「長良川の戦い(1556年)」斎藤道三、骨肉の争いで嫡男・義龍に討たれる

「美濃のマムシ」こと斎藤道三が主君の土岐頼芸を追放し国盗り・下剋上を成し遂げてからわずか数年、事実上の国主となった道三は、息子の義龍に討たれてあっけなく死んでしまいます。ちょっと大きすぎる親子ゲンカは息子の勝利で終わりました。因果応報、裏切る者はやはり誰かに裏切られるものなのでしょうか。

道三親子の不和の背景

天文23年(1554)、道三は義龍に家督を譲って隠居していましたが、それでも義龍が「自分はこの立場を失うのでは」という危機感がぬぐえない理由がいくつもありました。

隠居してもなかなか譲らない道三

道三が隠居したといっても、すぐに一切を義龍に任せる気はなかったようです。この年に出された判物を見ると、道三のものと義龍のものが重複していることがわかります。

まだ代替わりしたばかりだから息子にはちょっとずつ仕事を任せて、という父心だったのかもしれませんが、義龍にとっては自身を脅かす材料はほかにいくつもあり、「このまま自分は廃嫡されて追いやられる」という疑いを強めることにしかならなかったのでしょう。

「義龍は道三の子ではない」というウワサ

義龍はなぜそこまで不安だったのでしょうか。

第一に、義龍は道三の子ではない、といううわさがあったというのです。義龍の母・深芳野(みよしの)は、元々は土岐頼芸の妾で、重臣であった道三に下賜されたという経緯があります。彼女が義龍を生んだのは、道三の側室になった翌年のことですが、その間だいたい半年ほどしか経っていません。そういうわけで、「義龍は道三ではなく頼芸の子なのでは?」といううわさが流れた、というのです。

大河ドラマ「麒麟がくる」では義龍を伊藤英明さんが演じます。キャストビジュアルを見ると「出生に秘密がある」と設定されているので、おそらく頼芸の子だったとして描かれるのでしょう。

うわさがあったといっても、当時本当に頼芸の落胤説が広まっていたかどうかは定かではありません。が、父を討とうという義龍にとっては都合がいい面もあったかもしれません。低い身分から下剋上で成り上がった道三の子であるよりも、長年美濃守護職の座にあった土岐氏の子だということにした方が、味方も集めやすかったでしょう。

弟を贔屓した道三

第二に、道三は義龍を「耄者」といい、嫡男よりも「利口者」の下の弟2人を、とくに下の喜平次を溺愛したといいます(『信長公記』)。喜平次は跡継ぎであるはずの義龍よりも先に名門・一色氏の姓を与えられました。

こうして父が下の二人を溺愛したことで、弟たちのほうも兄を侮るように。いよいよ義龍は廃嫡の可能性を考え、そうなる前に先手を打つのです。


弟二人が殺害され、父子の仲は完全崩壊


父殺しを誓って「范可」に改名

このようにして義龍の決意は固まり、道三と対立へ。道三打倒を示すかのように、唐代の中国で父殺しをした故事で知られるという「范可」に改名したのです(范可の故事の実在は確認されていません)。

父殺しの代名詞「范可」となった義龍ですが、道三を討つと用は終わったとばかりにまた別の名へ改名しています。

戦いの発端は弟二人の殺害

弘治元年(1555)11月、ついに道三と義龍の不和が表面化します。義龍は病気と称して稲葉山城に引きこもり、叔父の長井道利を使いにやって、「もう病で死にそうだから、言っておきたいことがある」と言って弟2人を呼び寄せ、のこのこやってきた孫四郎・喜平次を斬殺してしまうのです。

『信長公記』によると、これを知った道三は肝をつぶすほどに仰天したといい、すぐに軍勢を集めて稲葉山城周辺を焼き尽くして撤退したとか。

道三は大桑城に逃れて義龍との戦いを選択、年が明けて春になった弘治2年(1556)4月、親子は長良川で衝突することになります。

圧倒的な兵力差を前に…

長良川の戦いは、子・義龍有利で始まりました。義龍の軍は一説によれば道三の10倍ほどあったといわれます。すでに道三から義龍へ家督相続した後であり、道三が成り上がった経緯が経緯なので、求心力がなかったのが敗因のひとつです。

長良川の戦い関連マップ。色塗エリアは美濃国。青マーカーは美濃国内の城。

所詮、主君・頼芸を裏切って下剋上で成り上がった道三。義龍は道三の味方をしそうな者たちの平定も進めていました。美濃国内には土岐氏に仕えていた旧臣たちも大勢います。このとき、義龍に頼芸の落胤のうわさがあったとしたら、正当な美濃国主の出身として彼に味方する者は多く、有利に動いたのではないでしょうか。

始まる前から結果がみえていた戦い。4月18日、道三は鶴山に陣を張り、緒戦を有利に進めますが、乱戦の末、数日も経たないうちに義龍の勝利で幕を閉じます。

道三討ち死に!

『信長公記』によれば、道三は討ち取られた際、長井道勝に鼻をそぎ落とされたと伝わっています。生け捕りにする予定でしたが、小牧源太が勢いのままに脛を薙ぎ払って道三の首を落としてしまったため、証拠として鼻を持ち帰ったといいます。

この戦には道三の娘婿(帰蝶の夫)である信長も兵を出しましたが、間に合うことなく終わってしまいました。ちなみに、この戦で道三に味方したという説があるのが明智氏です。光秀はこの戦で居城の明智城を追われ、長い牢人生活に突入することになったとか。

道三の敗因は、山から下りて長良川を渡って合戦に踏み切ったこと。山の要害にドンと構えていればまだしばらくは持ちこたえていたかもしれません。また、一番大きな敗因は「身から出た錆」でしょうか。道三に味方する者がほとんどいませんでした。


道三死後の斎藤家は?

義龍は自身を脅かす弟たちを葬り去り、隠居した父の道三をも討って勝利しました。が、やはり罪の意識はあったのか、このあとに出家して剃髪しています。

道三の死後、義龍は腰を据えて内政に取りかかります。美濃は頼芸から道三へ、そして義龍へ、と長年の内乱で荒れていました。国主としての務めを果たして働き、13代将軍・義輝より名門・一色氏の姓を名乗ることを許され、着々と戦国大名として力をつけていきました。

しかし、義龍の時代もそう長くは続きませんでした。父を討ってから5年、永禄4年(1561)に義龍は急死。後を継いだのは子の竜興でしたが、国主としての能力はイマイチ……。信長の侵攻を止めることはできず、長島へ逃れ、最終的に縁のあった越前の朝倉義景を頼ります。

こうして斎藤道三が築き上げた家は落ちぶれていき、竜興は天正元年(1573)の信長と義景の戦い(一乗谷城の戦い)で討死してしまいます。義龍が亡くなったとき、龍興はまだ14歳の少年でしたから、うまく家臣をまとめられず家が傾いていったのも無理はありません。

道三の美濃乗っ取りから、美濃斎藤氏の時代は三代で数十年しか続きませんでした。やはり因果応報。戦国時代、下剋上は世の常といいますが、裏切り・乗っ取りで得たものはそう簡単にうまくいかず、長続きしないのだ、と思い知らされます。




【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 横山住雄『中世武士選書29 斎藤道三と義龍・義興 戦国美濃の下剋上』(戎光祥出版、2015年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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