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 2017/11/23

戦国時代における「分国法」とは?

古書イメージ6

戦国時代の主役となる武家は、武力だけの存在ではありません。室町幕府の権威が低下し既存の秩序が崩壊した戦国時代であっても、領国経営に欠かせない秩序形成を目指して大名の多くが独自の法制度を定めました。これにより君主と家臣の関係を整理したり領土を発展させたのです。

ここでは戦国大名らが採用した分国法(戦国家法)について触れていきたいと思います。
(文=戦ヒス編集部)

日本初の武家法「御成敗式目」

戦国時代から遡ること約300年前の鎌倉時代に施行されていた「御成敗式目」。学校でも習ったこの法制度は、武家が発布した最初の法律として記憶されているのではないでしょうか。

なぜいきなり「御成敗式目」のことを? と思われるかもしれませんが、実は戦国時代の分国法は、鎌倉時代の『御成敗式目 (貞永式目) 』を模範としたものが多くあるからです。

「御成敗式目」は、日本初の武家政権であった鎌倉幕府が、慣習の異なる日本各地を統治することを目的に定められました。日本には古代から採用されていた律令法や平安時代からの公家法が存在していましたが、武家にまつわる法律はありませんでした。そのため、源頼朝以降を参考に武家の慣習や道徳などをまとめました。

吾妻鑑を参考にすると制定されたのは貞永元年(1232年)8月10日とされており、全51条からなっています。

代表的な第三条の「諸国守護人奉行事」では、幕府関係者である守護や地頭、御家人の国衙・領家・寺社への越権行為を禁止しています。また、第七条の「所領之事」では、鎌倉幕府を開いた頼朝や妻・政子から与えられた所領の扱いや権利について触れており、土地の扱いや管理、争い事への対処を示しています。

武家の慣習を元にした御成敗式目の形式は、のちに各地の戦国家法に受け継がれていくのです。

さて、次項からは具体的に分国法の事例をみていきましょう。

東海の雄・今川氏の法律「今川仮名目録」

駿河を拠点にした有力戦国大名の今川氏には「今川仮名目録」という法律がありました。戦国時代の東国では最初の戦国家法となるものであり、今川氏親によって大永6年(1526年)4月に策定されています。これは病弱であった嫡男・今川氏輝への円滑な後継と今川氏による政権安定を目的としていたと考えられています。

概要としては、第一条には家臣の領有である土地を地頭が没取することを禁止、第二条は土地(田畑や山林)などの境界争いへの対応、第四条では訴訟中の土地の扱いや他人の土地を勝手に利用(耕作など)してはいけないなどとあります。

土地を基盤とする戦国大名や家臣の権利を守りながら、起こり得る土地トラブルへの対応を定めていることが特徴と言えるでしょう。

氏輝死去後に家督を継いだ今川義元は、天文22年(1553年)2月に仮名目録追加21条を追加しています。今川仮名目録は、武田信玄で知られる甲斐武田氏の「甲州法度之次第」に影響を与えたことでも知られています。

東北の大名・伊達氏が定めた「塵芥集」

塵芥集は、陸奥国を拠点とした戦国大名・伊達氏の戦国家法であり、天文5年(1536年)に伊達家第14代当主・伊達稙宗によって定められたもの。

一般的な戦国家法だと家臣の土地を保証したり、境界争いなどを含むトラブルを処理するために策定されますが、塵芥集は原告と被告の関係を定めた領民向けの刑事・民事に加えて、武器や農機具を製造する細工人や神社仏閣関係者を優遇して人材の離散を防ぐなど、幅広い内容になっています。

また、犯罪者を取り締まる機関が存在していなかったため、被害者が自ら加害者を捕まえる「生口」も定められていました。生口とは「生きたまま捕まえる」ことです。

戦国家法の中でも最多の全171条ある多岐に及ぶため、「塵芥集」と由来となっており、殺人や強盗といった刑事事件への詳細な規定の存在が特筆されます。

信玄が制定した「甲州法度次第」

甲州法度次第は、甲斐の戦国大名・武田信玄によって天文16年(1547年)に定められてます。「御成敗式目」のほか、当時同盟関係にあった今川氏の「今川仮名目録」を参考にしたと考えられています。

全部で57条(発布当初は55条)あり、代表的なものは、第一条の国人・地侍が所領跡と名目に土地を勝手な処分を禁止したり、所領全体は武田氏が領有することを規定していることでしょう。

国人・地侍が農民から理由なく土地を取り上げることを禁ずることで、農民を保護した他、第六条には年貢の滞納を禁止して地頭に取り立てさせることも定めています。

この他には第三条の内儀を経ずして他国への書状のやり取りを禁止することで内通を防止したり、また浄土宗と日蓮宗による宗教問答やそれを取り持つことも禁止しているのが特徴です。

後に影響を与えたのが、第十七条の喧嘩両成敗だと指摘されています。これは訴訟によらず、力によって解決(自力救済)することで復讐の連鎖が拡大するのを抑制するためでした。また、罪人が逃亡した場合は「まず当府に被害者の妻子を招き、仔細を尋ねる」という規定もあります。

第五十五条は、信玄をも法の対象であることを明記するなど、法律の尊重が明文化されていることに注目したいところです。同条文には法律の不備や法執行に問題があれば、身分の貴賤に関係なく申しであることも定めるなど、画期的な内容も存在していました。

まとめ

御成敗式目を皮切りに今川氏の今川仮名目録、伊達氏の塵芥集、武田氏の甲州法度次第について触れてきました。

いずれも土地の領有や管理、処分の手続き、境界争いや訴訟を重視しています。これは武家にとって土地トラブルが家臣同士の争いや対立に発展することを抑制するためであったと考えられます。

また、領国発展を目指した農民や技術者を保護したり、領民の間で起こる刑事・民事トラブルへの対処も規定しており、領国経営に欠かせなかったことも伺われます。

その他、まだまだ有名な分国法が以下のように存在しますので、興味がありましたらぜひとも参考にしてください。

  • 文明11年(1479年)頃、朝倉孝景が「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」を制定。
  • 永正12年(1515年)、大友義長が「大友義長条々」を制定。
  • 弘治2年(1556年)、結城政勝が「結城氏新法度」を制定。
  • 永禄10年(1567年)六角承禎・義治父子らが「六角氏式目」を制定。
  • 慶長2年(1597年)長宗我部元親・盛親父子が「長宗我部元親百箇条」を制定。




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