「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗我部氏との決着

帯刀コロク
 2017/10/18

秀吉が天下人へと昇りつめていく過程で、いくつもの勢力との争いを制していったのは周知のとおりです。 その作戦行動は全国規模での範囲におよび、四国や九州など渡海が必要な地域にも部隊を展開しました。

それぞれの島内では在地の有力大名が鎬を削り、それらの勢力とどのように対峙していくかが大きな課題となっていました。 今回は秀吉にとって西日本方面の掌握に重大なファクターとなった、天正13(1585)年の「四国攻め」に焦点を当ててみましょう。

合戦の背景

当時の四国の様相

まず秀吉による侵攻を受けるまでの、四国勢力図を簡単におさらいしておきましょう。

当時の四国で覇を唱えつつあったのは、土佐の「長宗我部元親」でした。 元親は天正3(1575)年に土佐一国を統一し、家中の反対を押し切って織田信長に接近。嫡男の「長宗我部信親」はのちに信長より「信」の一字を与えられた名とされています。

長宗我部氏以外にも四国には様々な勢力が群雄割拠していましたが、なかでも「三好長慶」を輩出した阿波の三好氏は強力な壁となっていました。

天正8(1580)年には家臣の「香宗我部親泰」を派遣し、阿波の「三好康俊」を降した報告とともに三好氏が長宗我部氏への反抗戦を行わないよう工作を依頼しています。

信長は元親に四国領土の「切り取り次第」を認める朱印状を発したともいわれ、当初は元親の四国統治を容認するスタンスをとっていたようです。しかし天正9(1581)年、信長が香宗我部氏にあてた朱印状では長宗我部氏と三好氏の協調を求めており、主に中国の毛利氏との緊張関係において三好水軍を取り込む意図があったものという説も出されています。

長宗我部氏の脅威にさらされた伊予や阿波の勢力は信長に窮状を訴え、これを受けて信長は元親に対し、土佐一国と阿波の南半分をのぞく領地の返還命令を発布しました。

元来が「切り取り次第」とされたはずの領地のうえ、織田の軍事的支援があったわけでもなかったため、元親はこの命令に反発。以降、元親と信長の関係は緊張が高まっていきます。

信長による四国侵攻作戦

長宗我部氏は一方で、織田氏と敵対関係にあった中国の毛利氏とも利害関係を保持していました。 これはやがて対織田氏への同盟に発展したとされ、その他の在地勢力の去就も含めて長宗我部氏は織田氏にとって大きな脅威となっていったことがうかがえます。

天正10(1582)年、信長はついに「織田信孝」を総大将とする四国方面軍の派兵を決定。先方として送り込まれた「三好康長」が三好派勢力を取り込み、阿波方面の攻略を行いました。

しかし信孝の本隊が摂津住吉(現在の大阪府大阪市)に着陣して渡航する寸前、本能寺の変によって信長が斃れたため作戦は中止となりました。阿波に先発していた三好康長もこの報を受けて戦線を離脱、長宗我部氏は再び四国の主導権を握る機会を得ることになりました。

合戦の経過・結果

四国制圧の方針を引き継いだ秀吉

信長による本格的な四国攻めは実現しなかったものの、その後継となった秀吉はほぼ一貫して長宗我部氏との対決姿勢を明らかにしていました。

途中、四国島の国分を中心事案とする和平交渉が行われたとも考えられていますが、長宗我部氏は常に秀吉の敵対勢力に合力する形で牽制を続けていたことが確認できます。

天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」に、翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」にそれぞれ与し、秀吉を脅かしていました。しかし天正12(1584)年、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。毛利氏は秀吉との停戦に続いて同盟関係となっていたこともあり、対秀吉戦線としての長宗我部・毛利の利害関係は消滅したといえるでしょう。

次いで天正13(1585)年には秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。これらにより、長宗我部氏はほぼ完全に軍事的孤立状態へと追い込まれたのです。

長宗我部元親による「四国統一」の是非

ここで、長宗我部氏と四国の権益について補足説明を加えましょう。

通説では天正13年(1585)年の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。 しかし実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力が抵抗を続けており、元親が四国全土を制圧したわけではなかったとする説が提唱されています。

秀吉はこれらの反長宗我部勢力に補給などの支援を行っており、元親が四国を統一したというよりは、島内第一勢力として軍事的優位に立っていたとするのが現実的な解釈かもしれません。

和平交渉の決裂と秀吉の四国侵攻

先述したとおり、秀吉と元親は和平交渉の可能性も探りましたが、諸説あるものの秀吉からは讃岐・伊予の返還が求められたといいます。この経緯は具体的な国分案が頻繁に変わっており、割譲と安堵の内容が二転三転したことから秀吉への不信感が募ったことも想像されます。

