本能寺の変「怨恨説」~ 信長に対する不満・恨みが引き金だった!?
- 2019/08/14
信長に対する恨み辛みが本能寺の変の原因とする「怨恨説」は、江戸時代にすでに存在していた最も古い説である。明治時代まではこの怨恨説が主流であり、その後の小説やドラマに与えた影響は計り知れない。
かつて怨恨説が主流であったのには訳があった。それは何次史料であるかを問わずに調べてみると、多くの史料に同様の記述が見られるからである。ざっと挙げてみるだけでも、『川角太閤記』『東照軍鑑』『明智軍記』『豊鑑』『常山紀談』『柏崎物語』『祖父物語』『義残後覚』『続武者物語』など…。
ところが、これらの史料には一次史料でないばかりか、「読み物」的要素の強いものまで含まれている。これらを区別せずに研究対象とすれば、なるほど。。「怨恨説」が主流となるわけである。ただ、一次史料でないからといって、第一級史料でないとは限らないことは、『甲陽軍鑑』の例を見れば明らかであろう。今回はそのような視点から「怨恨説」の解説を試みた。
かつて怨恨説が主流であったのには訳があった。それは何次史料であるかを問わずに調べてみると、多くの史料に同様の記述が見られるからである。ざっと挙げてみるだけでも、『川角太閤記』『東照軍鑑』『明智軍記』『豊鑑』『常山紀談』『柏崎物語』『祖父物語』『義残後覚』『続武者物語』など…。
ところが、これらの史料には一次史料でないばかりか、「読み物」的要素の強いものまで含まれている。これらを区別せずに研究対象とすれば、なるほど。。「怨恨説」が主流となるわけである。ただ、一次史料でないからといって、第一級史料でないとは限らないことは、『甲陽軍鑑』の例を見れば明らかであろう。今回はそのような視点から「怨恨説」の解説を試みた。
侮辱を受けた恨みが原因か
光秀が信長から侮辱を受けたという逸話は多数残されている。その1つが「諏訪で御折檻」である。この記述が見られるのは『川角太閤記』、『祖父物語』であるが、『祖父物語』にはこうある「信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可レ被レ置ト。其席ニ而明智申ケルハ。扨(さて)モ箇様成目出度事不二御座(おわし)マサ一。我等モ年来骨折タル故。諏訪郡ノ内皆御人敷也。何レモ御覧セヨト申ケルハ。信長御気色替リ。汝ハ何方ニテ骨折武邊ヲ仕ケルヲ。我社(こそ)日頃粉骨ヲ盡(つく)シタル悪キ奴ナリトテ。懸造リノ欄干ニ明智ガ頭ヲ押附テ扣(たた)キ給ウ。其時明智諸人中ニテ耻ヲカキタリ。無念千万ト存詰タル気色顕レタル由傳タリ。」
天正10(1582)年3月に武田征伐(甲州征伐)が終わり、信濃国の諏訪にて「我らも苦労した甲斐があった」という光秀に対して、信長が「お前は何の功があったというのか」と激怒し…という場面である。
この場面はドラマなどでも使われることが割と多かったために、ご記憶の方も多いだろう。
明智光秀研究の第一人者として知られる高柳氏は著書の中で、「『川角太閤記』という本は、誤りも多いけれども肝要なことはよく捉えており、珍重すべきところも多い」と述べている。
『川角太閤記』の光秀に関する話は主に、家臣であった山崎長門守の述懐に基づいていると思われる。高柳氏はその点を重要視したのかもしれない。やはり、二次史料だからといって、第一級の史料でないとは限らないのである。
しかし、侮辱を受けたことは事実だとしても、それが謀反の原因だとまでは言い切れないことには注意したい。もしかすると、甲州征伐の時点で、信長と光秀の間に何らかの軋轢が生じていて、「諏訪で御折檻」も本能寺の変も単に、その延長上の出来事であったのかもしれない。
軋轢を示唆する史料
『別本川角太閤記』6月2日小早川隆景宛光秀書状にはこうある。「光秀こと、近年信長に対し、憤りを抱き、遺恨もだしがたく候」
そのため、信長を討ったというのである。これが本当なら光秀と信長の間に何らかのトラブルが生じていたことになるが、歴史学者の小和田哲男氏は偽文書であると判断している。
また、イエズス会宣教師・ルイスフロイスの著書である『日本史』にも両者の軋轢をにおわせる記述が見られる。
「変の数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」
というものである。
ちなみに、この話は織田家中の誰かからの又聞きである。光秀自身が謀反の大義名分作りのために流布した可能性すら否定できないが、そうであったとしても、何らかのわだかまりが生じていた可能性はある。
母親見殺しへの恨みか
天正7(1579)年の八上城攻略の際に、自分の母親を人質として波多野秀治兄弟を投降させ、信長の許しを得ようとしたがうまくゆかず、波多野兄弟は磔となってしまったために、八上城側でも光秀の母親を磔にしたという話が『総見記』にある。だが、一次史料にして第一級の史料でもある『信長公記』には、そのような記述は全くない。同書によると、光秀は八上城を1年間包囲し兵糧攻めにして、結果的には波多野3兄弟を捕縛した、とあるが、その後磔にされたという母親の話は全く出て来ない。
さらに、近年の研究では八上城攻めのかなり前に亡くなっていたという記録があることから「母親見殺し」の話は後の創作ではないかとされているようである。ちなみに冒頭のアイキャッチ画像はこの説をイメージしたもの。
怨恨を抱いた原因が「母親見殺し」であるという線はかなり薄いと言えよう。
国替えによる恨みは本当か
『明智軍記』によると、光秀が中国に向けて出陣する直前に、信長の使者として青山与三が遣わされて、「出雲・石見は切り取り次第領地にしてよいが、その際、近江坂本・丹波は召し上げる。」と命じたという。『明智軍記』は二次史料で、しかも誤記が多いことから、その信憑性は低いと言われている。そして、小和田哲男氏の著書『明智光秀と本能寺の変』によれば、まだ平定されてない所を「空手形」のように与えられて、腕ずくで自分のものにしていくという所領の与え方もあったのだという。
したがって、この処遇によって光秀が恨みを抱いた可能性は低いであろう。どちらかというと、小和田氏も指摘しているように畿内管領としての役職を外されて畿内から遠ざけられることに不満を覚えた可能性は高いと思われる。
光秀は左遷を意識したのであろうか。それとも畿内にこだわる「何か」があったのだろうか。
将来に対する不安から恨みが生じた?
