えることを条件として牢人衆をただちに雇用すること。
  • 兵力を確保してなんとしても沼田城を守ること。

この時点で、昌幸は岩櫃城に向かっていますが、この書状を見る限り、岩櫃城だけでなく、沼田城も北条から守ろうとしているのがよくわかりますね。

また、その一方で、武田滅亡直後の3月12日付で昌幸に宛てた北条氏邦書状の中で、氏邦は「北条家当主・氏直に忠誠を尽くすときがきたのだ」と昌幸を懐柔しようとしています。つまり、昌幸は事前に北条氏とも接触していて、状況次第では北条の家臣になろうとしていたのです。


織田への従属

しかし、3月上旬、武田を滅ぼした織田信長がその勢いで上野国にまで森長可らの軍勢を派遣してきます。

国峯城主・小幡信実(信貞)、安中城主・安中七郎三郎などの上野国衆は次々と降伏・臣従を余儀なくされ、さらには昌幸と北条氏との折衝を仲介していた八崎城の長尾憲景も北条氏から織田へ転じることに…。

こうした情勢を鑑みて、真田も織田に従属することを決めます。

織田家臣による旧武田領の分与
織田家臣による旧武田領の分与

上記の図のように武田滅亡後の旧武田領は信長家臣たちに分配されました。結果、真田一族は上野国と信濃国の小県郡を支配することになった滝川一益の下に置かれます。

真田昌幸は一益に沼田城と岩櫃城を明け渡し、信長には馬を贈って臣下の礼をとったとされています。これに対して信長は4月8日付で昌幸に令状を送っています。

信長の死をきっかけに武田旧領は動乱へ

しかし、6月2日には天下統一を目前にしていた信長が本能寺で横死。その後まもなく、信長の死を知った上野国では国衆らの新たな動きが始まっていました。

上野国・沼田城では、元城代の藤田信吉が城主・滝川儀太夫(益重)に城の明け渡しを要求しますが、これを拒否されたため、沼田城を脱出。軍勢を集めた後に沼田城を攻撃してきました。儀太夫軍の奮闘と滝川一益の援軍の到着もあって、結局、藤田信吉は沼田城の奪取をあきらめて上杉氏へ亡命していきました。

こうした中、今度は北条氏直の大軍が上野国へ向けて北上を開始します。
6月16~19日にかけて武蔵国児玉郡上里町周辺で滝川一益がこれを迎え撃ちますが、敗退して信濃へ逃亡を余儀なくされています。(神流川の戦い)

一方この頃、北信濃の海津城主・森長可、南信濃の飯田城主・毛利長秀は身の危険を察知して領地を放棄してそれぞれ美濃と尾張へ逃げ帰り、甲斐を任されていた河尻秀隆は6月18日に武田遺臣による襲撃によって殺害されてしまいます。

このようにして旧武田領である甲斐・信濃・上野は空白地帯となり、徳川・上杉・北条の3氏と、真田氏をはじめとする武田遺臣や地元の国衆らによる争奪戦が繰り広げられることになるのです。(天正壬午の乱)

なお、参考までに信濃国の主な武田遺臣・国衆を以下にあげておきます。
  • 小県郡:真田昌幸、室賀正武、出浦昌相など
  • 木曾郡:木曾義昌
  • 諏訪郡:諏訪頼忠
  • 伊那郡:保科正直
  • 安曇郡:仁科氏


争奪戦が開始!真田はまず上杉へ従属

武田滅亡、そして本能寺の変が起きて立て続けに後ろ盾を失った真田ですが、この天正壬午の乱で徳川・上杉・北条といった強大な勢力を相手に、昌幸はどのように生き残りを図ったのでしょうか?

