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「山崎の戦い(1582年)」明智光秀と羽柴秀吉の運命を決めた天下分け目の戦い

  • 豊臣秀吉
  • 明智光秀
 2020/05/27
山崎合戦古戦場跡
山崎合戦古戦場跡

山崎の戦いは、現在の大阪府を舞台として羽柴秀吉が信長の弔い合戦として明智光秀を討伐した合戦です。

本能寺の変で信長を討ち果たした光秀でしたが、「三日天下」という言葉に象徴されるように、彼の天下はたった12日間と短いものでした。

なぜ光秀はあっという間に討たれてしまったのでしょうか。今回は光秀側の視点からこの戦いの経緯を見ていきましょう。
(文=東 滋実)

光秀を「三日天下」にした山崎の戦い

秀吉が光秀を破った「山崎の戦い」の舞台となったのが天王山の麓であり、この戦は「天王山の戦い」とも呼ばれます。

現代では運命の分かれ目や正念場などを「天下分け目」という意味で「天王山」と言ったりしますが、山崎の戦いはこのほかにも故事をもとにした言葉・ことわざが生れています。それだけ人々の興味を引く戦いであったということでしょう。

なぜ光秀は秀吉に敗れてしまったのか。準備不足と、誤算がいくつも重なってしまったのが敗因と思われます。

本能寺の変後の光秀の行動

天正10(1582)年の6月2日、夜が明けるか明けないかという午前4時に本能寺を攻撃し、信長を討った光秀は、別に信長を殺した喜びに舞い上がって呑気にはしゃいでいた、なんてことはありません。

彼なりに、先々起こるであろう戦いに向けて準備を進めていました。当日中に織田方の落ち武者狩りを命じ、徹底的に探し回ったようです。

各地の有力大名に協力要請

光秀は当然、信長の弔い合戦が起こることを想定していました。

信長の主要な家臣たちは各地へ散らばっていましたが、信長が討たれたとの知らせは数日中に日本中に広まったため、すぐに戻ってくるはず。光秀がもっとも警戒していたのは上杉を攻めていた柴田勝家のようです。

柴田勝家とお市のイラスト
信長の死を知っても上杉軍の追撃の心配もあり、すぐ明智討伐に向かえなかった柴田勝家。

その対策として、光秀は明智方として戦ってくれる協力者を募りました。

対象となったのは、信長と敵対関係にあった上杉、毛利、北条、長宗我部などです。信長を討ったことと、自分と同盟を結んでほしい旨をしたためて送りました。

朝廷への根回しと京都市民の人気取り

6月2日中に安土入りしようとした光秀ですが、瀬田城主・山岡景隆が瀬田橋を焼き落としたため、すぐに入ることはできませんでした。

5日になって橋が再建され、光秀は安土城へ入りました。

7日には、正親町天皇の皇太子・誠仁親王の使者として吉田兼見と面会しています。兼見は光秀の友人であり、朝廷への根回しに協力したのです。

兼見は親王に「今後の京都治安維持は光秀に一任する」との命を受けました。実質的に「信長の後継者」として認められたようなもので、朝廷に認められた光秀は一安心したことでしょう。

朝廷に約束を取り付けたところで、光秀は京都の人々を味方に付けることも忘れませんでした。協力してくれた兼見には銀子50枚、また禁中には銀子100枚、京都の寺社にも銀子を贈りました。

ちなみに、この銀子は安土城に蓄えらえていた信長のものだったとか。京都市民に対しては、地子(じし/宅地税)を免じるという大盤振る舞いで、人気をとろうとしたわけです。

光秀の大誤算

朝廷に自身を認めさせるところまでは良かったのですが、ここからは思わぬ誤算が重なります。

秀吉の帰還が想定外の速さだった

秀吉は当時、毛利攻めに苦戦しており、信長に援軍を要請するほどでした。そのため光秀も彼がすぐ戻ってくるとは想像もしていなかったのかもしれません。が、秀吉は備中高松から摂津富田までわずか5~6日間で戻ってきてしまうのです。

いわゆる「中国大返し」です。

秀吉による中国大返しの行程
秀吉による中国大返しの行程

一方、畿内には四国攻めの出陣の準備を進めていた信長の三男・信孝と、家臣の丹羽長秀がいました。

彼らは光秀に対してすぐに行動を起こせる場所にいたにもかかわらず、秀吉が戻ってくるまでなにもできずにいました。やったことといえば、信長の甥で光秀の娘婿である津田信澄を殺害したことくらいでしょう。

