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「真田信之(信幸)」幸村の兄は松代藩10万石初代藩主となり、家名を明治期まで存続させていた!

  • 真田幸村
 2017/11/19
真田信之の肖像画
真田信之の肖像画

真田氏といえば、真田丸で有名な真田信繁(幸村)の名前が真っ先に挙がるでしょう。信繁が大坂夏の陣で徳川氏と戦い壮絶な最期を遂げたのは対照的に、兄の「真田信之」(信幸)は江戸幕府に仕える大名として真田氏を存続させました。

はたして信之とはどのような人物だったのでしょうか?今回は真田信之の生涯についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

信幸と信之の違い

真田昌幸の嫡男として誕生

『加沢記』によると、信之は永禄9(1566)年、真田昌幸の嫡男として砥石城で生まれました。母親は山之手殿です。

信之が誕生した頃、父昌幸は武田氏の親類衆のひとつ、武藤氏を嗣いでいたことから、武藤昌幸と名乗っていたと考えられます。 信之も将来、武藤氏の家督を継ぐ予定だったのではないでしょうか。

しかし、天正3(1575)年長篠の戦いで、昌幸の二人の兄である、信綱と昌輝が揃って討ち死にすると、昌幸が真田氏の家督を継ぐことに…。

信之が元服した時点ではすでに昌幸が真田氏の当主となっており、信之は "真田源三郎信幸" を名乗っています。ここでお気づきだと思いますが、「信之」というのは後年に改名したときの名です。

文禄3(1594)年に従五位下伊豆守に任官されてからは、真田伊豆守信幸です。幸の一字は昌幸からの真田氏の通字であり、信の一字は武田氏からの偏諱と考えられます。

「信幸」を名乗っていたのは関ヶ原の戦いが起こる慶長5(1600)年までで、「信之」に改名したのはその翌年です。

「信幸」と「信之」では声に出すと同じなのでとても紛らわしいですが、本記事では「信之」で統一して記していきます。

関ヶ原の戦いを境に改名

ところで信之はなぜ、このような紛らわしい改名をしたのでしょうか?ここには真田氏と徳川家康の間で揺れ動く信之の心を表しています。

信之は父親から受け継いだ真田氏の通字を捨て、その覚悟を家康に示したものの、「信幸」としての過去を大切に思っていたため「のぶゆき」という響きは変えなかったのではないでしょうか。逆に考えると、それだけ真田氏を取り巻く環境は、関ヶ原の戦いの前後で大きく異なるということです。

父の昌幸は家康にとって天敵であり、第一次・第二次上田合戦では寡兵ながら2度も徳川勢を退けています。

天正13(1585)年第一次上田合戦では、信之も砥石城から出撃し、徳川勢1300を討つという活躍をしました。信之の武名が徳川勢に広まったのもこのときです。

戦上手を尊重するのが三河衆の文化でもありましたから、この活躍があってこそ信之は家康の家臣として受け入れられたのでしょう。

そんな真田氏を家康の与力としたのが、天下を手中にした豊臣秀吉です。天正17(1589)年からは豊臣大名であり、かつ寄親である家康の指示を仰ぐ立場にありました。

信之の妻と子の謎

本多忠勝の娘「小松殿」を正室に迎える

信之の正室は真田氏二代目当主である真田信綱の娘、清音院殿です。

信之の父親である昌幸は、三男でありながら真田の家督を継いだ正統性をアピールする目的で、長篠合戦で討ち死にした兄の信綱の娘を嫡男信之に娶らせた、と考えられています。

しかし、真田が秀吉に従属して家康の与力となった際に、真田と徳川との結びつきを強めるべく、昌幸は本多忠勝の娘である小松殿(稲姫、子亥姫、大蓮院)を、信之の妻として迎えました。

本多忠勝といえば、家康の家臣団の中でも最強を誇る猛将で、以前に敵対していた武田氏からも家康の「過ぎたるもの」のひとつに数えられるほど武名を轟かせています。

家康は信之の器量を買っており、この小松殿を養女として迎え、家康の娘として信之に嫁がせました。当然正室としての扱いです。そのため、これまで奥を取り仕切っていた清音院殿は側室の扱いに変わっています。

