【愛知県】鳴海城の歴史 開城条件は主君の首との交換!今川氏の忠臣・岡部元信が守った城
- 2020/06/09
近年その歴史的評価が改まりつつある武将の一人が「今川義元」ですが、その家臣にも優れた武将が多く、なかでも「岡部元信」は敵対する織田信長にも感銘を与えたという忠勇で知られています。
そんな元信が守ったのが「鳴海城(なるみじょう)」。桶狭間の戦いで今川勢が潰走するなか、最後まで健在のままだった城です。今回はそんな、鳴海城の歴史について見てみることにしましょう。
そんな元信が守ったのが「鳴海城(なるみじょう)」。桶狭間の戦いで今川勢が潰走するなか、最後まで健在のままだった城です。今回はそんな、鳴海城の歴史について見てみることにしましょう。
鳴海城とは
鳴海城とは現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町に所在した城で、別名を根古屋(ねごや)城ともいいます。現状から正確な数値は確認できませんが、南北34間(約62メートル)、東西75間半(約137メートル)の平面プランをもっていたと古文献に記録されています(1間=1.82メートルで換算)。
丘陵上に位置し、東西に細長い構造の城であったことが推測され、付近には土塁や空堀の存在を思わせる地形が残っています。
応永年間(1396~1428)の安原備中守宗範による築城が始まりとされますが、宗範没後は一旦廃城となりました。
鳴海城の名が再び歴史の表舞台に出るのは天文年間(1532~1555)のことで、この時期は織田氏の影響下にあり、山口教継が城主を務めていました。
しかし天文21年(1552)、今川氏との緊張状態が高まっていた織田氏から教継が突如離反。一説に信秀没後に家督を継いだ信長への反発などがあったとも考えられています。鳴海城主には教継の子・山口教吉が着任します。
同年には赤塚の戦いが起こり信長勢と山口父子が対峙。信長勢は30騎ほどが討死しますが被害は大きくなく、戦闘は両軍の捕虜を交換するなどの処置で終結します。
この合戦は両軍およそ5メートルの距離という接近戦となり、首を取り合うこともなかったと伝わっています。これは元来同じ織田家中であり、顔見知り同士での戦闘ということが起因していると考えられています。
山口父子は以後の失地を咎められ今川氏によって切腹させられますが、織田氏への再翻意の嫌疑をかけられたともいわれています。代わって今川家譜代の武将・岡部五郎兵衛元信が鳴海城主となり、織田対今川の最前線の防備を担いました。
その後も両陣営の緊張状態は続き、信長は永禄2年(1559)頃に鳴海城を包囲するために中嶋砦・丹下砦・善照寺砦を構築。同時期には大高城へのけん制として丸根砦・鷲津砦を築き、前線における今川方城砦の相互連絡を分断する作戦を展開します。
永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、鳴海城は健在のまま戦闘が終了します。
城将であった岡部元信は鳴海城を開城するにあたり、主君・義元の首と交換という条件を提示し交渉を成功させます。元信の忠勇に感じ入った信長は丁重に義元の首を返還し、元信は主君の首を輿に乗せて鳴海城を引き払ったといいます。
桶狭間の戦い後は信長の重臣で、撤退戦の巧みさから「退き佐久間」と称された佐久間信盛とその子・信栄が鳴海城主となります。
鳴海城の終焉がいつか定かではありませんが、信盛が織田家を追放された天正8年(1580)頃、もしくは天正18(1590)頃には廃城となったと考えられています。
城砦の集中を招いた、鳴海城の存在
名古屋市には実に多くの城跡が残され、現在判明しているだけでも80か所前後ほどもの数になります。鳴海城が織田と今川の領地のせめぎ合いにおいて、常に最前線に位置していたとは先に述べた通りです。重要なのは、この鳴海城をめぐる攻防のために周囲にいくつもの陣が築かれ、城砦の集中が起こったという点です。
鳴海城は本来織田方の城であったといえますが、当時の城主の造反により今川方のものとなったことで、勢力図に重大な影響を与えました。織田方としては重要拠点を奪還する必要がありましたが、一旦敵の手に渡ると取り返すのが難しい堅城であったことがうかがえます。
そこで鳴海城を囲むように最低でも三か所の砦を築き、また鳴海城が他の城と連携することを妨害するため、そのルートを分断するようにさらに別の砦を2か所設置しました。
こうしてプレッシャーをかけることで鳴海城への抑止力としましたが、このことで狭い範囲内に攻防の拠点が林立するという、城砦の集中が起こったのです。
たった一か所の拠点が勢力の行く末を左右することは多くありますが、鳴海城はまさにその典型的な例といえるでしょう。
桶狭間の戦い後の武装解除に応じるまでは健在であり、交渉によってようやく織田方に復帰したことからも、城将の手腕と相まって非常に攻めにくい拠点であったことが想像されます。
おわりに
鳴海城を武装解除した岡部元信は、後に甲斐武田氏に仕えることとなります。その終焉は高名な「高天神城の戦い」であり、城将であった元信は家康の兵糧攻めにあい、最後に自ら先頭を切って突撃を敢行しました。元信、およそ70歳のことでした。
大久保忠教と刃を交え、その側近の本多主水と組打ちの末討ち取られたといいます。それが元信だったと判明したのは首実検のおりのことで、敵方も無双の忠勇を誇った老将に思いを馳せたことでしょう。
補足:鳴海城の略年表
- 応永年間(1394~1428年) 安原備中守宗範により築城
- 天文年間(1532~55年) 織田家臣の山口教継が城主に
- 天文21年(1552年) 山口教継が織田氏を離反、今川氏につく。山口教吉が鳴海城主に
- 同年 織田信長と山口父子が赤塚の戦いで対峙。以降、山口父子は再翻意を今川氏に疑われ切腹。今川氏譜代・岡部元信が鳴海城主に
- 永禄2年(1559年)頃 信長が中嶋砦・丹下砦・善照寺砦を築砦。鳴海城包囲網を構築
- 永禄3年(1560年) 桶狭間の戦いで今川義元が敗死。健在であった鳴海城は義元の首級と引き換えを条件に開城
- 同年 信長重臣の佐久間信盛・信栄父子が城主に
- 天正8年(1580年) 佐久間信盛が織田家から追放、高野山へ蟄居
- 同年 信長重臣の佐久間信盛・信栄父子が城主に
- 天正18年(1590年)頃 鳴海城は廃城となる(諸説あり)
【参考文献】
- 『三河古書全集 校正三河後風土記 第1巻』 成島司直 撰 1920 三河古書刊行会
- コトバンク(朝日新聞社)日本の城がわかる事典
- 名古屋市緑区HP 鳴海周辺のみどころ一覧1
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