『惟任退治記』 秀吉側から描かれた「本能寺の変 ~ 山崎の戦い」をみてみる

本能寺の変から山崎の戦いまでの流れを知る史料に、『惟任退治記』という書物があります。タイトルからわかるように、秀吉が光秀(「惟任」の姓を賜っていたので)を討伐するストーリーです。

この『惟任退治記』は本能寺の変からわずか数か月ののち、天正10年(1582年)10月に書かれたもので、創作性はあるとはいえ、一連の歴史の流れを知る上では重要な資料といえるでしょう。

『惟任退治記』とは何か

これひとつの作品ではなく、『天正記』という秀吉の活躍を讃える書物のうちの一篇です。天正8(1580)年から同18(1590)年までのおよそ10年間の事績が記されています。

作者

書いたのは、秀吉の御伽衆(= 将軍や大名のそば近くに仕えて雑談をしたり書物について語ったりする人)のひとりであった大村由己(おおむらゆうこ)です。

学者であり著述家。『天正記』のほか、光秀に関わるものでは『明智討』という演目の作成にも携わっています。秀吉の側近に侍り、見聞きしたことを脚色を交えて書物にする。秀吉の秀吉による歴史書づくりに大きく関わった人物でした。

立ち位置

惟任(光秀)を「退治」した記録。物騒なタイトルから類推するに、光秀を悪しざまにののしるような内容に違いない、と思うのではないでしょうか。秀吉側の人間が書いたものだし、きっとそうだろうと思う。読む前に大体の人はそう感じると思います。

ですが、『惟任退治記』はタイトルに反して、「反光秀」の態度は露骨ではない。というか、そういう姿勢で書かれていないといってもいいかもしれません。あえてそういう書き方をしたのかはわかりませんが、意外なほどに「光秀憎し」の感情が見えない文章なのです。

以下、だいたいの内容と光秀側の描かれ方を見ていきましょう。

『惟任退治記』のストーリーは?

信長を讃える文章から始まる

『惟任退治記』の本文冒頭を少し引用してみます。

「未熟観世間之榮衰。南山春花逆風散之。(中略)抑贈大相國平朝臣信長公。棟梁于天下。……(後略)」
『惟任退治記』より

長いので割愛しますが、まず栄枯盛衰の話から始まります。

『平家物語』なんかもそうですが、滅びゆく人の話なので、つかの間の栄華の儚さを例えることからスタートするのはお決まりのスタイルです。

そのあとに続くのが、「大相国を贈られた平朝臣信長公(※)は、長い間天下の棟梁としてこの国を主導してきた」という文章。

※信長は死後に従一位・太政大臣の職を贈られています


ここからさらに安土城のすばらしさが語られ、「日中は政にいそしみ、夜は奥の三千人の美女の寵愛をほしいままにしていた(三千人は相当な誇張……)」と語られます。

こういった書物でよくあるのが、唐代の皇帝を引き合いに出す手法。安土城が豪華なことを語るのに、唐の驪山宮(りざんきゅう/玄宗皇帝の離宮)を引き合いに出し、「唐の皇帝の離宮だって安土城には及ばない」と語られるのです。

これでは秀吉の事績を讃える書物というより、信長を讃える書物といったほうがいいのでは?と思うほど。

本能寺の前段から信長の葬儀までを描く

というのも、信長を讃えることに始まった『惟任退治記』は、信長の葬儀で終わります。

信長のすばらしさ、そこから武田勝頼との戦い、そのあとようやく秀吉の中国出陣と備中高松城の水攻めのエピソードをはさみ、本題の光秀謀反が語られます。

秀吉の敵討ちを手放しに称賛するようなところもなく、極めて冷静に、第三者として本能寺の変からその後の出来事までを見つめ、綴っているのが印象的です。

光秀謀反の動機はどう描かれているか?

