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  • 長宗我部元親
 2019/01/15

「長宗我部国親」没落した一族を再興させた元親の父

土佐国を統一し、四国に覇を唱えた英雄「長宗我部元親」の父親が、「長宗我部国親」です。

一時は城無き主となりながらも、人脈を頼りに返り咲き、さらに勢力を拡大できたのは、国親にそれだけの人望と知勇があったからだと考えられます。

彼はどのような人物だったのか?今回は「野の虎」とも畏怖された戦国大名・長宗我部国親をご紹介いたします。
(文=ろひもと 理穂)

国親の出生と長宗我部氏の没落

土佐国の有力豪族の面々

国親の父である「長宗我部兼序」が、土佐国の豪族・長宗我部氏の家督を継いだのが1478年(文明10年)のことです。

当時の土佐国は半将軍とも呼ばれた管領「細川政元」の勢力下にあり、さらに公家大名である一条氏が土佐国司として国人をまとめていました。『長元物語』に記されている土佐国の有力豪族は以下の8氏です。

  • 一条氏:1万6千貫
  • 津野氏:5千貫
  • 吉良氏:5千貫
  • 本山氏:5千貫
  • 安喜氏:5千貫
  • 大比良(大平)氏:4千貫
  • 香宗我部氏:4千貫
  • 長宗我部氏:3千貫

有力豪族の中でも長宗我部氏は末席だったことになります。しかし兼序が当主となってからは土佐国の地頭として発展を遂げ、さらに権力者である政元の後ろ盾もあって権勢を振るうようになりました。

『土佐軍記』によると、兼序は武勇に優れていたものの、国侍を蔑に扱っていたようで、その驕り高ぶりから周囲の反発を招いていたようです。香美郡の山田氏とも抗争を続けており、土佐国の和を乱す元凶と見られていたのかもしれません。

父の兼序は自害

政元は三管領のひとつ細川氏本家である京兆家の当主でしたが、実子に恵まれず、3人の養子を迎えました。それが家督争いの火種となり、1507年(永正4年)に家臣の手によって暗殺されてしまいます。

兼序の嫡男である千雄丸(後の国親)が生まれたのはこの政元暗殺の前後だと考えられています。従来は1502年(文亀2年)頃とされてきましたが、近年の研究によると、1515年(永正12年)の説が有力です。

政元を失った兼序は孤立することになります。1508年(永正5年)、敵対していた山田氏が有力豪族である本山氏や吉良氏、大比良氏と同盟を結んだのです。

兼序の居城である岡豊城に向けて本山氏らの軍勢が攻め寄せてきましたが、兼序は緒戦に勝利します。しかし多勢に無勢、徐々に兼序は押されるようになり、ついに岡豊城は包囲されてしまうのです。補給を断たれ、離反者が相次ぐ中、兼序は自害し、落城しました。

国親が6歳の頃だったと伝わっていますので、おそらく1521年(大永元年)のことになると考えられます。この時、長宗我部氏は滅亡の憂き目に遭うのです。

一条氏の力を借りて盛り返す国親

一条氏を頼りに落ち延びた国親

『長元記』によると、岡豊城落城に際し、千雄丸は兼序の家臣に伴われて城を脱出して幡多郡へ向かい、細川氏を通じて一条氏を頼ったとされています。

一条氏に匿われた後の話では、「二階から庭に飛び降りることができたら、長宗我部氏の再興を約束する」と言われた千雄丸は、言い終わらぬ前に飛び出し、一条氏を涙させたとも伝わっています。

近年の研究では、岡豊城落城時に兼序も共に脱出しており、本山氏らと和睦した後に岡豊城に戻ったという説も有力視されています。この説によると、1511年(永正8年)に城主に復帰した兼序は、1518年(永正15年)ごろに家督を嫡男の千雄丸に譲りました。

一条氏の仲介で岡豊城に帰還し、元服

一条氏の庇護を受けた千雄丸は、当主である一条房家の仲介によって、長宗我部氏本領の江村・廿枝郷を還付され、岡豊城に戻ることができます。千雄丸は元服し、土佐国の守護を兼ねていた管領の細川高国から一字を拝領し、国親と名乗るようになりました。

この時に国親の妹を娶ったのが、吉田孝頼です。国親と義兄弟となった孝頼は智謀の重臣として国親に仕え、着々と軍事力を強化し、所領を回復させていくことに貢献していきます。

他勢力との衝突も起きたようで、1536年(天文5年)には長岡郡野田において合戦があり、ここで武功をあげた権助という男を国親は武士に取り立てて、昇田新右衛門という名前を与えています。