この乱は6月から10月まで繰り広げられていきますが、昌幸がのちに「表裏比興者」と評された理由は、この争いでの振る舞いから見えてきます。

信長死後、真田は即上杉氏に従属

越後の上杉景勝は、本能寺の変を知るとすぐに北信濃の川中島の制圧に着手。そして、真田家の生き残りをかけた昌幸の知略は、まず、この景勝に従うところから始まります。

6月16日、昌幸は上杉氏に従属しながらも上野国・鎌原宮内少輔を味方につけ、信濃国から岩櫃城に向かう関門を確保。そして、その後に草津の武士・湯本三郎右衛門尉を懐柔して派遣し、明き城同然となった岩櫃城も確保します。

侵略を開始する北条軍

同じ頃、北条氏は滝川一益を敗走させた後に上野国の制圧を推し進めており、さらに信濃侵攻をも目前にしていました。

信濃国衆の調略をすすめていき、19日までには室賀城主・室賀正武、出浦城主・出浦昌相を味方につけ、さらに野沢城主・伴野信番、前山城主・伴野全真、宮内信守父子、諏訪郡千野兵衛尉昌房も臣従させることに成功しています。

6月下旬までには沼田・吾妻領の真田の支配地域と前橋城主・北条芳林の支配地域を除く地域を確保。沼田や前橋は後に回して、信濃国への侵攻を急いだといいます。

北条氏が配下におさめた上野国衆は、白井城の長尾氏、高山城の高山氏、新田金山城の由良氏、安中城の安中氏と一宮氏、箕輪城の内藤氏・小幡氏、和田城の和田氏、後閑城の後閑氏、小泉城の富岡氏、今村城の那波氏など

こうした情勢を鑑みた昌幸は、密かに北条氏へ転じる決意をしたといい、信濃小県郡の室賀氏の家臣達を調略によって取り込み、21日までに羽尾領・吾妻領を制圧するに至っています。

上杉軍の動き

一方、上杉景勝は別働隊を編成し、越後にかくまっていた小笠原洞雪斎を擁立して、調略によって信濃安曇郡の仁科氏遺臣の勢力を結集させ、織田信長に所領を安堵されていた木曾義昌のいる深志城に侵攻させていました。

木曾義昌を本領の木曾に撤退させると、6月下旬ごろには空き城となった深志城に洞雪斎を入れます。実はこの深志城への侵攻に一役買ったのが真田昌幸でした。

深志城へ侵攻するには、川中島から深志へ抜ける要衝・麻績城(おみじょう)を支配する青柳頼長や会田岩下氏を味方につける必要がありました。この役目を昌幸が担当し、見事に調略によってこれを実現させています。

なお、昌幸はこの調略を済ませた直後に上杉氏を離れたとされています。

徳川の動き

一方で徳川家康も、本能寺の変から帰国後すぐに動き出していました。

各地に匿っておいた武田遺臣を呼び出して、本領に帰還させて味方を募るように命じています。また、武田遺臣の旧領回復を支援して自軍に帰属させるなど、甲斐・信濃を奪取するための様々な工作も行なっています。

6月28日には七手衆(大久保忠世・本多広孝ら)を先発隊として甲斐へ派遣して甲府を占領。その後、諏訪頼忠を味方にするべく、直ぐに諏訪へ進軍させているのです。

真田、次に北条へ転じる

北条の信濃侵攻

7月9日、昌幸は北条方に正式に帰属し、それと同時に7月は上野国に家臣を駐留させる体制構築を進めていきます。

同月12日、北条氏直は信濃国衆を取り込んだ上で先陣を信濃国佐久郡に侵入させました。これに対し、佐久・小県郡の国衆を調略していた徳川方の依田信蕃(よだ のぶしげ)は、小諸城を放棄して春日城へ逃亡し、籠城することに。

13日、真田昌幸や塩崎氏、海津城代の春日信達など、13人の有力武将が北条氏直のもとへ出仕。その他、木曾義昌も北条方に転じます。その後、氏直は徳川方の依田信蕃の春日城を攻め、信蕃は蓼科山麓の三澤小屋に籠城。氏直は重臣・大道寺政繁に三澤小屋を託し、自らは川中島の制圧に転身して海津城の上杉景勝との決戦に臨むことになります。


