「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着

 秀吉が天下人へと昇りつめていく過程で、いくつもの勢力との争いを制していったのは周知のとおりです。その作戦行動は全国規模での範囲におよび、四国や九州など渡海が必要な地域にも部隊を展開しました。それぞれの島内では在地の有力大名が鎬を削り、それらの勢力とどのように対峙していくかが大きな課題となっていました。

 今回は秀吉にとって西日本方面の掌握に重大なファクターとなった、天正13年(1585)の「四国攻め」に焦点を当ててみましょう。

信長時代の四国の情勢

 まず秀吉による侵攻を受けるまでの、四国の情勢を簡単におさらいしておきましょう。当時の四国で覇を唱えつつあったのは、土佐の戦国大名「長宗我部元親」です。

長宗我部元親と四国のイラスト

当初は信長と懇意にしていた長宗我部氏

 元親は天正3年(1575)に土佐国を統一し、家中の反対を押し切って織田信長に接近。嫡男の「長宗我部信親」はのちに信長より「信」の一字を与えられた名とされています。

 長宗我部氏以外にも四国には様々な勢力が群雄割拠していましたが、なかでも三好長慶を輩出したことで知られる阿波国の三好氏は強力な壁となっていました。

 天正8年(1580)には家臣の香宗我部親泰を派遣し、阿波の三好康俊を降した報告とともに三好氏が長宗我部氏への反抗戦を行わないよう工作を依頼しています。

 信長は元親に四国領土の「切り取り次第(=敵の領地を攻め取って自領とすること。)」を認める朱印状を発したともいわれ、当初は元親の四国統治を容認するスタンスをとっていました。

 しかし天正9年(1581)、信長が香宗我部氏にあてた朱印状では、長宗我部氏と三好氏の協調を求めており、主に中国の毛利氏との緊張関係において三好水軍を取り込む意図があったという説も出されています。

 長宗我部氏の脅威にさらされた伊予や阿波の勢力は信長に窮状を訴え、これを受けて信長は元親に対し、土佐一国と阿波の南半分をのぞく領地の返還命令を発布しました。

 元来が「切り取り次第」とされたはずの領地のうえ、織田の軍事的支援があったわけでもなかったため、元親はこの命令に反発。以降、元親と信長の関係は緊張が高まっていきます。


信長による四国侵攻作戦

 長宗我部氏は一方で、織田氏と敵対関係にあった中国の毛利氏とも利害関係を保持していました。これはやがて対織田氏への同盟に発展したとされ、その他の在地勢力の去就も含めて長宗我部氏は織田氏にとって大きな脅威となっていったことがうかがえます。

 天正10年(1582)、信長はついに「織田信孝」を総大将とする四国方面軍の派兵を決定。先方として送り込まれた「三好康長」が三好派勢力を取り込み、阿波方面の攻略を行いました。

 しかし信孝の本隊が摂津住吉(現在の大阪府大阪市)に着陣して渡航する寸前、本能寺の変によって信長が横死したため、作戦は中止。阿波に先発していた三好康長もこの報を受けて戦線を離脱します。まさに九死に一生を得た長宗我部氏は、再び四国の主導権を握る機会を得ることになったのです。


秀吉と長宗我部元親の外交関係

四国制圧の方針を引き継いだ秀吉

 信長による本格的な四国攻めは実現しなかったものの、その後継となった秀吉はほぼ一貫して長宗我部氏との対決姿勢を明らかにしていました。

 途中、四国島の国分を中心事案とする和平交渉が行われたとも考えられていますが、長宗我部氏は常に秀吉の敵対勢力に合力する形で牽制を続けていたことが確認できます。

 天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」に、翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」にそれぞれ与し、秀吉を脅かしていました。

 しかし天正12年(1584)、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。毛利氏は秀吉との停戦に続いて同盟関係となっていたこともあり、対秀吉戦線としての長宗我部・毛利の利害関係は消滅したといえるでしょう。

 次いで天正13年(1585)には秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。これらにより、長宗我部氏はほぼ完全に軍事的孤立状態へと追い込まれたのです。

長宗我部による「四国統一」の是非

 ここで、長宗我部氏と四国の権益について補足説明を加えましょう。

 通説では天正13年(1585)の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。しかし実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力が抵抗を続けており、元親が四国全土を制圧したわけではなかったとする説が提唱されています。

 秀吉はこれらの反長宗我部勢力に補給などの支援を行っており、元親が四国を統一したというよりは、島内第一勢力として軍事的優位に立っていたとするのが現実的な解釈かもしれません。

