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  • 豊臣秀吉
 2017/11/18

「蜂須賀正勝」通称は"小六" 。秀吉の出世を陰ながら支えた功臣

蜂須賀正勝の肖像画

信長の家臣には著名な人物が数多く存在しますが、その中では実績に対して今一つ知名度で劣る武将も当然存在します。その筆頭が今回紹介する蜂須賀正勝その人であり、信長・秀吉の家臣として長く活躍し、最終的には17万石の領地を手にしていますが、あまり語られる機会はありません。

そこで、この記事では少し地味な蜂須賀正勝の生涯を解説し、彼の渋い活躍を振り返っていきます。
(文=とーじん)

前半生は謎が多く、信長に仕えた時期もハッキリしていない

大永6年(1526年)、正勝は尾張国の地侍であった蜂須賀正利の子として生まれました。

彼の若かりし頃については正確なところがわかっていませんが、まずは犬山城主織田信清に仕えると、次いで岩倉城主織田信賢、その後は斎藤道三と、次々に主君を鞍替えしていったと考えられています。なお、道三に仕えている時期には、彼と嫡男の義龍の間に勃発した長良川の戦いにも参戦したようです。

ただ、その後信長に仕え始めるまでの間にどのような動静をしていたかは全く分かっていません。一説では、土着の勢力として「蜂須賀党」を形成し一定の力を有していたとも言われていますが、これも有力な史料で語られているわけではありません。

信長に仕えた時期については二通りの可能性が示されており、一つは永禄3年(1560年)という説です。この説を記した『寛永諸家系図伝』によれば、正勝は信長に仕えてすぐ桶狭間の戦いで功を挙げています。

もう一つは、『太閤記』に記された永禄9年(1566年)という説で、この場合は羽柴秀吉の策略によって味方となった正勝が彼の夜襲作戦に協力し、信長より褒賞を与えられたということです。

もっとも、どちらの史料も二次史料であり、かつ誤りも少なくないことで知られていることから、個人的には両説ともに真実とはいい難いように感じます。が、当然ながら現状ではこれを超える信ぴょう性のある史料は発見されていないので、信長仕官以前の正勝については新史料の発見がない限り解明し難い状況にあるといえるでしょう。

信長家臣として、秀吉与力として堅実に働く

永禄年間に信長に仕えて以降は、秀吉の与力として彼を支えていきました。こうした経歴から「正勝は秀吉の直臣である」と考えられることも多く、実際に『武功夜話』という史料では「信長の直臣となることを遠慮した正勝は、秀吉の家臣となった」と記載されています。

ただ、結論から言えばこれは真実ではなく、一見すると秀吉の家臣ながらあくまで主君は信長であったようです。これは正勝の発給した副状や戦の際に信長の指示を何度も仰いでいることから読み取れるとされ、秀吉の家臣として働きながら彼の目付け役という役割も担っていた可能性が指摘されています。

とはいえ、表面上は秀吉の与力として彼とともに行動していました。信長の上洛に際しては秀吉に付き添って箕作城攻めに参加。その後も天筒山城攻めや横山城攻めに従軍し、浅井・朝倉軍と激しい戦に明け暮れました。また、元亀3年(1573年)には秀吉の代官のような立場を務めており、寺社領の管理に関する役職にも就いていました。

こうして順調に秀吉の家臣として地位を築き上げていた正勝ですが、元亀2年(1572年)の伊勢長島攻めに参加した際、退却時に戦場で弟の蜂須賀正元を失ったとされています。

それでも生き残った正勝は天正元年(1573年)に領地の加増を受けると、同5年には秀吉の播磨入国に従いました。以後、正勝は秀吉の中国地方攻略において大きな役割を果たすことになっていきます。

また、天正6年(1579年)に荒木村重が反乱を起こした際には荒木方についた複数の武将が投降する際に信長との仲介役を務めるなど裏方で活躍し、信長よりふたたび領地の加増を受けました。

このように正勝は生涯で何度も「降伏の取次」を担当しており、特に中国方面へ進出した際には宇喜多直家や安宅信康といった人物らが信長に下る際の仲介を行っています。戦国時代における仲介役は「主君による信頼度の高さ」と「対外的に『主君に顔が利く』と見なされる知名度の高さ」が必要であったと考えられており、大きなトラブルを起こすことなく堅実に職務を全うした正勝は敵味方から評価されていたことが分かります。

晩年には長年の働きが評価され、17万石の大名となる

信長・秀吉の家臣として盤石の地位を築いていた正勝ですが、天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発すると、信長が殺害されてしまったために主君を失うことになります。ただ、言うまでもなく秀吉は健在であったために、彼の中国大返しに付き添って山崎の戦へ参加しました。なお、秀吉が当時戦っていた毛利家との講和を手早く済ませることができたのは、正勝が敵方の安国寺恵瓊と相談し、合意にこぎつけたためと考えられています。つまり、秀吉の中国大返しには正勝の功績が大きく、彼の行動は間接的にですが歴史に大きな影響を与えたとさえ指摘できます。

山崎の戦いに勝利して以後は完全に秀吉の家臣となり、変の動揺後に生じた毛利氏との領土境界線をめぐる問題では、黒田官兵衛とともに毛利氏との交渉を担当しました。この毛利氏との関係性を買われてか、すでに天正9年(1581年)からは播磨国竜野城主に任じられており、以後も対毛利の折衝に駆り出されています。

ただし、この時期には正勝も50歳を超える高齢になっていたことから、これまでに比べて戦場での働きは大幅に減少していきました。例えば、天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは参陣こそしたものの戦闘には参加しておらず、あくまで備えとして戦況を見守っています。この戦いでは若き秀吉家臣たちが「賤ケ岳の七本槍」と称される活躍を見せていることからも、この時期から世代が変わっていったことを示しているでしょう。とはいえ、戦後にはかつての同僚である佐久間盛政の家臣らが籠った城を開城させ、その功からか5千石の加増を受けています。

この時期には息子の蜂須賀家政も独り立ちしており、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて蜂須賀軍を率いていたのは家政でした。翌年の四国攻めでは従軍こそしていますが、彼はまだ幼い宇喜多秀家の補佐役として彼の下につけられるなど、実質的には引退同然の処遇であったことがわかります。

しかし、これまで地味ながらも堅実に秀吉を支え続けてきた正勝は、最期に大きな恩を与えられました。秀吉は四国平定後、すでに一線を退いていたと思われる正勝に阿波国17万石余りを担わせています。これはあくまで名目上のもので、実質的には家政に与えられていたといっても差し支えありません。とはいえ、秀吉によってこれまでの功績を評価されての加増であることは疑いようもなく、彼の人生が報われた瞬間であったかもしれません。

以後は体調を崩しがちになり、天正14年(1586年)に病によって61歳の生涯を終えました。

その生涯を振り返ってみると、確かに華々しい活躍や逸話はありません。しかし、信長や秀吉の躍進を陰ながら支えた功臣であることは疑いようもなく、彼は今よりも評価されるべき人物であると考えられます。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)
  • 谷口克広『織田信長家臣人名大辞典』(吉川弘文館、2010年)



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