氏直は武田四天王の一人・高坂昌信(春日虎綱)の次男で海津城代の春日信達と内通しており、景勝が海津城を出陣したら信達を城兵と蜂起させて挟撃する手筈でした。しかし、その調略が上杉方に露呈して春日一族が処刑されてしまったことで作戦は失敗に終わり、手詰まりとなってしまいます。

北条と上杉の講和

昌幸は氏直に対し、上杉氏との戦いで士気の低下と兵糧の欠乏の恐れがあることから早期決戦を進言しますが、これを却下されてしまいます。

氏直は上杉との決戦を中止し、駿河の徳川家康軍と対決することを宣言し、北条氏照らの諸将もこれに賛同。これに対して昌幸は、

  • 「だったら佐久郡に侵入したときにそのまま甲斐に攻め入らなかったのか」
  • 「甲斐は既に徳川方の調略が進んでいるため手遅れ」

などと氏直を諌めたものの、受け入れられませんでした。

昌幸の進言も空しく、北条軍は19日頃に撤退を開始して甲斐国へ向かいました。このとき、景勝の抑えとして昌幸は残留を申し出て許可されています。

なお、上杉景勝は27日に北信濃の武士・山田右近尉に朱印状を送って褒め称えていますが、これは謀反人・真田信尹(=加津野昌春)を追放したためのことであったといい、信尹が昌幸の命で山田右近尉を調略して上杉領を狙っていたといわれています。

7月末には、上杉氏と北条氏で講和が結ばれました。

この講和は上杉氏は新発田重家への憂いがあり、また一方の北条氏も家康との戦いを前に後顧の憂いを断つ必要があったため、両者の思惑が一致した格好でした。この結果、上杉氏は川中島四郡の所領化を達成し、越後に引き上げていきました。


家康の調略と北条軍の南下

一方で家康は、7月に入ってから浜松城を出陣して駿河国・遠江国の守りを固める指示をだし、9日には甲府、18日には先発隊として甲斐国へ派遣していた七手衆と諏訪で合流。7月中旬ごろまでには調略により、伊那郡・筑摩郡・安雲郡が徳川方に帰属する見通しとなっていました。

なお、同じ頃に徳川本隊に従軍していた小笠原貞慶は上杉領となっていた深志城を目指して別行動をとり、叔父の小笠原洞雪斎を追放して深志城を奪取しています。


しかし、諏訪において諏訪頼忠の説得に失敗。7月22日には北条方についた諏訪頼忠と一戦交えることとなってしまいます。これを知った北条氏直の大軍が頼忠救援のために信濃から南下を開始。さらに追い打ちをかけるように深志城の小笠原貞慶が徳川家臣の酒井忠次・奥平信昌と対立し、北条方に転じてしまう事件が起きます。

こうして情勢が不利となってしまった家康は、8月初旬に諏訪・高島城の攻略をあきらめ、新府城と能見城を対北条戦の拠点として、再度作戦を立て直すことを余儀なくされました。

8月12日、北条氏忠・氏勝の軍勢が家康の背後を襲うべく、甲斐東部の郡内地方へ進撃してくるが、これを撃退(黒駒合戦)。22日には北条方についていた木曾義昌が家康側に寝返ります。

一方で昌幸はこの混乱の影で、8月下旬までに沼田城に矢沢綱頼、岩櫃城には子の真田信幸を置く体制を整えていきました。

戦局のキーマンとなった昌幸

依然として劣勢であった家康はこれを打開するため、昌幸を味方につけようと目論んでいました。

信濃佐久郡では唯一の徳川方の依田信蕃が三澤小屋に籠城しつつ、隙をみて北条方の諸城を攻めるなどのゲリラ戦を展開していましたが、兵力や兵糧不足で大きな戦果をあげられずにいました。

家康からの援軍を受け、9月初旬には甲斐の武川・津金衆らの支援等で兵は増えたものの、兵糧不足はより深刻となっていきました。そこで信蕃は昌幸を味方につけようと考えるのです。