秀吉よりも先に光秀討伐を指揮する者がいなかったことが、光秀討伐後に秀吉がリーダーとして優位に立った要因のひとつです。

細川親子・筒井順慶が味方につかず

光秀は安土方面の近江平定、京都への根回しは急いで進めましたが、大和、摂津、丹後方面は後回しにした感があります。

もちろん忘れていたわけではないでしょう。丹後の細川親子、大和の筒井順慶、摂津の高山右近と中川清秀は、光秀の与力でした。

光秀は信長家臣団において自身の配下にある彼らを、「いざというときは自分に味方してくれる」人たちだと考えていたのでしょう。

特に細川藤孝や筒井順慶は好んだ趣味も同じで、友人関係にもありました。困ったときは絶対に味方になってくれるとあてにしていたはずです。

ところがどっこい、何度書状を送っても返事はありません。

9日にダメ押しの一通を送り、「自分が謀反を起こしたのは忠興と自分の子に天下を譲るためだ。落ち着いたら自分は隠居するつもりでいる。本人が来るのが無理なら家臣を派遣するのでもいいから」と、「一生のお願い」とばかりに援軍を送ってほしいと頼み込むのですが、細川藤孝は信長への弔意を表して剃髪し出家。忠興も拒みました。

また、筒井順慶もなかなか動きません。一度は光秀の求めに応じたのですが、秀吉の動きを知って立場を変えます。

9日には大和郡山城に引っ込み、籠城してしまいました。10日には光秀自身が洞ヶ峠に出陣して参陣を促しますが、結局順慶は出てきませんでした。

このことから、「洞ヶ峠を決め込む」という、順慶の日和見な態度を意味する不名誉な成句が誕生しています。

信長の首を回収できなかったこと

もとはといえば、信長の首を回収することができなかったのが誤算の始まりかもしれません。

首を回収して六条河原あたりに晒していれば、確実に信長を討ったことを世に知らしめることができたはずです。しかし回収できなかったことで情報は錯そうし、「信長は生きている」という情報も飛び交ったので混乱を招きました。

秀吉も「信長は生きている」という嘘の情報を流して味方を鼓舞し、動揺を緩和させたのです。そのおかげか、光秀の与力である中川清秀や高山右近は12日に秀吉の軍と合流しています。

山崎の戦い(6月13日)

前日の12日に羽柴軍へ加わった高山右近・中川清秀の軍が、この日から明智軍と小競り合いを始めていましたが、天王山で運命を決める戦いが起こったのは翌13日でした。

◆ 明智軍 1万3千~1万6千程度

  • 明智光秀
  • 藤田伝五
  • 斎藤利三
  • 並河易家
  • 阿閉貞征

など…

VS

◆ 羽柴勢 4万程度

  • 羽柴秀吉
  • 羽柴秀長
  • 黒田官兵衛
  • 丹羽長秀
  • 織田信孝
  • 高山右近
  • 中川清秀

など…

上記のように両者の戦力は、倍以上もの戦力差があったことがわかります。

もっとも、『川角太閤記』は明智軍を16000としていますが、光秀家臣は安土や坂本などを守備するものもいたはずなので、実際はもっと少なかったのかもしれません。10000くらいでしょうか。

『兼見卿記』によれば、戦いは申の刻(午後4時ごろ)に始まりました。

先に動いたのは明智軍の先鋒で、並河易家(なみかわやすいえ)・松田左近らでした。羽柴軍の中川清秀・黒田官兵衛らの隊に攻撃をしかけます。

これは天王山を奪還するための行動でしたが、明智軍にとってマイナスに働きます。反撃に出た中川・黒田・神子田軍が並河・松田の隊を押し戻し、その勢いで明智軍の主力である斎藤利三を討ったのです。

もともと数で劣り苦戦していた明智軍は、主力の利三を失ったことで崩れてしまいます。光秀は勝龍寺城まで退却しました。『多聞院日記』によれば、この戦いで明智軍は数千もの兵が討死したとされています。

山崎の戦いマップ。色塗部分は山城国

光秀は逃亡中に死亡

勝龍寺城は、籠城に耐えられるほどの大きな城ではありません。光秀は脱出して坂本へ戻り、再起を図ろうとしました。

ところが、夜の闇に紛れて逃れる途上で、落ち武者狩りの土民に竹槍で襲われて重傷を負い、ひっそりと死を迎えました。本能寺で信長を討った6月2日から、12日の短い天下でした。

その後、光秀の死を知った明智秀満は坂本城に戻って光秀の妻子を殺害し、城に火を放って自害。明智氏は滅びました。

信長の仇を討って勝者となった秀吉。信長の家臣には柴田勝家など、秀吉よりも古参の重鎮がいましたが、山崎の戦いの功で強力なカードを得た秀吉は、清須会議を経て天下人への道を進んでいくことになります。


【参考文献】
  • 小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館、2006年)
  • 小和田哲男監修『週刊ビジュアル日本の合戦No.4羽柴秀吉と山崎の戦い』(講談社、2005年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)


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