土佐国一帯に勢力を拡大

本山氏と縁戚関係となる

1539年(天文8年)、国親に嫡男が誕生します。弥三郎、後に四国の覇者となる長宗我部元親です。元親の母親は美濃国の斎藤氏の娘と伝わっています。美濃のマムシこと斎藤道三が守護代斎藤氏の名跡を継いだのは1538年(天文7年)のことになりますので、おそらく道三の娘ではないでしょう。

1544年(天文13年)、国親は娘を仇敵である本山茂宗の嫡男である本山茂辰に嫁がせています。長宗我部氏と本山氏は縁戚関係となったのです。

『土佐物語』によると、再び勢力を盛り返してきた長宗我部氏とそれを警戒する周辺の豪族との衝突を回避するために、一条氏が仲介して成立した縁談と記されています。

1547年(天文16年)4月には、国親は東部へと勢力を拡大していき、長岡郡江村郷や廿枝郷、さらに香美郡岩村郷を家臣に与えています。同年5月には長岡郡大津城の天竺氏を滅ぼします。さらにその南に位置する介良の横山氏を倒し、勇猛として知られていた下田駿河守を討って下田城を手に入れました。

こうした元親の武力による勢力拡大の背景には、主家である細川氏の混乱があります。

1531年(享禄4年)に管領を務めていた高国が死去、その後継を巡って管領の細川晴元勢力と、高国の養子である細川氏綱の勢力が政権奪取に向けて抗争を繰り広げていました。土佐国も二分され、国親は晴元派として、氏綱派の勢力と激突していったと考えられています。

氏綱派の天竺氏を討った後、国親は同じく氏綱派である十市の細川宗桃を降伏させています。また宗桃の次男である池頼定を攻め、最終的に国親の娘を頼定の子の嫁とすることで和睦しました。

さらに国親は、破竹の勢いで布師田の石谷民部少輔、一宮の永吉飛騨守を降伏させ、父である兼序を滅ぼした仇敵・山田氏も1549年(天文18年)に討ち滅ぼしています。このようにして国親は長岡郡南部、および土佐郡南西部を制圧していったのです。

本山氏と袂を分かち衝突

1554年(天文23年)、国親は長岡郡下田村の三所権現を再興していますが、この頃に出家して「瑞応覚世」と号しています。ただし隠居したわけではなく、そのまま長宗我部氏の当主として政務を継続しました。

1555年(天文24年)、有力豪族で縁戚関係にあった本山茂宗が亡くなります。家督を継いだのは娘婿である茂辰でしたが、ここから再び長宗我部氏と本山氏の関係が悪化していくことになるのです。

1556年(弘治2年)には、国親が本山氏家臣の秦泉寺氏に攻撃を加えて服属させ、秦泉寺氏を支援し国親に敵対した大高坂氏と国沢氏を滅ぼしています。さらに国親の三男である長宗我部親泰を香宗我部氏に養子入れすることでその従属化にも成功しました。香宗我部氏は安芸郡の安芸氏との戦いで一時の勢いを失っていたのです。

こうして本山氏に匹敵する力を得た国親は、1560年(永禄3年)、ついに本山氏と手を切り、武力衝突することになります。『土佐物語』『元親記』によると、国親が大津から種崎へ兵糧を輸送していたところ、茂辰の家臣が潮江より船を出し、国親の兵糧船を略奪したのが戦の発端とされています。

この時、国親は調略によって本山氏の支城である長浜城を簡単に攻略しています。長浜城にはかつて国親に仕え追放された元家臣で大工でもあった福富右馬丞が仕えていました。国親はこの右馬丞を調略して寝返らせ、同年5月に夜討ちをかけて内応によって城を落とします。事前に仕掛けられていた国親の罠だったのかもしれません。

これに驚いた茂辰が長浜城奪朝倉城から出撃したために、長浜で両軍が衝突することになりました。これが長浜の戦いです。元親が数え年で23歳にして初陣を飾った合戦として有名です。元親は自ら槍をとって戦い、その勇猛さを示しました。

長宗我部軍は数では劣るものの、本山軍を押し返し、瀬戸城へ退却させて勝利を収めています。この後、本山軍は朝倉城に逃れ、さらに戦いが続きましたが、国親が急病を発したことで長宗我部軍は引き上げたとされています。

そして同年6月、国親は本山氏を滅ぼすことができなかったことを悔やみつつ、この世を去ることになりました。その子、元親が苦戦を重ねながらも本山氏を滅ぼしたのは、1568年(永禄11年)のことになります。

まとめ

城無しの状態からここまで長宗我部氏が勢力を拡大できたのは、国親が武勇だけでなく、知略や統治にも優れた人物だった証といえるのではないでしょうか。

長宗我部氏躍進の鍵を握る「一領具足」の考案者は、国親だったという説があります。充分にあり得る話です。国親の知恵と統治力によって半農半兵制度は完成し、長宗我部氏は勢力を順調に拡大し、四国を統一できるほどになったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 山本 大『長宗我部元親(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)




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