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  • 織田信長
 2019/01/15

「佐々成政」信長への忠節を貫き、最期に迎えた悲劇とは?

『長篠合戦図屏風』の佐々成政
『長篠合戦図屏風』の佐々成政

群雄割拠の乱世に『天下布武』を掲げ、日本の統一を進めた織田信長。その戦いぶりは、多くの歴史研究者や戦国ファンを魅了し続けています。信長の圧倒的な存在感を現代に伝える図絵の一つに 『長篠合戦図屏風』 があります。
長篠合戦は、信長・家康連合と、その宿敵・甲斐武田氏との運命の一戦であり、その様子を描いたこの図絵はメディアや資料等で簡単に見ることができます(ぜひ検索してみてください)。

詳細に書かれているため、当時の闘いの様子を知る上で歴史的資料としても価値の高い作品として知られています。一度は見たことがあるという人も多いのではないでしょうか。また、信長・秀吉・家康の三人が同じ場面に描かれている、唯一のものでもあり、戦国ファンイチオシの逸品とも言われています。

さて、この『長篠合戦図屏風』の中央から少し左側上部、馬防柵の付近に織田軍の鉄砲隊が見えます。さらによく見ると、その中に、金に輝く三階菅笠の馬印を見つけることができます。

今回ご紹介するのは、この金の三階菅笠を掲げた武将【佐々成政】です。天下人・織田信長のもとで頭角を現し、そして織田政権と運命を共にするかのように悲劇の最期を迎えた佐々成政の生涯を、追いかけてみましょう。
(文=北村美佳子)

佐々成政のルーツ

尾張国・春日井群比良町(現在の愛知県名古屋市西区比良)の土豪であった佐々氏のルーツは、平氏とも菅原氏(余呉氏)とも、近江の佐々木氏六角家の一門とも言われています。有力な説とされるのが、佐々木六角家を出自とするもの。

それによると、応仁の乱ののち、尾張守護の斯波氏・守護代の織田氏が佐々木六角家の討伐を始めた際、成政の父である余語盛政は本家である六角氏に背き、織田氏に味方しました。そして織田氏が尾張に戻るのに従って尾張国へ入り、春日井群比良の地と佐々の姓を与えられたとされています。佐々と書いて「さっさ」と読むこの名字は、こうして尾張に根付いたのでしょうか。

次は、成政の誕生年を見てみましょう。尾張の子孫の系譜では1534年(天文3年)となっていますが、そのほかの資料では、1512年(永正9年)、1516年(永正13年)、1539年(天文8年)とさまざまあり、どれも確定には至っていません。 佐々家が歴史の表舞台に出てきたのは、まさにこの佐々成政からでしたので、出自や誕生の「諸説あり」も仕方がないのかもしれませんね。

佐々成政の肖像画(富山市郷土博物館蔵)
佐々成政の肖像画(富山市郷土博物館蔵)

二人の兄を亡くして家長へ

美濃の斎藤氏や駿河の今川氏と戦い、また攻略しながら、徐々に勢力を伸ばしていく織田家。そのころの織田家当主は信長の父である織田信秀です。一方の佐々成政は「政次」と「孫介」という二人の兄とともに、織田家に仕えていました。

武功を上げる兄たちでしたが、成政はというと三男坊の気安さからか、割と自由に育ったようです。比良城の客分であった学者・千田吟風から薫陶を受け、学問や兵法などを学んだと言われています。

織田信秀が亡くなると、1556年(天文11年)織田家には後継者をめぐる内紛・稲生の戦いが勃発します。 織田信長側につき参戦した佐々兄弟でしたが、初陣を飾った成政の一方、次兄の孫介が戦死してしまいました。 そして、信長が今川氏を破り全国にその名をとどろかせた、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いでは、戦いの序盤で、長兄の政次が討ち死。相次いで二人の兄を亡くした成政は、佐々家の家督を継ぎ比良城城主となるのです。

織田信長のもとでエリート街道をすすむ

今川氏を討ち取った信長の次の相手は、美濃の斎藤氏です。 信長の小姓であり、馬廻衆―いわゆる信長の旗本親衛隊―として仕えていた成政は、1561年(永禄4年)の森部の戦いをはじめとした美濃攻略の諸戦で武功を上げ、馬廻衆選り抜きの、黒母衣衆(くろほろしゅう)の一人に抜擢されました。やがて、成政は黒母衣衆筆頭へ。

1568年(永禄11年)の、信長と足利義昭が上洛する際にも従軍し、上洛を阻む六角氏との観音寺城の戦いの勝利に貢献します。 精鋭衆のこうしたは働きを得て無事上洛を果たした信長は、足利義昭を15代将軍として擁立することに成功しました。 そして、朝倉攻めに失敗した信長の有名な敗走劇・金ヶ崎の退き口では、殿(しんがり)に抜擢された羽柴秀吉を、鉄砲隊を率い援護した佐々成政。 その後も、1570年(元亀元年)の姉川の戦いをはじめ、一乗谷城の戦い小谷城の戦い、第三次長島侵攻などの数々の戦いで活躍をみせました。

