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  • 真田幸村
 2019/03/06

「山手殿(寒松院)」幸村の母。真田丸では高畑淳子さんがツンデレ娘を演じた「薫」。

大河ドラマ「真田丸」では高畑淳子さんが「薫」という名前で演じられていた公家の娘・山手殿。ツンとしながら夫の真田昌幸を尻に敷くと見せかけて、実は手の平に上手く乗せられているという、どこか憎めないキャラがとても印象的でした。

今回は真田家でもちょっと浮いた感じの幸村の母・薫こと「山手殿」をご紹介します。
(文=趙襄子)

昌幸はなぜ格上の公家の娘を迎えることができたのか?

山手殿の生年はよく分かっておらず、一般では公家・菊亭晴季の娘と言われています。

しかしこの説には無理があります。なぜなら結婚当時の真田昌幸の身分はあくまで武田信玄の奥近習に過ぎないため、公家の娘を妻に迎えることなど到底できないからです。

そもそも菊亭家は公家の中でも摂関家に次ぐ家格です。さらに言えば、昌幸の主である武田信玄の正室・三条の方の生家である三条家と同格の家柄だとか。このことから、昌幸が菊亭晴季の娘を迎える、というのは考えにくいようです。

他にも高野山蓮華定院に残された記録によると、彼女が信玄の養女扱いで昌幸に嫁いだという説、宇多頼忠の娘とする説、武田家臣・遠山右馬助の娘とする説、などなど…数多くの説があるのですが、いずれも確固たる見解がないようで、研究者によって意見が異なっています。

たしか大河真田丸では、今出川(菊亭)晴季に侍女として仕えていた貧乏公家の娘、という設定にしていましたよね。下級の公家の娘ということなら、そんなに違和感はないようにも思えます。

まだ昌幸が武藤喜兵衛と呼ばれていたころ、正室として迎えられた山手殿と昌幸の間には、永禄8年(1565年)に長女・村松殿(大河真田丸では「松」)を、その翌年には嫡男・信之、さらに翌永禄10年(1567年)には次男幸村が誕生しています。

しかし真田家はあくまで甲斐武田家に属する先方衆筆頭の身分。山手殿も人質の宿命からは逃れられませんでした。

たびたび人質にされた山手殿の受難

真田家は弱小であり、隣国の傘下に入る信用を得るため、たびたび人質を出していました。山手殿は言わずもがな、嫡男の信之や幸村もしかりでした。

天正10年(1582年)の武田滅亡直前には、昌幸が武田勝頼の側近であったため、勝頼の本拠地である新府城に一族で住んでいたようです。

このとき、山手殿ら真田一族は勝頼の許可がおりて人質から解放され、新府を脱出して逃避行の末、真田郷に落ち延びることができました。逃亡中に食糧が無くなり、皆が空腹で立てなくなったと見るや、山手殿は女中に指示して鏡笥から弁当を取り出させて配って回った、なんてエピソードもあります。

武田滅亡後の真田は、一旦織田家の重臣・滝川一益の傘下に入ると、上杉家や北条家など主を転々と代えています。天正14年(1586年)に山手殿は、真田が上杉に従属していた関係上、信濃国の海津城に人質として入っていたことがわかっています。

まもなく昌幸が織田家の後継者である豊臣秀吉に臣従すると、天正17年(1589年)には諸大名に妻子の在京の命が下されます。例に漏れず、山手殿も人質として京都伏見で暮らすことになりました。その後、秀吉が大坂城を築城して大坂に本拠地を移すと、真田屋敷も京都伏見から大坂に移転してそこで生活を送ることになったのです。

しかし天下人・豊臣秀吉が亡くなると、秀吉の奉行であった石田三成と、今最も勢いのある徳川家康との対立が激化。慶長5年(1600年)8月に三成が大坂で挙兵した際、山手殿をはじめ、真田家の大坂在住の人質たちは、幸い昌幸と幸村が石田方に組したことや、幸村が三成の盟友である大谷吉継の娘を正室に迎えている関係からか、大谷吉継によって保護されたとの書状が見つかっています。

人質生活の終焉

石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が衝突した天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」がわずか1日で決着すると、三成率いる西軍に加担して上田城で奮闘していた昌幸・幸村父子の罪も追及。彼らは家臣や妻女とともに紀伊国の九度山に蟄居・謹慎させられることになりました。

一方、山手殿も昌幸・幸村父子に付き従うと思われましたが、嫡男の信之が家康の東軍に味方していた影響で、上田の地で暮らすこととなっています。

その後、時期は定かではありませんが、山手殿は昌幸・幸村父子が九度山蟄居中に出家して、名を「寒松院」と改めています。昌幸や幸村の罷免を訴え続けたものの、聞き届けられることはなく、夫昌幸は慶長16年(1611年)6月4日に九度山にて病死。

山手殿も夫の後を追うように、それから2年後の慶長18年(1613年)6月3日、上田でひっそりと亡くなりました。法名は「寒松院殿宝月妙鑑大姉」で、墓所は長野県上田市の大輪寺から、信之の松代城移転に伴って現在の長野県長野市の大林寺に移されたようです。

奇しくも昌幸の命日の1日前のことでした。さんざん振り回された山手殿でしたが死ぬ時は昌幸に近づきたかったのでしょうか…。6月3日に三回忌を済ませると自害したとという説も残っています。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』(KADOKAWA、2016年)




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