丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

「長浜の戦い(1560年)」槍の突き方さえ知らなかった元親が初陣で大活躍!

ろひもと理穂
 2020/09/01

長宗我部の菩提寺「雪蹊寺」。背後の山は長浜城跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%B9%8A%E5%AF%BA" target="_blank" rel="noopener noreferrer">wikipedia</a>)
長宗我部の菩提寺「雪蹊寺」。背後の山は長浜城跡(出所:wikipedia

織田信長や徳川家康らが活躍する戦国時代において、四国の覇者として君臨したのが「長宗我部元親」です。しかし元親が家督を継ぐ以前の長宗我部氏は土佐国の支配権を巡り、本山氏と死闘を繰り広げているような段階でした。

そうした中で元親は初陣を迎えます。それが「長浜の戦い」です。今回は元親の初陣での活躍についてお伝えしていきます。

長宗我部氏と本山氏の関係

土佐国の有力国人

応仁の乱以降、土佐国を支配していた細川氏が衰退するのと同時に、土佐国の有力国人らが力をつけ、勢力を拡大していきます。

一条氏と土佐の有力豪族「土佐七雄」
土佐国司の一条氏、および土佐七雄の拠点マップ

長宗我部氏もその一角を担っていましたが、同じ有力国人の本山養明によって拠点の岡豊城を攻められ、元親の祖父にあたる長宗我部兼序は敗死し、落城しています。

兼序の嫡男である長宗我部国親は一条氏を頼り、やがて旧領を取り戻すのですが、長宗我部氏と本山氏の関係は当然のように険悪でした。

国親が善政を行い、国力を高め、着実の力をつけていくことで本山氏との衝突は避けられないものになっていきます。一条房家はこのままだと再び土佐国が戦乱にまきこまれると危惧し、両氏の縁組みの仲介を買って出ました。

こうして長宗我部氏当主の国親の娘と本山氏当主の本山清茂の嫡男である本山茂辰の縁組みが実現したのです。房家の目論見では、これで土佐国に平和が訪れるはずでした。

清茂の死と両氏の衝突

本山氏の拠点は長岡郡の本山城です。本山清茂は家督と共にこの城を嫡男の茂辰に譲り、自らは朝倉城に入りました。茂辰は土佐国の有力国人の一角である吉良氏を攻めてその領土を奪い、所領は土佐国の北の本山から南は長浜・浦戸までを占めるまでになっていました。

そんな中で清茂が天文24(1555)年に病没します。大黒柱を失った本山氏に対し、国親は直ちにその攻略を開始します。清茂の死と同時に縁戚関係にあった長宗我部氏と本山氏は再び対立するようになっていったのです。

国親は弘治2(1556)年、本山氏に属する秦泉寺掃部を攻めます。掃部は城を捨てて逃亡し、長宗我部氏は本山氏の領土を切り取ることに成功しました。

本山氏もすぐに反撃に転じます。永禄3(1560)年、長宗我部氏の兵糧を運ぶため大津から種崎に向かった船が、潮江から船を出撃させた本山方に襲撃され兵糧を奪われます。こうして長宗我部氏と本山氏の本格的な武力衝突が始まっていきました。

元親の初陣とその活躍

長浜城の攻略

国親は長浜城を攻略するために調略を用いました。譜代の家臣で、大工に精通している福富右馬丞を牢人に落とし、長浜城に入れます。

城主の大窪美作守に使えた右馬丞は櫓や城門の工事を受け持ち、5月26日に行われた長宗我部氏の長浜城攻めの際に内応してその奇襲を成功させました。美作守は城を脱出、長浜城を落とされた茂辰は驚いてすぐに二千の兵を率いて長浜に向かっています。

調略によって長浜城を手に入れた国親は千の兵力でこの茂辰の主力を迎え撃ちました。これが5月27日に行われた「長浜の戦い」です。

長浜の戦いマップ。色塗部分は土佐国。赤は本山方、青は長宗我部方の城

そしてこのとき初陣を果たしたのが国親の嫡男である元親でした。知勇兼備の武将で「土佐の出来人」と称えられることになる元親ですが、実はこのとき槍の使い方すらまともに知らない状態だったのです。

