「富田長繁」は越前の狂犬か、名将になり切れなかった男か?
- 2020/06/15
戦国武将のあだ名はあまたあれど、「狂犬」というあだ名が付けられた武将は冨田長繁(とだ ながしげ)くらいのものだろう。越前に所領を持っていた彼は、その戦いぶりから「越前の狂犬」というあまりありがたくない異名を頂戴している。
しかし、その生涯を紐解いてみると、単なる戦キチガイとは言い切れない側面が見て取れるのである。数少ない史料から浮かび上がる人となりとは、いかなるものなのであろうか。
しかし、その生涯を紐解いてみると、単なる戦キチガイとは言い切れない側面が見て取れるのである。数少ない史料から浮かび上がる人となりとは、いかなるものなのであろうか。
長繁は出雲源氏?
冨田長繁は天文21(1551)年越前で生を受ける。冨田氏は出雲源氏の系列であるとされる。とある系図を見ると、佐々木泰清の4男四朗義泰が出雲國意宇郡富田を領して富田氏を名乗ったとある。それから12代後が長繁であるとなっているが、その間に4代にわたって系統が不明な時期があるためか、この系図の正確さが疑われているようだ。
どうやら、天文20(1550)年に南条郡に所領を持っていた冨田吉順がおそらくは長繁の父であろうとされる。
そして、吉順の祖父が名田畠(地主権をもつ田畠)を買い取ったという記述があることから、少なくとも長繁の祖父の代には越前に居住していたのではないかと言われている。
朝倉から織田への寝返り
長繁は当初、朝倉家に仕えていたという。元亀元(1570)年、織田信長の越前侵攻の際に1000騎ほどで出陣したのが初陣とされる。ところが、元亀3(1572)年4月、小谷城で織田軍と朝倉軍が対峙する最中に前波吉継(桂田長俊)と前後して織田に寝返ったと『信長公記』にはある。
同年11月には浅井家家臣浅井井規の攻撃に対して応戦する木下秀吉の援軍として共に応戦し、手柄を立てたという。
天正元(1573)年8月、織田軍の猛攻に朝倉義景は自害に追い込まれ、朝倉家は滅亡する。その後の論功行賞で、桂田長俊が越前守護代に、長繁が越前の府中領主に任ぜられる。
さらにその直後の第二次長島攻めにも参戦し武功を挙げたという。
桂田長俊との不和
共に朝倉に仕えながら、相次いで信長方に寝返った長俊と長繁であったが、その関係は悪化していったようである。どうも、長繁は織田家中での待遇が長俊より劣っていると感じていたらしい。一方の長俊も、「富田や与力の毛屋・増井の知行が過分である」「富田を府中に住まわせることは無益」などと、信長に訴えたというから凄まじい。なぜここまで関係が険悪になったのだろうか。
一向一揆を煽動し越前を手中に
越前守護代である桂田を排除するということは、長繁が越前の支配権を確立するということを意味する。実のところ、長俊はお世辞にも良い領主とは言い難かったという点も長繁に有利に働いたと思われる。事実、長繁に討たれた後『朝倉記』では「神明ノ御罰也」と評されているし、『信長公記』でも「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」とこき下ろされている。
長俊の政は悪政・圧政の類で、民衆からはすこぶる評判が悪かったということである。おそらく、長俊の家格は長繁より、ずっと上だったはずであるが、その無能さに呆れていたのかも知れない。
もっと穿った見方をすると、そもそも朝倉を裏切る算段を練っていたのは長繁だったのを、抜け駆けしたのが長俊だった可能性はないだろうか。ともかく、朝倉に仕えていた時分から2人は険悪な間柄であったようだ。
話を元に戻そう。
長繁が長俊を討つために目を付けたのが「土一揆」であった。土一揆と言うと「百姓の一揆」というイメージが強いが、百姓に加え、地侍や馬借らが連合したゲリラ部隊のような側面もあり、敵に回すと中々に厄介な集団であった。
『越州軍記』によると、長繁は長俊の悪政に不満を持つ人々と密談し、土一揆を煽動するという策を取ったという。
天正2(1574)年1月18日、長繁は土一揆を引き起こした。翌日には一揆勢は3万人を超える大軍勢にまで膨れ上がったという。
この軍勢を大将として率いて一乗谷に侵攻した長繁は長俊を討ち取ることに成功する。一揆勢を調略し、大軍を巧みに指揮した長繁はこのときまだ20歳そこそこの若さであったというから驚く。
勢いづいた長繁は旧朝倉土佐守館をも襲撃しているが、さすがに織田方の代官の居所を襲撃するのはまずいと思ったのか、安居景健、朝倉景胤らの説得を受け入れ攻撃を中止し、木下祐久らの代官を追放するにとどめている。
孤立から奇跡の勝利へ
