「宇佐美定満」は実際のところ、上杉謙信の軍師ではなかった?

pinon
 2022/06/01
宇佐美定満(うさみ さだみつ)という名を知っている人は相当な歴史通だろう。ドラマなどでは伝説の軍師として謙信を支えたという筋書きとなっていることが多いため、かなりの重臣であったと思っている人も多いと推察する。

ところが、一次史料を調べた限りでは、その生涯は大幅に盛られていた可能性があるようだ。本当の定満像とはいかなるものなのであろうか。

謎の多い前半生

宇佐美定満の半生にははっきりしない点が多い。一応、延徳元(1489)年生まれとされるが、母は不明である。父についても、宇佐美房忠とも、宇佐美孝忠とも言われており、ハッキリしていない。一説には房忠と孝忠は同一人物であり、房忠は晩年の名であるともいう。

しかし、「宇佐美駿河守」等の名で一次史料に記述に見られることから、定満が実在した人物であることは間違いなかろう。宇佐美孝忠と房忠を同一人物とするならば、定満は越後守護上杉家の重臣の子として生まれたことになり、激化する守護代長尾家との抗争に巻き込まれていくことになる。

永正4(1507)年、越後守護である上杉房能に対し、守護代の長尾為景が寝返ったことで事態は急変。ちなみにこの為景はあの上杉謙信の実父である。房能の養子・定実を擁して反旗を翻した為景は房能の拠点を攻撃、房能は上杉顕定を頼り落ち延びる途中で追撃され、自刃してしまうことになる。

房能に成り代わり、まんまと越後守護の座を手に入れた定実であったが、徐々に為景の傀儡であることに嫌気がさしてきたのか、永正10(1513)年には為景に反旗を翻す。

この挙兵に手を貸したのが定満の父ともされる上杉家重心・宇佐美孝忠であった。小野城を拠点に奮闘した孝忠であったが、春日山城を占拠していた定実が為景に幽閉されるという事態となった辺りから、為景方が優位に戦を進めることとなったのである。

永正11(1514)年、小野城は陥落。孝忠は岩手城に籠って抵抗を続けるが、孝忠を含む一族のほとんどがこの戦いで討死したという。この後、定満が宇佐美家の家督を継いだものと思われる。

長尾為景に仕える

家督を継いだ定満は、とりあえずは長尾為景に仕えることにしたようだ。この後の足跡は一次史料に記述がなく、よくわからない。彼の名が再び史料に現れるのは天文5(1536)年のことである。この年、長尾為景は越後守護上杉家の一族である上杉定憲と対立し、抗争状態に陥ったのだった。

それにしても、越後という国は守護と守護代の関係が極めて悪かったようだ。少し気になって調べてみると面白いことがわかった。上杉の出自は源氏であるが、長尾の出自が平氏なのだ。

同様のケースが尾張の守護が斯波・守護代が織田など、数ヵ国で見られることがわかる。あくまで私の主観であるが、平氏出の守護代は独立心が強く、守護が不甲斐ない場合にこれに取って代わろうとする意識が強いように思う。これは、一度は栄華を極めた平氏の誇りのなせる業であろうか。それとも、鎌倉時代に源氏の将軍に成り代わり、執権として幕府を運営してきた伊勢平氏の雄・北条氏に端を発するのであろうか。

話を元に戻そう。家督継承後の定満は、とりあえず長尾為景に仕えたらしいと先に書いた。実の父を殺した張本人に仕える心境はさぞかし辛いものだろうと思う。しかし、定満の選択には宇佐美家の存続と、もう1つの狙いがあったのではないか。それは、為景に従うフリをしながら、その武将としてのノウハウを吸収することであったろう。

為景は武将として相当に有能であったようだ。

越後守護代であった父・長尾能景が永正3(1506)年に般若野の戦いで討死し、為景が家督を継ぐや否や中越の五十嵐氏らが反旗を翻したが、これをあっさり制圧。翌年には越後守護であった上杉房能は為景が謀反を画策しているとして、討伐の準備を始めると、先手を打って房能の館を襲撃し自刃に追い込んでいる。その後は、房能の養子である定実を守護に据え、傀儡として領内運営の実権を握り続けたことは前述した通りである。

定満は、天文5(1536)年の長尾為景と上杉定憲との抗争を好機と見て、定憲方についたのではないか。つまり、定満には勝算があったことになる。

定満は計略の限りを尽くし、柿崎勢らと共に三分一原で為景勢と対峙する。結果的に、定満はこの戦いに敗北しているが、一説には為景を討死寸前まで追い詰めたという。私はこの説は正しいと思っている。というのは、この後為景が隠居しているからである。