現代において、光秀が謀反を起こした理由は怨恨説、野望説、多数の黒幕説などさまざまな説があります。

中でもドラマなどでよく採用されてきたのが怨恨説。この怨恨説が信じられるようになった本家本元が、おそらく『惟任退治記』でした。

光秀謀反のくだりで、本文ではこのように書かれています。

「惟任奉公儀。揃二萬餘騎之人數。不下備中。而密工謀反。併非當座之存念。年來逆意。所識察也」
『惟任退治記』より

意味としては、惟任光秀は信長の命令によって二万余騎の兵をそろえて中国攻めに向かうはずだったが、坂本城を出てまっすぐ備中へは向かわず、引き返して密かに謀反の計画を立てた。これは突発的な思い付きなどではなく、信長に仕える中で年来積もり積もっていた逆意があり、光秀は今こそ謀反を起こす時だと思い行動に移したのだ──

という内容です。つまり、大村由己は「光秀はもともと信長に対して謀反を起こそうという気持ちがあったのだ」と断言しているのです。

光秀と話をしたこともなさそうなのに、その場にいたわけでもないのにどうしてこの人にそんなことがわかるのかは不明です。きっと秀吉としてはそういうことにしておきたかったのでしょう。この点に関しては、秀吉の意向が反映されていると思われます。


「愛宕百韻」の解釈

光秀が本能寺の変を前にして謀反の決意表明をしたといわれる「愛宕百韻」。中国への出陣を命じられた光秀が、坂本城を出てから一度愛宕山に参詣し、そこで連歌会をした際に詠まれた連歌です。

愛宕山の山頂に鎮座する愛宕神社(京都)の鳥居
愛宕山の山頂に鎮座する愛宕神社(京都)の鳥居

「ときは今 あめが下な(し)る五月哉」という発句(いちばんはじめの句)が光秀の詠んだ句。「あめが下なる」と「あめが下しる」の二通りがあるためカッコ付きで紹介していますが、『惟任退治記』では「あめが下しる」と書かれています。

本文は以下。

「時ハ今天下シル五月哉」
『惟任退治記』より

この句は「時」と「土岐(光秀の出自である美濃守護土岐氏を指す)」をかけており、さらにこの句を詠んだときにあめが降っていたこともあってか、「雨」と「天」をかけています。

「あめが下なる」であれば、単純にそのまま読むなら「時は今、雨の下にある五月かな」となりますね。五月なので、五月雨を詠んだ句となります。そこに掛詞の解釈を加えれば「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある五月だ」となります。

本来光秀が詠んだのは「あめが下なる」のほうだという説(明智憲三郎氏など)もあり、その場合はこの句に光秀の逆意などは見えません。

ところが『惟任退治記』は「あめが下しる」と書いている。しかも、「あめがした」を「天下」と表記しているのです。つまり、これを以って「ほらみろ、光秀は本能寺の変の直前に謀反を決意する句を詠んでるよ!」と逆意があった証拠としているというわけです。

この点、太田牛一の『信長公記』も同じで、光秀が愛宕山に参詣して「ときは今あめが下知る五月かな」と詠んだと書いています。『信長公記』はこの時代の歴史を書き記した第一級史料とされているので、これを事実だと見る人は多いでしょう。

実のところ、先に書かれたのは『惟任退治記』のほうなので、光秀に信長を恨む心があったことにしたかったのは『惟任退治記』が最初だと考えられます。

どちらにも寄り添い過ぎない

本能寺の変の動機に関しては作為的なものがあったように思われる『惟任退治記』ですが、大筋では秀吉側に寄りすぎることはなく、光秀側の最期もていねいに描写しているのが特徴です。そこは公平な読み物として評価していいところだと感じます。

光秀の最期

光秀の最期については、詳しく書かれません。光秀派が山崎の戦いで敗走するなか、山中で落ち武者狩りに遭って亡くなったといわれており、武士たちは誰も最期のときを知らないからでしょう。

「勝龍寺圍蹈虎尾出之。城内聞惟任落。我先崩出。或寄合外廳。或行當待伏。過半不遁者也」
『惟任退治記』より

光秀は勝龍寺を囲む秀吉軍の隙をついて逃れるという危険を冒して城から脱出しました。そのことが噂になり、誰もが我先にと崩れるように飛び出した。それらの兵たちは城を包囲していた秀吉軍に捕らえられ、半分は落ちのびることもできなかった──