姫若子と呼ばれていた元親

戦国の世において岡豊城で誕生した元親ですが、あまり厳しくは育てられなかったようです。その容姿は背が高く、色白で、柔和な性格だったと伝わっています。

そのため元親は「姫若子」と揶揄されていました。そのことに父親である国親も頭を痛めていたようです。ですから弟の長宗我部親貞(のちの吉良親貞)とまったく同時の初陣になっています。

どこまで武芸の訓練をしてきたのかわかりませんが、『元親記』によると、槍の使い方を知らない元親は秦泉寺豊後に教えを請います。今更細かい指導をしても無駄だと判断したのか、豊後はこのとき「とにかく敵の眼を突け」とコツを伝えました。

また元親は大将としてどういう行動を選択すべきかについてもよくわかっていなかったようで、大将は先に行くべきか、後を行くべきかについても尋ねています。

豊後は、「大将は先を駆けず、また臆病風に吹かれて逃げることもしないものだ」と伝えました。それを知ったからといって、初陣の緊張感の中でそれができるとは豊後も考えていなかったのではないでしょうか。

姫若子から鬼若子への変貌

まったく期待されていなかった元親でしたが、素直に他人のアドバイスを聞き入れ、それを的確に実行に移せる力を持っていたのでしょう。元親は50騎を率いて本山勢に襲いかかり、そのまっただ中を突き破るという大活躍をしています。

元親自身も豊後の教えに従って、敵兵2人を槍で倒しました。初めての戦場で、敵陣に攻めかかり、自らも槍を振るって敵兵を倒すとは尋常な胆力ではありません。

この元親の活躍ぶりは、父の国親だけでなく、家臣らも驚かせたようです。以下は『土佐物語』や『長元物語』にみえる元親を賞賛する声です。

  • 「知謀勇気兼備して、尤も大将の才なり」
  • 「当国は申すに及ばず、四国の主に御成なさるべき大将の御分別」

本山軍の半分の1千の軍勢といわれ、数的不利であった長宗我部勢は、乱戦の末に本山軍を押し返して浦戸へ退却させて勝利したといいます。

さらに元親は本山の支城・潮江城にも突入し、無人となっていた城を難なく攻略。一方で敵将の茂辰は、浦戸から脱出して朝倉城へと逃げ帰っています。

長宗我部元親初陣の像(高知県高知市長浜)
長宗我部元親初陣の像(高知県高知市長浜)

このようにして本山勢の主力を撃退したのです。長宗我部氏と本山氏の立場が入れ替わった瞬間です。その勝利には元親の戦場での働きが大きな影響を与えています。しかも元親はこの後の潮江城攻めでも戦果をあげてその武名を土佐国中に轟かせました。

こうして周囲の元親を見る目は180度変化しました。これまで姫若子と馬鹿にしていたのが、打って変わって「鬼若子」と尊敬の念を込めて呼ぶようになったのです。

おそらく元親は人知れず日ごろから鍛錬を続けてきたのではないでしょうか。努力を他人に見せないところや、見た目と実力にギャップがあるところが元親の大きな魅力なのかもしれません。

6月15日には本山氏との対立が続く中、国親が病没していましますが、跡を継ぐ元親の器量を知っているだけに家臣らの動揺は最小限に抑えられたはずです。

まとめ

元親が家督を継いで以降、長宗我部は本山氏を圧倒し続けます。

知勇兼備の元親が当主に就くと、長宗我部氏は土佐だけでなく、四国全域に拡がり、最大版図を築いていきます。そんな元親が歴史の表舞台にたったのが、この「長浜の戦い」なのです。


【主な参考文献】
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
当サイトでもあらゆるテーマの記事 ...


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

おすすめの記事


 PAGE TOP