一方、伊勢長島の一向一揆制圧の戦いであった第三次長島侵攻では、嫡男である・松千代丸を亡くすという悲しい出来事も。それでも、戦国の世の習いとして成政は戦に身を投じ続けます。 もしも、尾張に伝わる系譜図が真実だとしたら、このとき成政は30代半ば。知力、体力共に充実した時期であったことでしょう。これから信長が、そして成政がたどっていく歴史の道を知っている私たちから見ると、この頃がまさに、成政が一番輝いていた時期にも思えてきます。

【ちょこっとコラム】赤母衣衆と前田利家

信長直属の精鋭隊であった母衣衆には、佐々成政が所属した黒母衣衆のほかに、赤母衣衆があります。赤母衣衆には、2002年の大河ドラマ「利家とまつ」でも有名な前田利家がいました。

似通った境遇であったといわれる佐々成政と前田利家。
信長配下において良きライバルとも呼べる二人の、互いにしのぎを削るような活躍が、覇者信長の勢いを支えた大きな力の一つであったことでしょう。先ほどご紹介した「長篠合戦図屏風」にも、鉄砲衆として佐々成政と並ぶ前田利家の姿を見ることができます。

北陸方面の司令官・柴田 勝家の与力に

信長の精鋭部隊として武功を重ねていく佐々成政。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、鉄砲奉行の一人として活躍、さらには同じ年の越前一向一揆にも従軍し、大きな成果を上げました。

その後信長は、柴田勝家に越前を与えます。一揆制圧に功績のあった佐々成政・前田利家・不破光治を勝家の与力とし、「府中三人衆」として、あわせて府中10万石を与えました。これで越前の抑えは万全!とばかりのそうそうたるメンバーですね。佐々成政は小丸城を築城し、居城としました。

ところで、「与力」といえば時代劇でおなじみですが、江戸時代における武士の役職「与力」とは意味が違います。戦国時代の「与力」とは、その言葉からも分かるように「加勢する」という意味合いが大きく、その立場は従属とは違うものでした。成政も勝家指揮のもとで北陸方面の攻略に携わりますが、一方では石山合戦や播磨国平定、荒木村重の討伐・有岡城の戦い(1578-79年)などにも従軍するなど、「府中三人衆」は独立した存在でもあったのです。

1580年、(天正8年)に、越中を治めていた神保長住の助成を命じられ越中の平定に貢献。その後、神保長住は成政の配下になります。成政の武勇を示す出来事ですが、長住的にはどんな気持ちだったのでしょうか…。

1581年(天正9年)、越中の全権をゆだねられた成政は富山城に居ました。この時には越中守護に付いていたとみられています。 そのような中、東へと勢力拡大を狙う上杉方との防衛上の拠点として重要な位置を占める小出城が、京都の馬揃えのために上京していた隙に、上杉家臣の川田長親に攻撃されてしまいます。一報を受けた成政は即座に越中へ救援に向かうと上杉軍は撤退していきました。 以降も、小出城では上杉と織田の攻防戦が繰り広げられていくことになります。

さて、歴史の流れを知る私たち。ここまで読んできて、いよいよ「その時」が近づいているのにお気付きではないでしょうか。 1582年、天正10年。覇者信長に訪れた突然の最期『本能寺の変』です。

覇王信長、死す。そして飲み込まれていく成政

1582年3月。甲州征伐の末、田野合戦での武田勝頼の自害を以って、長きにわたる宿敵武田家を滅亡に追い込んだ信長。柴田勝家率いる北陸方面軍団が上杉方の魚津城を包囲します。武田家を滅ぼし勢いに乗る織田軍でしたが、成政の居城である富山城に異変が起こります。成政の留守中に富山城を上杉方に乗っ取られてしまったのです。留守を預かる神保長住は幽閉されています。すわ一大事!と成政らは、魚津城の包囲を一旦解き、富山城へ急ぎ戻ると奪還に成功します。

その後、再び魚津城を包囲した成政らは、6月3日についに魚津城を攻略します。しかし、勝利に沸き立つ成政らに届いたのは、その前日1582年6月2日に起こった本能寺の変、信長の死の知らせでした。

―――そしてその直後から起こる、織田家の覇権争い。

清須会議を経て対立した織田家の筆頭家老・柴田勝家と羽柴秀吉の間では、さまざまな思惑を抱えた多くの人々を巻き込み、熾烈な争いが繰り広げられていきます。柴田勝家に味方した成政でしたが、賤ヶ岳の戦いで勝家の自害を以って秀吉に降伏します。

