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「甘粕景持」謙信と勘違いされるほどの武勇を誇った男の人生とは

甘粕景持の肖像画

みなさんは甘粕景持(あまかすかげもち)という人物を知ってるでしょうか?

白石城を預かっていたものの留守にしていたため、関ヶ原の戦いの際に伊達政宗に白石城を乗っ取られた甘糟景継と混同している人も少なからずいると思います。ですが同じ「あまかす」さんでも同じ上杉氏の家臣として甘粕景持は存在していたのです。

今回は上杉氏を「武」で支えた猛将の生涯をご紹介したいと思います。
(文=趙襄子(ちょうじょうし))

甘粕景持のルーツ

甘粕景持ですが、いつ頃誕生したのかは実は未だに詳しく分かっていません。現存する家系図の中に甘粕景持の存在がないためです。ただ、いつ頃生まれたか定かではない景持ですが、上杉氏に仕えることになった理由は三つほどあります。

一つは、南北朝時代に足利幕府初代である足利尊氏と覇権を争った新田義貞の一族である景持が新田家衰退後に上杉・長尾両氏に仕えたこと。

二つ目は後の主君・上杉景勝の出身地である上田庄の出身で、上杉謙信の父である長尾為景から謙信、景勝と三代に渡って仕えた説。

三つ目は武田信玄の本拠地である甲斐の国境沿いの白峰山に住みながら狩猟で生計を立てていたのを、たまたま謙信に見出されて家臣になったという説です。

どれも全く出自がバラバラな説ではありますが、共通しているのは甘粕景持という男が主の目に適って家臣になったというところでしょうか。

初め景重と名乗っていたのですが謙信から偏諱を賜って景持と改めたそうです。ちなみに冒頭で紹介した甘糟景継は景持の遠縁にあたるそうですよ。

甘粕景持、上杉謙信に仕える

一番初めの景持の働きはまだ謙信が「長尾景虎」と名乗っていた頃に新たに城を築いたところから始まります。

江戸時代の書物「信濃のさざれ石」によれば、天文16年(1547年)10月に謙信が髻山に城を築くため、完成するまでの間に合わせとして「三日城」を築城したというものです。長野市豊野地域に築かれたというこの城は読んで字のごとく三日で築いたのかと勘操ってしまいますが詳細は謎のままです。

永禄2年(1559年)には、謙信上洛時に13代将軍・足利義輝より「上杉の七免許」と言われる管領並みの待遇を与えられて帰国したことがありました。この名誉を祝うために国許の家臣たちがこぞって謙信に太刀を贈った際に景持は、金覆輪(金または金色の金属を用いて作ったもの)の太刀という上等な太刀を献上し謙信を喜ばせました。

そして翌年の永禄3年(1560年)には謙信の関東遠征に従軍し、謙信は10万の大軍でもって後北条氏の本拠地・小田原城を囲んで武威を示しました。

この遠征の帰りのこと、鶴岡八幡宮を詣で、そこで謙信は庇護を求めてきていた関東管領・上杉憲政より正式に関東管領の職と山内上杉家の家督を相続します。戦功を上げていた景持はこの時謙信より「御先士大将」を務めるよう命じられました。 他に命じられたのは謙信の軍師・宇佐美定満、越後一の猛将・柿崎景家、越中方面司令官・河田長親でした。

いかに景持が謙信に重く用いられていたかが分かります。

ですが景持の名が天下に知れ渡るのはここからです。それは翌年の永禄4年(1561年)8月のこと。謙信が甲斐の虎・武田信玄と何度も覇を競った川中島合戦の中で最も激しく死闘を繰り広げた第四次川中島合戦に景持が従軍した際のことです。

妻女山を下り武田本隊に突撃した謙信は信玄を後一歩というところまで追い詰めます。 しかし天は味方せず、信玄を討ち取る前に妻女山に謙信を追っていた武田軍の別働隊が到着して後ろから迫り、上杉軍は背後を挟まれてしまいました。

起死回生の作戦が阻止され、兵力も不足している謙信は撤退を決断しますが、そこで殿軍に選ばれたのが景持でした。 謙信に任された景持は追いすがる武田軍に対して修羅の猛攻で応えこれを阻止し、謙信を本営のある善光寺まで無事に撤退させました。 この時の景持のあまりの猛攻ぶりに武田軍の中では謙信が自ら殿軍を努めたという噂が広まるくらいでした。

この時の戦いぶりを甲斐武田氏の軍記物である「甲陽軍鑑」では「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」と景持の活躍を絶賛しています。

甘粕景持、上杉景勝に仕える

謙信が天正6年(1578年)に亡くなると、謙信の二人の養子・上杉景勝と上杉景虎との間で後継者戦争が勃発します。「御館の乱」と呼ばれたこの戦いで景持は景勝を支持し見事景勝の勝利に貢献しました。

内紛が収まったのも束の間、同じく内紛で景勝に味方した北越後の国人領主である新発田重家が恩賞の不満から景勝に対して叛旗を翻しました。新発田城を本拠とする重家の勢力は巨大でさらには新潟城を築き、新潟港も押さえた重家を攻略するのは内紛を平定した景勝にとって生半可なことではありませんでした。

そこで活躍したのがまたしても景持でした。
景持は最前線である兵站基地・三条城の城主を任せられるとこれを維持し、天正14年(1586年)に新発田征伐が本格的に開始されると鉄砲大将を務めて敵将を討ち取る武功をあげ、景勝より感状を与えられました。

このように上杉家の武を支え続けた景持でしたが、秀吉により天下が統一されると景持の武は過去のものとなりました。

武から文へ 甘粕景持のその後

景持は変わらず景勝に忠節を尽くしていました。上杉家の執政・直江兼続の命により検地奉行として領内を飛び回ったりもしました。景勝が秀吉の命で会津に移封された際も、そして関ヶ原の敗戦の責を負わされて米沢に減封された際も景持は景勝に黙々と従いました。慶長7年(1602年)には、米沢に天正寺というお寺も開基しています。

そんな激動を生きた景持も慶長9年(1604年)6月26日、米沢の地で亡くなりました。大幅に減封された米沢にて1100石を賜っていた景持の子孫は代々米沢藩士として仕え、甘粕家を守り続けたのです。





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