「長尾晴景」謙信の兄は当主としての器量に欠けていた?

越後国において、乱世の表舞台に出るキッカケを生み出した長尾為景や、その子である景虎(のちの上杉謙信)に代表されるように、戦国時代における越後国の有力一族といえば、真っ先に思い浮かぶであろう越後長尾氏。

しかし、越後長尾氏の家督は為景から直接景虎に譲られたワケではありません。その間にもう一人、家督を継いで越後の地を任された人物がいたことをご存知でしょうか。

その人物とは謙信の兄にあたる「長尾晴景(ながお はるかげ)」です。父や弟に比べるとどうしても存在感で劣ってしまいますが、その理由はどこにあるのでしょうか。本記事では晴景の生涯をみていきます。

内乱中に越後長尾氏の家督を継承

晴景の生年は定かではありませんが、おおよそ16世紀の初頭に誕生したと推測されます。父は越後守護代の長尾為景。内乱で権力者の座へと上り詰めた下剋上の代名詞的な存在、かつ、上杉謙信の父としてもよく知られています。

当時の越後国は為景の勢力と、彼によって追い落とされた守護大名の上杉定実を支持する勢力によって国が二分された状態にありました。この苦境を乗り切るために多くの苦労を重ねていた父の為景。そうした戦乱の最中の天文5(1536)年に、晴景が越後長尾氏の家督を継ぎます。


ちなみに、この家督継承は「反為景派の圧力に屈した結果」という説と、「国内の叛乱分子を一掃したことによって体制の盤石さを示すための勇退」という説が存在するようです。

その実情はともかくとして家督を継いだ晴景は、室町幕府12代将軍の足利義晴から一字を譲り受けたことによって名乗っていた「晴景」の名が示すように、父と同様に朝廷との関係を構築していきます。

彼は同年に朝廷から「綸旨」を受け取ると、その正当性を後ろ盾にして、反為景派の国衆と講和を結ぶ方向で話を進めていったため、次第に内乱は終息へと向かっていきました。

上杉定実の後継問題がきっかけで再び内乱へ

しかし、まもなくして主君である越後守護の上杉定実の後継者問題が発生し、晴景は政権運営に苦しめられるようになります。

当初、弥五郎という人物が定実の後継者候補筆頭でしたが、一連の乱によって彼を後継に据えることができなくなります。そこで晴景が父為景とともに新たな候補に目をつけたのが、陸奥国の戦国大名・伊達稙宗の三男であった「時宗丸」という人物でした。

伊達稙宗の肖像画
婚姻外交によって勢力拡大を実現していった伊達稙宗

時宗丸は定実の血を引いていたため、後継者向きだと見なされたのですが、同時に彼の母がかつて反体制派筆頭であった上条定兼の側についた中条氏という一族の女性だったのです。そのため、まずは彼らを懐柔する必要がありました。

そこで為景が講じた策は、この養子縁組を通じて中条氏とのわだかまりを水に流し、分が悪くなりつつあった反体制勢力から中条氏を引き抜くという作戦でした。

揚北衆の反乱

この一連の流れを受けて、中条氏も属する「揚北衆」という越後北部に割拠した国衆勢力がこの縁組に猛反対。この為景にとっては都合のいいことに、縁組の是非をめぐって揚北衆が完全に分裂してしまうのです。

為景の目論み通り、反体制派の団結を防ぐことにはなりましたが、不幸なことに縁組が進まないことを不快に思った伊達氏が越後に進行してきます。もちろん伊達氏と戦を構えたくなかった為景は、朝廷の仲裁もあって彼らの進軍を停止させることに成功はしますが、時宗丸問題が揚北衆の暴走を招くことになってしまうのです。

それでも晴景政権は微妙な政治的均衡を保ったまま運営されていましたが、天文11(1542)年に為景が亡くなると国内の政情は一気に悪化。揚北衆は為景の葬儀が執り行われている際にも侵攻の手を強めたため、晴景・謙信兄弟は甲冑姿のまま葬儀に参列したとも伝わっているほどです。

こうした内乱に対し、晴景は生まれつき病弱で軍事行動に適していなかったため、長尾平六という人物が引き起こした乱を抑えることができませんでした。そこで仕方なく政治的な手法、特に伊達氏との関係を強化して彼らに対抗しようとしました。

天文の乱

こうして先の時宗丸が三顧の礼をもって越後に招かれることになったのですが、ここで伊達家内に問題が発生してしまいます。

長尾氏との関係強化に際して軍事行動を示唆した伊達稙宗に対し、その息子である伊達晴宗が反旗を翻してしまうのです。ここに伊達家「天文の乱」が勃発し、時宗丸の養子縁組は消滅することに。
さらに伊達稙宗・晴宗父子はそれぞれが個別に越後の揚北衆への協力を求めたため、平六の乱と並行して揚北衆の内乱が勃発するなど、伊達家中と越後国内が大混乱に陥るのです。

弟の謙信に家督を譲って隠居

こうして内乱が加速する最中、晴景の代わりに弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)が反乱の鎮圧に功を挙げていきます。

栃尾城跡
謙信が謀反を鎮圧することで初陣を飾ったという栃尾城跡(出典:wikipedia

天文13(1544)年には黒田秀忠という人物の反乱(栃尾城の戦い)も勃発しますが、これも謙信が鎮圧。その驚くべき武勇に目を付けた晴景と家臣らは、たびたび謙信に家督継承の話をもちかけました。

謙信はこれを何度も断ったようですが、最終的に天文17(1547年)には家督を受け入れたようです。この後に隠居した晴景は、もともとの病弱さが災いしたのか天文22(1553)年に亡くなっています。

当主としての器量そのものにも疑問を持たれている感の強い晴景ですが、もし彼が病弱でなく長生きしたならば、もしかしたら謙信の台頭もなかったかもしれません。


【主な参考文献】
  • 矢田俊文『上杉謙信』ミネルヴァ書房、2005年。
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。
  • 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』洋泉社、2011年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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