北アルプスを決死の軍行『さらさら越え』

翌1584年(天正12年)になると、秀吉と仲違いをした信長の二男・織田信雄徳川家康と結び家康・信雄連合軍として、羽柴秀吉と対立します。

あくまで織田家への忠節を貫く成政はこのとき、秀吉から離反し、家康・信雄連合軍に味方します。秀吉陣営と家康陣営による大規模な合戦と発展した、小牧・長久手の戦い。尾張国を中心として、伊勢、紀伊、和泉、摂津、など各地で激しい戦いが繰り広げられました。成政はかつての好敵手であった前田利家の末森城を攻撃するも、これに破れてしまいます。

そして、戦いは意外な結末を迎えます。織田信雄が、独断で秀吉と和睦を結んでしまうのです。 大義名分を失くした家康もそれにならいますが、成政は納得がいきません。家康に再起を談判するために、厳寒の北アルプスを越えて浜松へと向かったのです。

家康のもと、浜松へ向かうにも東には上杉、西には前田…もはや立山連峰を超えるしかルートはありませんでした。これが有名な『さらさら越え』と呼ばれているものです。立山権現を深く信心していたという成政。さらさら越えの時は山男たちの協力を得ることができたとも言われています。

それにしても「さらさら越え」とは不思議なネーミングですが、アルプス越えのルートにある『ザラ峠』と、佐々成政の『さっさ』をつなげ『佐々のザラ越え』が訛ったという説があるようです。

さて、決死の思いで断行したさらさら越えですが、結果は失敗。…そして再び秀吉を敵に回すことになるのです。

富山城にて、ついに降伏

敵対を続ける成政を、秀吉は容赦なく攻めます。越中討伐の大将に選ばれたのは織田信雄でした。あえて、かつて成政が味方をした信雄を差し向けるところに、秀吉の策略が見えますね。

1585年(天正13年)8月、成政の籠城する富山城を豊臣軍10万もの豊臣軍が包囲します。もはやこれまでか…となすすべもなく成政は降伏しました。

恭順を示すためにか、成政は剃髪し秀吉のもとに向かったといいます。長い間織田家に仕えてきた成政にとっては、信長の死を好機とばかりに天下を狙う秀吉に対して「織田がないがしろにされている」という悔しさのような思いを持っていたのかもしれません。秀吉のもとに下るのは、どれほどの無念だったことでしょうか…。

越中の所領を大きく削られ、妻子とともに大阪城に移住した成政は、御伽衆として秀吉に仕えることになりました。

佐々成政、肥後へ

大陸進出を目論む秀吉。その拠点とすべく南へも勢力を伸ばす秀吉は、1584年(天正15年)、ついに九州平定を果たします。成政はこの時、肥後一国を与えられ、国主へと返り咲きました。肥後に入った成政は検地を急ぎます。急いだ理由は、成政の病など諸説あるようですが、しかし、性急な改革に肥後の国人たちは強い抵抗を示しました。

ついに、同年7月、肥後国人一揆が勃発します。鎮圧に苦戦する成政に秀吉は援軍を送り、九州・四国の大名を総動員して、ようやく肥後国人一揆は鎮圧されました。そして、佐々成政は、一揆勃発の責任を負わされ切腹を命じられたのでした。

このごろの 厄妄想を入れ置きし 鉄鉢袋 いま破るなり

とは、佐々成政の辞世の句です。

「鉄鉢」とは、僧が托鉢行の際に用いる鉄製のお椀のようなもの。戦国乱世をここまで生き延びた体躯を頑丈な鉄鉢に例え、切腹して今それを破ろうというのでしょうか。それとも、鉄鉢袋を「厄妄想」をしまい込んだ心の内に例え、その思いを破ってさらけ出そうというのでしょうか…。

切腹の刹那に思い出したものがせめて、信長のもとで華やかに活躍をしていた青年期の成政であったことを願わずにいわれません。馬を駆る黒母衣衆の雄姿、高く掲げた金の三階菅笠、そのまばゆさ―――。

佐々成政、享年52歳(諸説あり)。終焉の地である兵庫県尼崎の法園寺で、静かに眠っています。

まとめ

富山時代には治水業に励むなど善政を敷いた成政。北アルプスの大連峰立山への信仰にも篤く、芦峅寺(あしくらじ)への寄進や燈明銭などの記録も残っています。 佐々成政亡き後、越中の地を治めた前田利家によって、成政の悪評が流布されたとも言います。早百合伝説などの恐ろしい伝説も生まれました。 それでも、佐々成政は今でも英雄として慕われ、その生きざまは富山の人々の間で語り継がれています。



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