長宗我部元親は秀吉と戦う気はなかった

 長宗我部側の実情としては、四国制覇どころではなく、秀吉との和睦交渉で全く余裕がなかったように思えます。以下、史料で「長宗我部 vs 秀吉」外交の足跡をみてみましょう。

 同年の正月17日付けの、蜂須賀正勝と黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のことを伝えています。(『小早川文書』)

  • 羽柴‐毛利間の婚姻締結のことや、人質の小早川秀包のこと。
  • 秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること。
  • 秀吉は夏に四国を攻める予定であること。
  • 秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること。
  • 元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。

 さらに同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っています。(『山口県史』)

 史料をみる限りだと、元親は土佐と伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたようですが、秀吉はこれを受け入れずに、その2か国は毛利に渡すことにしていたようです。

 こうしてみると、対等な和睦交渉という感じではなく、立場の弱い長宗我部側が、より有利な形で降伏条件を決めるための交渉のようにも思えます。

和平交渉は最終的に決裂

 先述のとおり、両者は和平交渉の可能性を探っていました。一旦は長宗我部側の要求を一蹴した秀吉ですが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の2点を申し出たため、秀吉も手を打とうとしたといいます。

  • 嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
  • 信親の他、実子をもう1人人質として提出する。

 しかし、最終的に和平交渉は決裂。その背景には毛利氏の思惑があったようです。

 本願寺の記録『貝塚御座所日記』には「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」という旨の内容があります。また、『小早川文書』等では「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」と伝わります。

 これにより、秀吉の本格的な四国侵攻が開始されることとなります。

両陣営による戦いの準備

秀吉軍初の大規模渡航作戦

 四国侵攻へと踏み切った秀吉は、事前の準備として入念な兵員・装備調達を行っています。海を越えて大規模な軍勢を動員するのは秀吉軍にとって初の作戦行動であり、四国を制圧することは天下統一への重要なステージだと位置づけられたことがうかがえます。

 軍備から出兵前後までの天正13年(1585)の動きを時系列順に並べると、おおむね以下の通りとなります。

※参考:秀吉軍の出兵前後の動き
5月4日黒田官兵衛(孝高)を先鋒として淡路島への出兵を命じる。
一柳直末を明石に派遣、当地で待機させる
5月8日和泉および紀伊の保有する船舶数調査を羽柴秀長に命じる。
四国出兵のための軍備と船舶の手配を紀伊国人・白樫氏および玉置氏に命じる
5月9日羽柴秀長が和泉・紀伊の船舶数調査を実施。
28日までに紀ノ湊(現在の和歌山県和歌山市)へ徴発船舶を集結させるよう命じる
6月3日秀吉の四国出陣を予定(越中の「佐々成政」牽制と、病気のため中止。羽柴秀長を総大将、羽柴秀次を副将とする)
6月16日秀吉は岸和田城で指揮を執り、部隊を四国へと進発させる

防御体制を整える元親

 一方、秀吉との和睦交渉の見通しが立たない中、長宗我部側も決戦に向けて阿波・讃岐・伊予の三方面の防備を整えていました。以下のように、特に阿波国には秀吉軍の攻撃の前線に位置すると考えて、主力を投入したようです。

  • 木津城:東条関兵衛
  • 一宮城:江村孫左衛門(親俊)・谷忠兵衛(忠澄)
  • 渭山城:吉田孫左衛門
  • 牛岐城:香宗我部親泰
  • 富岡城、海部城:親泰の配下の将
  • 岩倉城:比江山親興
  • 脇城:長宗我部親吉

 元親が本拠の岡豊城を発ったのがいつなのかはハッキリしませんが、5月17日には大西、18日に阿波の岩倉に入ったといいます。(『麻殖郡木屋平村松家文書』ほか)その後、元親は讃岐や伊予と連絡のとりやすい阿波の要所・白地を本陣にしたとみられています。

 なお、元親は同じ頃に、伊予国新居郡の金子元宅と「元宅が討死しても子孫を引き立てる」との約束も交わしています(『金子文書』ほか)。ちなみに金子元宅は子の毘沙寿丸に遺書を残したというから、討死を最初から覚悟していたようです。(『金子文書』)

四国攻めマップ。赤マーカーは長宗我部方、青は秀吉方。

三方向から四国攻め、はじまる

 秀吉は四国方面軍を3隊に分け、それぞれの地域から渡航・上陸を実施しました。各方面における秀吉軍の主力は以下のとおりです。

  • 阿波国:羽柴秀長(本隊)、羽柴秀次ら
  • 讃岐国:宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛ら
  • 伊予国:毛利輝元、小早川隆景、吉川元長ら