同じことを考えていた家康と家臣・大久保忠世は、信蕃に昌幸を味方にするよう書状を送っており、信蕃は返書で家康にもそのための策を講じてほしいと要請します。

家康は昌幸宛ての半形を用意して忠世に渡し、忠世は家臣に半形を渡して家康の密命を伝え、昌幸の元へ派遣。一方の信蕃もまた、滋野一族と縁の深い天台宗の住職を使者に頼み、昌幸の元へ派遣したといいます。

昌幸は深い天台宗の住職の使者と対面し、詳細な返事を求めました。そこで信蕃から2度目の使者・家臣の依田十郎左衛門が派遣されてきて、徳川方との和睦交渉を行うことになります。

昌幸は和睦に同意して三澤小屋の麓まで出向き、信蕃と話し合いを行ないました。このとき、家康に従属する旨の起請文を出すように要請されていますが、昌幸も逆に家康の起請文を出すように願い出たとか。

こうして交渉は成立し、昌幸は兵糧に苦しんでいた信蕃に兵糧を提供することとなるのです。

真田、最後は徳川へ…

9月28日、昌幸がついに正式に徳川方に転じます。同日付けで家康は箕輪城一帯や甲斐国で2000貫文、諏訪一郡、当知行(現在の昌幸の支配地域)を与えると明記した知行宛行状を作成しています。さらにこのころ、徳川方は対北条戦のために上杉氏との連携の合意にも至っていました。

なお、徳川方ではこの一連の真田昌幸の調略は極秘裏にすすめられており、ほとんどの徳川方の諸将は知らされていなかったようです。真田昌幸が味方になったという諸将への通達は10月10日だったといいます。

ところで、昌幸はなぜ、北条を見限って徳川に転じたのでしょうか。最大の目的は昌幸が武田勝頼より受け継いだ沼田城と岩櫃城を確保すること、と推察されています。しかし、北条氏政が沼田城と岩櫃城を手中におさめることを公言していたといい、これが徳川に転じた理由のひとつとみられています。

北条方は10月に入り、ようやく昌幸の不穏な動きを察知することになります。

昌幸は10月19日までに北条方に手切れを通告し、小県郡を攻めるなど軍事行動を開始しました。また、このころには「真田郷 → 鳥居峠 → 羽根尾城 → 岩櫃城 → 尻高城」を結んで沼田城へ至るラインを確保し、守備固めを終えたのです。


一方で佐久郡の徳川方が10月21日に望月城を陥落。これに対して北条方は北条綱成らを甲斐国から戻し、また、吾妻郡の大戸城主・浦野入道にもすぐに岩櫃城を攻めるように指示しています。その後、昌幸と依田信蕃は小諸城と伴野城の連絡を遮断。26日には徳川方が芦田城を陥落。この城の確保のため、昌幸が兵糧を提供しています。

また、信蕃は内山城を奪取して北条軍の補給路の遮断に成功。やがて昌幸とともに碓氷峠を占領して、さらに岩村田城も攻略。こうして佐久郡の戦いは徳川方優位となり、昌幸は本領に引き上げていきました。

乱の終結

徳川との戦いで進退に窮し、また、常陸国の佐竹義重が上野国へ侵攻してきたこともあり、北条方はついに家康との和睦を決意。10月29日には織田信雄を仲介役として、以下の内容で講和が締結されることとなりました。

  • 甲斐国・信濃国で北条方が占領した領土は徳川家康に渡す。
  • 上野国は北条氏が切り取り次第とし、真田昌幸が確保した沼田領は北条方に渡す。
  • 北条氏直の正室に家康の娘・督姫を娶らせ、同盟を結ぶ。

この講和条件は沼田領を切望する昌幸にとっては到底受け入れがたいものであり、のちに昌幸と家康が対立する遠因となっていくのです。





【参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』(戎光祥出版、2015年)
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。