とあります。生きている光秀が登場するのはここまで。このあと、光秀は各地で打ち取られた多数の首の中から発見されます。

光秀無念の最期は書かれず、検視していた首のなかから光秀の顔を見つけた秀吉が「やっと本望をとげた」と喜ぶ場面で死んでいたことがわかるのでした。

明智秀満の最期

一方、光秀の家臣たちの最期はどうか。坂本城に火を放って自害した明智秀満(弥平次)については割と詳しく書かれています。

といっても、坂本城に入る際に包囲されて馬のまま琵琶湖を走って言ったという眉唾物の逸話はありません。至って現実的に、淡々と展開します。

「明智彌平次聞届此由。惟任一類。其身眷屬。悉差殺。殿守懸火。成自害。敵味方共所相感也」
『惟任退治記』より

秀満は光秀の敗死の知らせを聞くと、光秀の妻子、そして自身の配下の者をことごとく刺し殺し、坂本城の天守に火をかけて自害した。敵味方にかかわらず、この秀満の行動は見事であると感じた──

「敵味方共所相感也」という部分。敵であっても、取り乱すことなく始末をし、見事な最期を遂げた秀満を讃える言葉です。


斎藤利三の最期

光秀の重臣、斎藤利三の最期も取り上げています。利三は光秀が討ち取られたことをしばらく知らず、堅田に潜んでいたところを捕らえられ、市中引き回しのうえ磔刑に処せられました。この利三という人について、このように語ります。

「惜哉。利三平生所嗜。非啻武藝。外專五常會朋友。内翫花月。學詩歌。今何爲逢此難。遺恨尤深。或人述曰。異國之公冶長。雖在纝紲之中非其罪。本朝曾我五郎時宗。懸繩雪會稽耻。汝亦非其謂哉」
『惟任退治記』より

まず、「惜しいかな」と利三の死を惜しむ言葉から始まるのが興味深いですね。その内容は、こうです。

利三はふだんから武芸ばかりやっていたわけではなく、外に出れば「五常」つまり儒教の五徳である仁・義・礼・智・信を以って友人たちと親しく交わっていた。また内では花鳥風月を愛でて詩歌を学ぶような文化人だった(このことは、光秀とともに連歌会に参加した記録からもうかがえます)。

そんな利三がなぜこのような最期を迎えなければならないのか。それがただただ残念だ……。

ある人は利三にこう言った。「異国の公冶長は縄にかけられこそすれ、罪をこうむったわけではなかった。この国の曽我五郎時宗は縄にかかり捕らえられることで心情を吐露して恥辱を晴らした。あなたも彼らと同じではないのか」 ──

教養深く風流を愛した利三に寄り添う文章ですよね。ただただこの人の命が奪われることを惜しんでいるようです。わかりにくいですが、公冶長や曽我五郎時宗のたとえはざっくり言えば「利三に処刑されるほどの罪があるのか」という意味。

『惟任退治記』は光秀のことは信長への恨みで謀反を起こした逆臣と見ていますが、その家臣らに向ける目は意外と同情的です。


光秀の死は天罰か

このあとに、信長追善の連歌が続きます。そこで、光秀の最期についてはこのように締めくくられています。

「惟任者數年以將軍御厚恩立其身。屢誇榮花。恣極樂游之條。彌可願長久之處。何乎無故奉討相公事豈無天罰哉。六月二日奉害之。同十三日被刎汝首者」
『惟任退治記』より

光秀は長く信長の厚恩をこうむって立身し、栄華を誇って極楽の日々を過ごしていた。だから信長の時代が長く続くよう願うべきところを、なぜか信長を討ち取ってしまった。それで天罰が下らないはずがない。六月十三日に首をはねられてしまったのはその報いなのだ──

秀吉が討ち取っておいて「天罰だ」と断言するのはどうかと思いますが、それはそれ。謀反人は討たれるというのはもうお約束のようなもので、歴史をみてもその後うまくいくことはなかなかありません。そういうわけで、光秀の死に関しては「因果応報」的な見方をする書物が多いです。

『惟任退治記』もあまり強く「因果応報」を前面に出してはいないものの、その考え方に立っているようです。



【参考文献】
  • 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
  • 洋泉社編集部編『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(洋泉社、2016年)
  • 『歴史読本』編集部編『ここまでわかった!明智光秀の謎』(株式会社KADOKAWA、2014年)
  • 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(株式会社KADOKAWA、2013年)
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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