対して元親は伊予一国の返還で譲歩するよう交渉しましたが、その妥結案が聞き届けられることはなく決裂。これにより、秀吉の本格的な四国侵攻が開始されることとなりました。

秀吉軍初の大規模渡航作戦

四国侵攻へと踏み切った秀吉は、事前の準備として入念な兵員・装備調達を行っています。 海を越えて大規模な軍勢を動員するのは秀吉軍にとって初の作戦行動であり、四国を制圧することは天下統一への重要なステージだと位置づけられたことがうかがえます。

軍備から出兵前後までの動きを時系列順に並べると、おおむね以下の通りとなります。

天正13(1585)年

  • 5/4……黒田官兵衛(孝高)を先鋒として淡路島への出兵を命じる。一柳直末を明石に派遣、当地で待機させる
  • 5/8……羽柴秀長に命じ、和泉および紀伊の保有する船舶数を調査させる。紀伊国人・白樫氏および玉置氏に命じ、四国出兵のための軍備と船舶の手配を命じる
  • 5/9……羽柴秀長が和泉・紀伊の船舶数調査実施と、同月28日までに紀ノ湊(現在の和歌山県和歌山市)へ徴発船舶を集結させるよう命じる
  • 6/3……秀吉の四国出陣を予定(越中の「佐々成政」牽制と、病気のため中止。羽柴秀長を総大将、羽柴秀次を副将とする)
  • 6/16…秀吉は岸和田城で指揮を執り、部隊を四国へと進発させる

3方向からの四国侵攻作戦

秀吉は四国方面軍を3隊に分け、それぞれの地域から渡航・上陸を実施しました。 以下、各方面での戦闘経緯を概観しましょう。

〇讃岐方面部隊

讃岐方面へは備前・美作の兵を率いる「宇喜田秀家」、播磨の「蜂須賀正勝」「黒田官兵衛」、さらに「仙石秀久」を加えた部隊が上陸しました。この兵力は諸説ありますが1万5,000~2万3,000とされています。 まず源平合戦でも有名な屋島に上陸し、次いで長宗我部軍200が守備する喜岡城を攻略。立て続けに香西城と牟礼城を落としますが、「戸波親武」が守備する植田城は防備が固く攻略には困難が予想されました。 黒田官兵衛はその状況から、あえて植田城を無視して進軍し、阿波方面の羽柴秀長隊との合流を優先しました。 もともと兵力に圧倒的な差があった長宗我部軍と秀吉軍ですが、四国の長大な海岸線においてどの地点に防備を固めるかという問題で個々の防御線が薄くなったことも考えられます。 さらには植田城のように戦わずして事実上突破された例もあるため、秀吉軍の上陸部隊阻止という観点からは、初期の段階で長宗我部軍に失策があったとする声もあります。

〇阿波方面部隊

阿波方面へは羽柴秀長・秀次の部隊が進軍しました。総大将と副将が率いる兵力であり、各方面軍における主力・本隊といえるでしょう。 秀長は和泉・大和・紀伊の兵を中心とする約3万の部隊を率い、6/16に堺を出航。淡路島の洲本へと上陸しました。 一方、秀次は摂津・丹波・近江の兵を中心とする同じく約3万の部隊を伴って明石から淡路島へと至り、両部隊は紀伊水道に面する良港・福良(現在の南あわじ市)で合流しました。 ここから約800艘という大船団を仕立て、阿波の土佐泊へと上陸作戦を実施。長宗我部軍も主力をこの阿波方面に展開していたため、事実上の決戦的様相を呈していたといえるでしょう。 長宗我部軍は木津城(現在の徳島県鳴門市)・牛岐城(現在の徳島県阿南市)・渭山城(現在の徳島県徳島市)・一宮城(前同)・岩倉城(現在の徳島県美馬市)・脇城(前同)に一族・重臣を配し、元親は白地城(現在の徳島県三好市)を拠点としました。 秀長軍が最初の攻撃目標としたのは木津城で、8日間の攻城戦によって水の手を遮断されたうえ、秀吉軍に内応した身内の説得を受けて城将の「東条関兵衛」は降伏・開城します。 木津城の陥落を知った牛岐城と渭山城はそれぞれ守備を放棄、この頃には岸和田城に在陣していた秀吉が自ら出馬する意思を示し、先発部隊が7/3には淡路島に到達していました。 しかし秀長は秀吉の出陣をいさめ、自らの指揮で一宮城攻略を、秀次には岩倉城と脇城の攻略を委任。 5,000~9,000とされた一宮城兵は奮戦するも、5万もの秀長軍に包囲されて補給線を遮断されたうえ、坑道工事によって水の手を断たれるという干殺しにあい、7月中旬には開城したといいます。 岩倉城・脇城も陥落し、阿波方面の趨勢は決しました。これにより、長宗我部元親が本拠とした白地城を伊予方面部隊と挟み撃ちにする構図が完成しました。