 長宗我部軍の最大動員兵力が4万と言われているのに対し、秀吉軍が四国攻めに動員した兵力は10~12万とされているので、兵力で秀吉軍が圧倒していたことがわかります。以下、各方面での戦況を概観しましょう。

阿波方面部隊

 阿波方面へは羽柴秀長・秀次の部隊が進軍しました。総大将と副将が率いる兵力であり、各方面軍における主力・本隊といえるでしょう。

 秀長は和泉・大和・紀伊の兵を中心とする約3万の部隊を率い、6月16日に堺を出航。淡路島の洲本へと上陸しました。一方、秀次は摂津・丹波・近江の兵を中心とする同じく約3万の部隊を伴って明石から淡路島へと至り、両部隊は紀伊水道に面する良港・福良(現在の南あわじ市)で合流しました。

 ここから約800艘という大船団を仕立て、阿波の土佐泊へと上陸作戦を実施。長宗我部軍も主力をこの阿波方面に展開していたため、事実上の決戦的様相を呈していたといえるでしょう。

 秀長軍が最初の攻撃目標としたのは木津城で、8日間の攻城戦によって水の手を遮断されたうえ、秀吉軍に内応した身内の説得を受けて城将の「東条関兵衛」は降伏・開城します。

 木津城の陥落を知った牛岐城と渭山城はそれぞれ守備を放棄、この頃には岸和田城に在陣していた秀吉が自ら出馬する意思を示し、先発部隊が7月3日には淡路島に到達していました。

 しかし秀長は秀吉の出陣をいさめ、自らの指揮で一宮城攻略を、秀次には岩倉城と脇城の攻略を委任。5千~9千とされた一宮城兵は奮戦するも、5万もの秀長軍に包囲されて補給線を遮断されたうえ、坑道工事によって水の手を断たれるという干殺しにあい、7月中旬には開城したといいます。

 岩倉城・脇城も陥落し、阿波方面の趨勢は決しました。これにより、長宗我部元親が本拠とした白地城を伊予方面部隊と挟み撃ちにする構図が完成しました。

讃岐方面部隊

 讃岐方面へは備前・美作の兵を率いる「宇喜多秀家」、播磨の「蜂須賀正勝」「黒田官兵衛」、さらに「仙石秀久」を加えた部隊が上陸しました。この兵力は諸説ありますが1万5千~2万3千とされています。

 まず源平合戦でも有名な屋島に上陸し、次いで長宗我部軍200が守備する喜岡城を攻略。立て続けに香西城と牟礼城を落としますが、戸波親武が守備する植田城は防備が固く、攻略には困難が予想されました。というのも長宗我部元親は讃岐国の防衛策として、一門衆の戸波親武が守備する植田城の防備を強化していたからです。

 この植田城は「南は深山、大手口は深き谷」という要害で堅固な城地であり、元親は秀吉軍が攻め込んできたら、これを包囲して夜討ちする作戦を立てていたといいます。

 しかし『黒田家譜』『元親記』などによると、どうやら黒田官兵衛はその状況を見破っていたようです。讃岐よりも元親のいる阿波国を先に攻撃すべき、と主張してあえて植田城を無視して進軍。阿波方面の羽柴秀長、秀次隊との合流を優先しました。

 もともと兵力に圧倒的な差があった長宗我部軍と秀吉軍ですが、四国の長大な海岸線においてどの地点に防備を固めるかという問題で個々の防御線が薄くなったことも考えられます。

 さらには植田城のように戦わずして事実上突破された例もあるため、秀吉軍の上陸部隊阻止という観点からは、初期の段階で長宗我部軍に失策があったとする声もあります。

伊予方面部隊

 伊予方面からは毛利輝元旗下の中国8か国部隊が、2万5千~4万ともいわれる兵力で備後三原・安芸忠海を6月下旬に出港しました。

 輝元自身は三原に在陣して総指揮を執り、6月27日に小早川隆景部隊が今治に、7月5日には吉川元長らの部隊が同港および新居浜にそれぞれ上陸を果たしたとみられます。伊予方面軍の優先任務は伊予東部の制圧と、長宗我部氏と同盟関係にあった在地勢力の掃討だったと考えられます。

 最初の攻撃目標は宇摩郡(現在の愛媛県四国中央市および新居浜市の一部)の石川氏と、新居郡(現在の愛媛県西条市および新居浜市あたり)の金子氏でした。ただ、石川氏は金子氏にとって主家にあたりますが、当主はまだ8歳と幼く、実質的には金子氏の「金子元宅」が大将格だったといえそうです。