「不安説」は左遷を意識した光秀が自身はもとより、一族の将来に不安を覚えて、保身のため謀反に及んだというものである。この説は、そもそもは『日本外史』を著した江戸時代後期の歴史家・漢詩人である頼山陽が唱えた説である。織田家の出世頭であり、近畿管領としての役職にまで上り詰めた光秀に左遷の不安があったのだろうかと思ってしまいがちであるが、光秀の「年齢」を考えるとうっすらと不安のようなものが見えてくる。
『当代記』によれば、光秀の年齢はこのとき67歳であったという。当時としてはかなりの高齢であり、「老い」ゆえに今までのように功績を上げていくことができないのでは、という不安を感じていた可能性はあるだろう。しかもこのとき光秀嫡男の明智光慶(みつよし)はまだ10歳であり、十分な後見ができぬまま自分が死ねば、一族の繁栄は危うくなる。
この焦りは結構大きかったのかもしれない。長宗我部の阿波を巡っての四国政策は、元親を説得できないという点で信長には失敗と映るだろうと考えたと、いうこともある。
光秀が武田と共謀を計画していた?
加えて、『甲陽軍鑑』によれば、「勝頼公も明智十兵衛二月より逆心可レ仕と申越候處に、長坂長閑分別に謀を以て調儀にて申越すと云て、明智と一つにならざる故、武田勝頼公、御滅亡也」とある点も見過ごせない。なんと、光秀は武田勝頼への内通を策していたというのだ。
結果的には武田方はこの内通話には乗らず、滅ぼされてしまったが、この話が信長に知れたら大変なことになるであろう。おそらくこの記述は『甲陽軍鑑』が偽書であるという定説により、黙殺されていたのであろう。
ところが、その『甲陽軍鑑』が、実は武田信玄の重臣高坂弾正が口述で筆記させたものであるという説が有力になったことで、この記述の重要性は高まったように思う。もしこの話が史実なら、光秀にとってこの件は非常に不安を掻き立てるものであったに違いない。
この件に関して少々気になることがある。甲州征伐の際の総大将が光秀ではなかったという点である。
当時、柴田勝家が上杉攻めを行い、羽柴秀吉が毛利攻めを行っている状況であった。当然、大物武田氏の征伐には出世頭である自分が総大将であろうと期待したであろうが、信長の親衛隊として出陣するよう命じられたのである。
小和田氏はこれをもって、光秀が信長から疎外されたと思ったと述べている。それも当然あったと思われるが、勝頼への内通が史実ならば信長が何か未確認情報をつかんだため「外された」と勘ぐっても不思議はない。この不安はかなり強烈であろう。
ことが露見すれば一族もろとも粛清されるし、露見しなくてもライバル秀吉に負けてしまった事実は残るからである。しかし、もし勝頼への内通が本当だとすると、その理由は何だろうか。
甲州征伐が決定されたのは天正10(1582)年2月初旬であり、同年1月には光秀が坂本城で茶会を開いた際に床の間に信長自筆の書を掛け、信長から拝領した八角釜を使用している。
この時点では信長に叛意を抱いていなかった可能性が高い。つまり、1月の後半にかけて何かがあったということになる。時期的には、光秀が四国政策の転換を受け入れない長宗我部元親の説得に動いている時期と重なるのが気になるところではある。
あとがき
それにしても、「怨恨説」を調べれば調べるほど、はっきりとした怨恨の証拠は乏しいのであるが、光秀の信長に対する不満がごく短期間で醸成されていく状況がうっすらと透けて見えるように思えてくるのは不思議である。不満があまりに短期間で醸成され、さらに光秀自身が大義名分作りのため少々話を「盛った」ことで、怨恨のほうがクローズアップされたのではないかと私は考え始めている。
【主な参考文献】
- 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』PHP研究所、1998年。
- 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』PHP研究所、2014年。
- 藤田達生 『謎とき本能寺の変』講談社、2003年。
- 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年。
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
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