〇伊予方面部隊

伊予方面からは毛利輝元旗下の中国8か国部隊が、2万5,000~4万ともいわれる兵力で備後三原・安芸忠海を6月下旬に出港しました。 輝元自身は三原に在陣して総指揮を執り、6/27に小早川隆景部隊が今治に、7/5には吉川元長らの部隊が同港および新居浜にそれぞれ上陸を果たしました。 伊予方面軍の優先任務は伊予東部の制圧と、長宗我部氏と同盟関係にあった在地勢力の掃討だったと考えられます。 最初の攻撃目標は宇摩郡(現在の愛媛県四国中央市および新居浜市の一部)の石川氏と、新居郡(現在の愛媛県西条市および新居浜市あたり)の金子氏でした。 石川氏は金子氏にとって主家にあたりますが、当主はまだ8歳と幼く、実質的には金子氏の「金子元宅」が大将格だったといえそうです。 元宅は高尾城(現在の愛媛県西条市)にあり、ここに長宗我部氏の援軍が加わって籠城戦を展開。 幼君の「石川虎竹丸」は高峠城(前同)に置いて約800の守備兵を配備し、金子城(現在の愛媛県新居浜市)には元宅の弟「金子元春」を城将にあてました。 攻城戦を開始した秀吉軍の伊予方面部隊は7/14に高尾城支城の丸山城を攻略、翌日には高尾城を包囲して7/17にこれを攻略しています。 続いて石川氏の高峠城にも攻撃を加え、幼い虎竹丸を土佐へと落ち延びさせた城兵らは、その後の戦闘で全滅しました。 周辺の城塞群も陥落し、金子城の金子元春も敗走したため東予地方の趨勢は決しました。 伊予方面部隊はさらに東進して宇摩地方を攻略中、長宗我部元親が降伏したことにより秀吉と元親の間に講和が成立します。 ただし伊予攻めはその後も継続され、8月末頃までの作戦行動によって伊予全域の制圧が完了したとされています。

長宗我部元親の降伏

阿波・一宮城を守備していた長宗我部氏の重臣「谷忠澄」は、開城後に主君・元親の白地城に帰還し秀吉軍への降伏を進言しました。 この時、忠澄は秀吉軍と自軍との装備や兵糧の差など、圧倒的な戦力差を説いたといいます。 元親と重臣らは当初、最終決戦を断行する意思を固めていたといいますが、一宮城で果敢に奮戦して秀吉軍の兵力を目の当たりにしていた忠澄は頑強に説得。やがて元親はこの諫言を受け入れ、7/25日に降伏し8/6までには講和が成立しました。

戦後

長宗我部氏が降伏するにあたって秀吉から出された停戦条件は、

  • 土佐一国以外の割譲
  • 秀吉軍への兵役
  • 人質供出
  • 徳川氏との同盟禁止

といったものでした。

長宗我部氏本来の国は安堵されたものの、元親は三男の「津野忠親」を差し出し、秀吉傘下へと組み込まれることとなりました。 阿波には「蜂須賀家政」、讃岐には「仙石秀久」「十河存保」、伊予には「小早川隆景」がそれぞれ封じられ、 こうして四国全土は秀吉の影響下に置かれました。

これに次ぐ九州攻平定の際には、長宗我部氏の兵力も投入されることになります。

まとめ

「土佐の出来人」と称えられた長宗我部元親でしたが、かつてはもの静かで「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されるような少年だったといいます。長じてはその戦働きから「鬼若子(おにわこ)」の異名で知られる武将となり、やがては四国に覇を唱える存在へと成長していきます。

信長にとっても秀吉にとっても、特にこの元親を象徴とした「四国」の勢力は、常に西側から背後を脅かす不安材料であったことがうかがえます。西国諸将との緊張関係が続いていたころはそれが顕著であり、政権のためにはどうしても払拭しておきたい脅威であったことを示しています。

秀吉は四国を掌握したことで九州方面へと大兵力を動員することが可能となり、やがては天下統一へと王手をかけられたといっても過言ではないでしょう。


【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』 2014 西東社
  • 『【決定版】図説・戦国合戦集』 2001 学習研究社
  • 『歴史群像シリーズ 51 戦国合戦大全 下巻 天下一統と三英傑の偉業』1997 学習研究社
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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