 金子元宅は高尾城(現在の愛媛県西条市)にあり、ここに長宗我部氏の援軍が加わって籠城戦を展開。幼君の「石川虎竹丸」は高峠城(前同)に置いて約800の守備兵を配備し、金子城(現在の愛媛県新居浜市)には元宅の弟「金子元春」を城将にあてました。

 7月14日、秀吉軍の伊予方面部隊は高尾城支城の丸山城を攻略し、翌日に高尾城を包囲。しかし、小早川隆景が「加勢にくる長宗我部勢を撃退してから攻め落とそう」とのことで、一旦攻撃を中断しています。結局、秀吉軍は攻め寄せてきた長宗我部勢の援軍をも撃退した後の17日、高尾城も攻略し、元宅ら長宗我部勢600余人を討ち取ったようです。

 続いて石川氏の高峠城にも攻撃を加え、幼い虎竹丸を土佐へと落ち延びさせた城兵らは、その後の戦闘で全滅しました。周辺の城塞群も陥落し、金子城の金子元春も敗走したため、東予地方の趨勢は決しました。

 伊予方面部隊はさらに東進して宇摩地方を攻略中、長宗我部元親が降伏したことにより秀吉と元親の間に講和が成立します。ただし伊予攻めはその後も継続され、8月末頃までの作戦行動によって伊予全域の制圧が完了したとされています。

長宗我部元親の降伏

 こうした中、3方面からの秀吉軍の攻勢により、窮地に立たされつつあった長宗我部元親はついに降伏を決断します。

 一宮城を守備していた長宗我部氏の重臣「谷忠澄」は、降伏・開城後に元親のいる白地城に帰還し、秀吉軍への降伏を進言しました。このとき、忠澄は秀吉軍と自軍との装備や兵糧の差など、圧倒的な戦力差を説いたといいます。

 7月25日には谷忠澄や江村親頼のもとに、羽柴秀長から以下の内容を保証する書状が届けられます。

  • 「土佐一国が与えられるように努力する。」
  • 「5日間は合戦を停止する。」

 当初、元親とその重臣たちは最終決戦を断行する意思を固めていたといいますが、一宮城で果敢に奮戦して秀吉軍の兵力を目の当たりにしていた忠澄が頑強に説得したことで元親はこの諫言を受け入れて降伏。8月6日までに講和が成立しています。

戦後

 長宗我部氏が降伏するにあたって秀吉から出された停戦の条件は、

  • 土佐国を除く長宗我部領の没収と
  • 嫡男の信親を大阪に住まわせること。
  • 二男の香川五郎次郎や家老を人質として差し出すこと。
  • 秀吉軍への兵役
  • 徳川氏との同盟禁止

といったものでした。

 長宗我部氏本来の国は安堵されたものの、子どもたちを差し出し、秀吉傘下へと組み込まれることとなりました。なお、実際に差し出された人質は、三男の津野親忠、家老は江村親頼となっています。二男の香川五郎次郎は病弱だったことで三男に代えられたのかもしれません。

 8月4日には、戦後処理として四国の所領配分などの方針、いわゆる「四国国分」が示されています。阿波国は蜂須賀家政、讃岐国は仙石秀久と十河存保、伊予国は小早川隆景にそれぞれ与えられることになり、四国全土は秀吉の影響下に置かれました。

 これに次ぐ九州攻平定の際には、長宗我部氏の兵力も投入されることになります。

おわりに

 「土佐の出来人」と称えられた長宗我部元親でしたが、かつてはもの静かで「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されるような少年だったといいます。長じてはその戦働きから「鬼若子(おにわこ)」の異名で知られる武将となり、やがては四国に覇を唱える存在へと成長していきます。

 信長にとっても秀吉にとっても、特にこの元親を象徴とした「四国」の勢力は、常に西側から背後を脅かす不安材料であったことがうかがえます。西国諸将との緊張関係が続いていたころはそれが顕著であり、政権のためにはどうしても払拭しておきたい脅威であったことを示しています。

 秀吉は四国を掌握したことで九州方面へと大兵力を動員することが可能となり、やがては天下統一へと王手をかけられたといっても過言ではないでしょう。



【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 平井上総『長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ』(ミネルヴァ書房、2016年)
  • 『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』( 西東社、2014年)
  • 小和田哲男 『秀吉の天下統一戦争(戦争の日本史)』 (吉川弘文館、2006年)
  • 『【決定版】図説・戦国合戦集』( 学習研究社、2001年)
  • 『歴史群像シリーズ 51 戦国合戦大全 下巻 天下一統と三英傑の偉業』(学習研究社、1997年)
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』(学習研究社、1996年)

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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