信之と小松殿が結婚した時期について、『甲陽軍艦』では天正11(1583)年としていますが、この時期はまだ昌幸も秀吉に従属する前のことになりますので、天正16(1588)年という説が有力です。この時期には信之は沼田城城主となっています。

ただしこの辺りの記録が曖昧になっており、信之の孫の真田幸道は、信之と小松殿の結婚について、秀吉の媒酌で徳川秀忠(家康の後継者)の養女を正室として迎えたと記憶していたようです。そのため小松殿は秀忠の養女の扱いだったという説もあります。

嫡男の真田信吉の母は誰か?

信之の嫡男は真田信吉です。信之が上田に移った元和2(1616)年に沼田領を受け継ぎ、沼田藩の藩主となっていますが、信之が長命だったこともあり、父親である信之よりも先に亡くなっています。

その信吉が生れたのが文禄4(1595)年、さらにその下の弟である真田信政が生まれたのが慶長2(1597)年ですから、どちらにせよ信之が小松殿を正室に迎えてしばらくの期間が過ぎてからの話です。しかし通説では両者の母親は異なっています。

信吉の母親は清音院殿で、信政の母親は小松殿なのです。時期が時期だけに信吉の母親は小松殿という説もあります。

この関係性は不思議ですが、信之にとっては小松殿を正室に迎えたのはあくまでも徳川氏とのパイプを太くするためであって、引き続き清音院殿を愛していたということではないでしょうか。

ただし後年の真田氏の家系図からは清音院殿の存在は薄らいでいき、信吉は小松殿の子という扱いに変わっていきます。これは幕府との繋がりを重視するために意図的に書き換えられた可能性があります。

昌幸と訣別して徳川家康に味方する

犬伏の別れ

文禄3(1594)年に従五位下伊豆守に任官された信之は、慶長5年(1600)年に大きな決断を迫られました。

この年は天下を二分する「関ヶ原の戦い」が行われた年です。信之は徳川方に付くか、石田三成方に付くかを選択しなければならなくなります。おそらく信之は大いに迷ったことでしょう。

まず信之は家康の養女を娶っているわけですから家康は義理の父親です。小松殿の実の父親である忠勝も当然家康の家臣ですから、通常であれば信之が家康に味方するのは自然な流れです。しかし、信之の父親である昌幸と弟の信繁は三成に味方すると言い出したのです。しかも信之は三成と親友同士の間柄でした。

三成は真田氏の取次を秀吉から任されていたので、両者が接する機会は多かったでしょうが、友情も芽生えていたようです。実際に信之と三成の交わした書状が14通も残されています。その中には三成の子どもが病になったことを案じるものや、どこぞの宿で語らおうというものもあります。

信之にとっては家康も三成も憎しみを抱くような対象ではなく、むしろどちらにも味方したかったに違いありません。

昌幸、信之、信繁は下野国犬伏の地でどうすべきかを話し合い、そして昌幸と信繁は三成に味方し、信之は家康に味方するということで袂を分かつことになりました。これが「犬伏の別れ」です。

親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うことにはなりますが、どちらが勝っても真田氏は生き残ることができるのです。

この時点では豊臣秀頼を押さえているのは三成であり、毛利輝元も大坂城に入って、会津国の上杉氏と徳川勢を挟撃する構えでしたから、家康と三成どちらが勝ってもおかしくない状態でした。

信之のいない沼田城を小松殿が守った?

犬伏の分かれの後、昌幸は沼田城を訪れてから上田城に帰還したと考えられています。

『真武内伝』や『滋野世紀』によると昌幸は信之がいない隙に沼田城を乗っ取ってしまおうと画策しますが、留守を守る小松殿が甲冑姿で薙刀を構え、夫のいない状況では城には一歩も入れないと入城を拒否したというのです。

昌幸はその姿を見て、さすがは忠勝の娘で信之の妻だと感心し、城外で孫に会うだけで満足して上田城へ帰還しました。もしここで沼田城を奪われていたら信之は戻る場所を失っていたわけですから危機一髪です。