しかし、この後、長繁はどういう訳か敵対関係にすらない魚住 景固(うおずみ かげかた)を警戒し始める。景固は仁徳の備わった人物で、領民からも慕われていたのであるから、むしろ彼を味方につけるべきところである。
挙句の果てには、景固と次男の彦四郎を朝食に招き謀殺し、その居城である鳥羽野城を攻撃し一族もろとも滅ぼしてしまったのだ。これには領民たちも反発し、旧朝倉家臣たちも警戒して長繁と会うことすら避けるありさまであったと伝わる。
どう考えても合理的でない行動の背景には、「裏切ったものは、また裏切る」という猜疑心があるように思う。
景固は朝倉家家臣であったが、織田信長の越前侵攻に際し、ぎりぎりのところで織田方に寝返っている。さらに、嫡男彦三郎を人質に差し出し、越前領内の道案内まで買って出ることで所領を安堵されているのである。
それは桂田長俊、そして当の長繁自身も同様であった。コントロール不能な猜疑心が長繁を破滅に追いやったというのが私の見立てである。
ともかくも、織田家の支配のいわば空白地帯となっていた越前の実質的な支配者となった長繁は、民衆の支持を得るべく動き始める。
『慧眼寺文書』によれば、国中に屋銭を課すことを禁じ、土民直訴を許可するなど、領民を懐柔する手に出る。これ自体は効果があったと思われる。
この辺りを見ると、長繁は決して政治能力がない訳ではなかったようだ。ところが人身掌握がしっかりとなされないうちに不穏な風聞が立ち始める。
『越州軍記』によると、長繁は信長に謝罪し、越前守護に任ずる旨の朱印を頂き、弟を人質に差し出すつもりであったとある。この一件で、一揆衆は完全に長繁と袂を分かつこととなり、新たな大将に加賀一向宗の七里 頼周(しちり よりちか)を担ぎ上げてしまう。
こうして、長繁討伐のために決起した一揆勢は総勢なんと14万であったと伝わる。
2月13日には家臣の毛屋猪介、増井甚内助が相次いで討たれ、翌実には長繁のいる府中にも軍勢が押し寄せようとしていた。窮地に立たされた長繁は何と、突撃を命令する。
2月16日早朝、長繁はわずか700人余りの兵を率い、府中にほど近い日野川の対岸に布陣する一揆勢に乾坤一擲の攻撃を仕掛けたのである。
おそらく、一揆勢はこの攻撃を全く予測していなかったであろう。相手の鬼気迫る攻撃に一揆勢は潰走し、長繁軍は2000人~3000人もの首を討ち取ったとされる。
これに勢いを得た長繁は、「永代3,000石」の恩賞を約束し、本願寺と敵対する真宗山門徒派や府中の町衆を瞬く間に懐柔してしまう。700人程度であった軍勢は約7000人にまで膨れ上がったのである。
2月17日、長繁は府中を出陣。浅水まで北上し、南下してきた七里頼周軍と激突した。その数は数万と伝わる。しかし、勢いに乗った長繁軍の猛攻に、七里頼周軍は敗走してしまう。
このあたり、軍神と称えられた上杉謙信を髣髴とさせる戦いぶりである。ここで一旦兵を休め、奇跡の勝利を喧伝しつつ兵を集めたならば、歴史は変わっていたかも知れない。
ところが、長繁は兵の疲労など眼中にないかのような行動にでる。17日の夕刻、この合戦で旗色を鮮明にしなかった安居景健、朝倉景胤の砦に攻撃を仕掛けたのだ。さすがにこれは攻め切れずに兵を退いたという。
あっけない死
いくらなんでも、ここで兵を休ませ体勢を整えるかと思いきや、翌日早朝、またもや砦に突撃を下知する。さすがに、これには配下の武将も我慢ならなかったようだ。
突撃戦の最中、長繁は味方の武将小林吉隆の裏切りにあう。背後から鉄砲で撃たれ、無念の死を遂げることとなったのである。享年24であった。
あとがき
何の世界においても、「惜しい人物」というのがいるものである。長繁はまさに典型的な「惜しい人物」といってよいであろう。『越州軍記』にも、「樊噲が勇にも過たり」との評がある一方で、「武を隠して人心を捉えるべきであった」と人心掌握のまずさを指摘する評も添えられている。
樊噲とは漢王朝の始祖劉邦に仕えた勇猛で名高い武将であるが、これほどの武将に優るとも劣らない評価が与えられているのは驚きである。
能力値の過度なアンバランスは破滅を招くというのが、歴史の必然なのだろうか。ふと、「武を隠して~」のくだりを「知を隠して~」に変えると、石田三成の人物評だなと思った次第である。
【参考文献】
- 太田牛一 中川太古『現代語訳 信長公記』(中経出版、2013年)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)
- 藤居 正規『朝倉始末記』(勉誠社、1994年)
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