為景は天文10(1542)年に没する。家督を譲り受けた晴景は才覚に乏しく越後をまとめ切れなかったため、上杉定実が守護として復権。そんな最中の天文11(1543)年8月、晴景の弟・虎千代が元服し、景虎と名乗った。これが後の上杉謙信である。

この直後の9月には反守護代勢力の討伐を景虎に命じている所を見ると、初めから反対勢力を掃討させるために元服させたものと思われる。この頃の定満は、復権した上杉定実ではなく長尾晴景に仕えていたらしい。おそらく、定満は景虎の器量を非常に高く評価しており、いずれは越後守護代になると踏んでいたのではないだろうか。

天文17(1548)年、晴景は景虎を養子とした上で守護代の家督を譲って隠居する。定満はそのまま越後守護代の家臣として景虎に従った。

この時点で景虎の最大の敵対勢力は上田長尾家の長尾政景であった。政景は長尾家中で実力者として知られていたから、若干19歳で守護代の家督を継いだ景虎に反感を持つのも無理はない。

政景を制圧することに定満は尽力し、天文20(1551)年、景虎に居城・坂戸城を包囲された政景は遂に降伏。これを境に、一次史料に定満の名がぱったり見えなくなる。一説には宇佐美家はこの後没落したという。



定満=定行?

一次史料で確認できる宇佐美定満の足跡はここまでである。

ところが『北越軍記』等の軍記物では宇佐美定行なる武将が上杉謙信の軍師として活躍する話が存在し、後に定行が改名して定満となったという。

定満の事蹟とされる野尻湖(もしくは野尻池)での長尾政景暗殺事件なども、実は一次史料からは確認できない。定満と政景の没した年月日が同じと記述されているのも、『北越軍記』の影響だと思われる。

この『北越軍記』は、誤記が結構ある『甲陽軍艦』以上に誤りが多い史料である。例えば、定行を定満に改名したのが永禄5(1562)年だと記しているが、天文18(1549)年に定満の名が史料で確認できているため、根拠が薄いと言わざるを得ない。さらに長尾晴景は景虎との戦で敗死したと記述されているが、これも晴景の没年が、景虎が家督を継いだ後の天文22(1553)年ということがわかっており、矛盾している。

これらの矛盾点は、記憶違いなどというには辻褄が合わなさすぎて、あまりにも胡散臭い。どうやら問題は『北越軍記』の作者にありそうだ。江戸時代の『榊巷談苑』によれば、『北越軍記』は宇佐美定祐が名を秘して書いた書物であり、何かにつけて定行を褒め称えているという。

この宇佐美定祐を調べると、紀州藩初代藩主・徳川頼宣に仕え、越後流軍学を指南した人物であることがわかった。定祐の父は勝興であるが、この人物は定行の孫にあたる人物であるという。ところが、紀州徳川家に仕官を希望していた勝興の話を聞きつけた上杉景勝が旧臣の末裔を召し抱えたいと思い、謙信の旧臣畠山義春に確認したところ、定満には子がなかったことが判明し、仕官の話が立ち消えになったという話が残されている。

これらの話を全て事実とは思わないが、『北越軍記』の信憑性は甚だ低いと言っても語弊はないであろう。

結論としては、永禄7(1564)年8月21日に長尾政景が野尻湖(もしくは野尻池)で溺死したことは事実だろうと思う。しかし、この事件に宇佐美定満が関与していたという線は極めて薄いだろうと私は考えている。というのも、政景と同船していた国分彦五郎という家臣の母親の後日談が残されているからだ。

どうも引き上げられた政景の遺体の肩下に傷があったらしく、彦五郎もこの一件で命を落としたというのだ。当時、謙信と政景の関係は良好であり、謙信の片腕として活躍していた重要な人物を暗殺する必要性はあまりないだろう。とすると、秘密の軍事作戦の最中に忍びに襲われた等のトラブルが生じたとしか私には思えないのだ。


あとがき

一次史料が極めて少なく、その人物像がはっきりと掴めない武将は多々あれど、宇佐美定満のように、その生涯が大きく盛られてしまうというケースはかなり珍しいであろう。上杉謙信という極めてメジャーな武将と、宇佐美定満という極めてマイナーな武将が同時期に存在したことによる一種のアクシデントであるように思われてならない。

あの世で、定満はさぞかし驚いているだろうなと思う一方で、まんざらでもないとほくそ笑んでいる気がするのは私だけだろうか。


【主な参考文献】
  • 戦国歴史研究会『名将・名軍師立志伝 上杉謙信と宇佐美定満 師獅の機縁 』 PHP研究所 2009年
  • 上越市史編さん委員会編 『上越市史 資料編3 古代・中世』 上越市 2002年
  • 新潟県編 『新潟県史 資料編 3 中世 1 』 新潟県 1982年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディス ...

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