時期 | 天正3年(1575年)8月 |
勢力 | 織田信長 vs 本願寺勢力 |
場所 | 越前国(現在の福井県の大半、および岐阜県北西部) |
天正元年(1573年)、織田信長はかつて越前国を支配していた朝倉当主・朝倉義景を討ち、同国を領有した。この越前攻めの過程において多くの朝倉家臣が降伏して信長に許されたが、信長は彼らに本領を安堵するなど、越前の新たな支配体制を朝倉旧臣に委ねることに。その中でも、前年に織田方に降っており、越前攻めのときに案内役として功績のあった前波吉継が越前守護に命じられている。
このように、越前支配は最初から朝倉旧臣らや一向一揆衆を統制するという大きな問題があったのである。なお、信長が生え抜きの直臣ではなく、わざわざ朝倉旧臣に任せたのは、越前の一向衆門徒を刺激しないようにするためだったという見方もあるようだ。
こうした状況もあり、やがて越前国で朝倉旧臣同士での対立が起きることになる。
越前攻めの後、朝倉家の有力旧臣らがこぞって信長に帰順したため、彼らが所領を安堵されたことは先に述べた。 しかし、その旧臣の一人・富田長繁は、越前守護に抜擢された前波吉継に対して、自分との待遇の差に不満をもっていたらしい。
そして天正2年正月(1574年)、ついに富田が一向衆を扇動して前波を殺害してしまうことに。 なお、一向衆が富田に協力したのは、前波が暴政を行っていたことで武家支配を排除しようという願望があったということのようだ。
しかし、その後の富田は朝倉旧臣中でも孤立するハメとなり、一向衆とも手切れとなった。新たな指導者を求める一向衆。この混乱に乗じたのが本願寺顕如である。彼は加賀から坊官の七里頼周を派遣して富田を殺害させ、さらに敵対する朝倉景鏡や平泉寺(=福井県勝山市)なども滅ぼした。この後、本願寺から下間頼照が派遣されて越前守護として支配権が与えられ、七里らはその指揮下に置かれることになった。つまり、越前国は一揆持ちの国と化し、本願寺勢力が掌握することになったのである。
一方、信長はこの越前の混乱においても特に対処した形跡がみられない。この年は東の武田勝頼の対処や同年7月からの長島一向一揆殲滅戦もあったため、越前国への対処は後回しにされたのだ。
一揆持ちの国となり、織田家の支配が及ばなくなった越前だが、今度は越前守護となった下間頼照や下間頼俊らが一揆衆の分裂を招いた。一向衆門徒らは越前守護が代わってもなんら武家支配のときと変わらない状況に不満が噴出したのである。
この内部対立は7月頃より国内各地で争いに発展していったといい、一方でこれを見た信長は、のちの越前攻めを見据えて朝倉旧臣や反本願寺勢力に味方するように事前準備をすすめていった。
信長は天正3年5月(1575年)には、徳川方の支城・三河国の長篠城を救援するために援軍に駆けつけ、武田軍に大打撃を与えて東方の脅威を断った。そして8月。本願寺勢力以外の多くの者を味方につけるなど、再度の越前攻めに備えていた信長がいよいよ動き出す。
8月12日、信長は岐阜を出陣して垂井に、翌13日には羽柴秀吉のいる近江小谷城に入って、そこで兵士に兵糧が与えられ、14日には敦賀に着陣した。翌15日には3万余もの先陣が敦賀を発し、いよいよ攻撃が開始される。
織田軍の兵力は、先陣が3万余、信長本陣が1万余といわれ、その他の別働隊や海上からの水軍も併せて5万以上とみられ、織田家の大半の部将が動員。
先陣のメンバーは柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・簗田広正・長岡藤孝・塙直政・蜂屋頼隆・荒木村重、その他にも美濃三人衆、織田信雄・信孝・信澄・信包といった織田家の一族衆などである。
一方の一向一揆勢は、主力の越前一揆衆に加え、加賀や西国から派遣された一揆衆、さらにわずかに残された朝倉旧臣らが連携。 その布陣は、『信長公記』にある記述をまとめると概ね以下のようになる。
織田の先陣が敦賀湾沿いに進軍していくと、まずは堀江景忠を調略して杉津砦を難なく攻略、続いて河野丸砦を襲撃してあっという間にこれを陥落させた。
次に織田の先陣は、海上部隊とともに大良城・河野城を攻撃。ここには先の戦いで敗れた若林長門や円光寺勢力らが逃れていたが、明智光秀と羽柴秀吉の部隊が2~3百人を討ち取ったという活躍により、両城とも陥落となった。さらに織田軍は三宅権丞が守る府中竜門寺まで進み、同日の夜にはこれを落城して付近に火を放っている。
そして、ここから織田軍の大虐殺がはじまることになる。
翌16日、信長本陣が敦賀を出発し、木ノ芽峠に向かった。一方で木ノ芽峠・鉢伏城・今庄城・燧城に布陣していた本願寺勢は既に戦意を失い、城や砦を捨てて府中へ退却。しかし、その府中は既に占領していた羽柴・明智隊が待ちかまえていた。
このとき、府中では羽柴・明智勢によって千五百人ほどが首を斬られ、近辺も合わせると二千余りの死者だったという。信長はこの有様をみて「府中の町は死骸ばかりだ」と京都にいた家臣の村井貞勝に告げているほどである。
なお、この頃、一揆勢に加担した朝倉景健が山林に隠れていた下間頼照・下間頼俊・専修寺の首を取り、手みやげとして信長に赦免を願い出てきたが、信長はこれを許さずに景健を殺害している。
一揆勢は混乱して山々に逃げ込んだようだが、信長は「敵を追撃して山林を捜し、男女の区別なく切り捨てよ」と命じているように、信長の執拗な残党狩りが繰り広げられた。
17日には2千余の首が本陣に到来し、18日にも5~6百ずつあちこちから持ち込まれたという。また、『信長公記』では、19日までに生け捕った者だけで1万2千2百5十人を数えたといい、彼らは皆、信長の小姓衆に首を斬られた。しかも斬首した者も合わせると3~4万人が殺されたという。
こうして信長は府中に留まって残党狩りを行ない、23日に一乗谷に陣を移した。
信長は越前の支配体制の整備と安定のため、しばらく越前に滞在。すぐに羽柴・明智・稲葉一鉄らを加賀国に攻め込ませており、 自らは28日に豊原(=福井県坂井市)まで陣を進めた。まもなくして加賀の南二郡(能美・江沼)が平定すると、9月2日には北庄(=福井県福井市)に赴いて、越前の新たな拠点として北庄城の築城を命じている。
そしてまもなく、柴田勝家を北陸方面軍の指揮官に任命、与力として佐々成政・前田利家・不破光治の3人を付け、新たな越前の支配体制を整えたのであった。