これは小松殿の勇敢さや聡明さを伝えているエピソードですが、史実では信之の正室は大坂屋敷におり、大谷吉継が信之の正室も保護していると昌幸に伝えていますので、小松殿の活躍ぶりについては創作の可能性が高いです。

上田領と沼田領を統治

信之が味方することを知った家康は喜び、昌幸の上田領を信之に与えると約束しています。結果としては家康が大勝利を収め、三成に味方し敗北した昌幸と信繁は高野山へ配流、信之は沼田領と共に上田領も統治することになったのです。

昌幸と信繁が追放されたとはいえ、信之や忠勝の助命嘆願が功を奏して命までは取られることがなく、さらに真田氏の領土はしっかりと守られていますので、信之の決断は正しかったといえます。

ただし秀忠と上田城に籠城した昌幸・信繁親子の戦いは凄まじく、この第二次上田合戦によって上田領は荒廃し、農民の多くが逃散してしまう事態となっています。この際には信之も秀忠に従って先鋒を務めましたが、まず砥石城を攻略することを命じられ、信之が攻めてきたことを知った真田勢が戦うことなく城を捨てて上田城に移ったことで、真田勢同士の流血戦は起こっていません。

信之がこの荒れ果てた上田領の復興に着手できたのは、慶長8年(1603年)からのことです。ちなみに父親の昌幸は信之の必死の願いもむなしく、最期まで家康から赦されることはなく、慶長11年(1611年)に亡くなっています。

長命だった信之

大坂の陣には参加せず

信之がまたもや親族と戦うことになったのが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣です。敵方の大坂城には弟の信繁が九度山を脱出して入城していました。

もともと中風を患っていた信之は江戸城に入ったものの、歩くことも厳しい状態だったため、嫡男の19歳になる信吉と次子の信政を自身の代理として出陣させています。弟と息子が戦う事態になったのです。このときの信之の心痛はどれほどのものだったのでしょうか。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、信繁は本陣にいる家康を討ち取る寸前まで果敢に戦い、そして戦死しました。こうして天下は家康によって統一されます。

沼田領を信吉に譲って上田領に移った信之は、元和8年(1622年)に加増転封の命を受け、上田藩6万5000石の藩主から、松代藩10万石の藩主となりました(信吉の沼田藩も含めると13万石)。松代藩はその後も真田氏が受け継ぎ、10代目藩主となる真田幸民の代で廃藩置県が行われるまで真田氏の統治は続きます。その礎を築いたのが初代藩主である信之なのです。

四代目将軍徳川家綱にまで仕えた

信之はとても長命だったことで有名です。秀吉や家康といった英雄に仕えた後も、江戸幕府の将軍となる二代目徳川秀忠、三代目徳川家光に仕えました。通常であれば家督を譲り、隠居するのですが、幕府からその許可がなかなか下りなかったようです。

特に四代目将軍である徳川家綱は幼く、幕府を支える柱としての信之の存在感は欠かせぬものでした。信之は「天下のカサリ(飾り)」と称されています。

ようやく隠居を許されたのが明暦2年(1656年)のことで、信之はもう91歳になっていました。万治元年(1658年)には一当斎を号しています。しかし信之の苦労は途切れることがありませんでした。

真田氏の家督を継いだ信政がすぐに病没してしまい、その後継者の幸道がわずか2歳だったからです。しかも沼田藩を継いでいた信吉の次子の真田信直(信利は誤りとされています)が、自分こそが真田氏当主に相応しいと主張し始めたために家中が乱れました。

信之は自身が幸道の後見人として支えることを表明して、この乱れを正しています。93歳にしてなお真田氏を支え続けた信之は、万治元年(1658年)10月に病没しました。信之は真田氏の分裂を必至に食い止め続け、真田氏を存続させた最大の功労者といえるでしょう。

まとめ

戦場で果敢に戦い散っていった弟の信繁に人気が集まっていますが、93歳まで地道に真田氏のために尽くした信之もまた尊敬すべき人物です。

そこには並々ならぬ辛抱強さと共に先を見通す先見の明があったのではないでしょうか。だからこそ家康の目にとまり、養女の婿に選んだに違いありません。そういった点において信之と家康は似たもの同士だったのかもしれません。


【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)


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