【家系図】下克上の先駆けとなった越前国朝倉氏の出自とは?
- 2019/09/30
新興勢力の織田信長に最後まで抵抗するも滅ぼされた越前国の朝倉氏。名家というイメージが強いですが、実は室町幕府の将軍の期待に応えることで戦国大名まで登り詰めた下克上の先駆け的な存在です。
はたして朝倉氏はどのようにして越前国で支配力を強めてきたのでしょうか?今回は朝倉氏の出自と、台頭の背景についてお伝えしていきます。
はたして朝倉氏はどのようにして越前国で支配力を強めてきたのでしょうか?今回は朝倉氏の出自と、台頭の背景についてお伝えしていきます。
朝倉氏の出自は諸説あり
祖先は日下部の姓だった?
朝倉氏の出自については諸説ありますが、いずれも天皇の苗裔(びょうえい。遠い子孫のこと。)と記されています。- 『加越闘諍記』や『越州軍記』に記されている景行天皇の苗裔説
- 『朝倉家系考』や『福井県史』に記されている開化天皇の苗裔説
- 『朝倉系図』や『朝倉始末記』に記されている孝徳天皇の苗裔説
いずれの説も定かではありませんが、上記の三番目の説によると、平安期には日下部の姓で但馬国の郡司を務めており、日下部宗高に至って初めて朝倉を名乗っています。その子である朝倉太郎大夫高清は『平家物語』にも登場しており、有名です。
平氏に与して一時は所領没収となっていますが、その後に功績があり、源頼朝より許された際に木瓜が副えられていたことから家紋が三盛木瓜になったと伝わっています。
そういった経緯から朝倉氏の祖は高清とされているのです。
足利尊氏に協力し、越前国に拠点を得る
ただし、越前朝倉氏の祖は宗高・高清父子よりさらに後の、鎌倉末期の朝倉孫右衛門尉広景です。広景は『壬生本朝倉家譜』には、八木美作入道広景と記されており、広景が朝倉氏の末流である八木氏のさらに分族であったことが明らかになりました。
そのような立場から歴史の表舞台に颯爽と登場できたのは、足利尊氏が丹波国で挙兵した際に駆けつけ味方したからです。広景は尊氏方として斯波高経に属して越前国に攻め込み、新田義貞を破りました。そしてその恩賞として越前国坂南郡の黒丸城を手に入れたのです。
一乗谷に拠点を移すまで、黒丸城が越前朝倉氏の居城でした。
応仁 の乱が飛躍の秋
越前国七カ所の地頭職
初代広景の子・朝倉高景も高経の反乱鎮圧などで戦功をあげています。高景父子は室町幕府将軍の尊氏(高氏)から偏諱を賜り、高景(1代目)、氏景(3代目)と名乗るようになったとか。朝倉氏が越前国七カ所の地頭職を宛がわれたのはこのときです。三代目の朝倉孫次郎氏景は、一乗谷に熊野権現を勧請し、ここで朝倉氏と一乗谷が初めて関わりを持っています。
参考:越前朝倉氏の系譜
- 初代広景
- 2代高景
- 3代氏景
- 4代貞景
- 5代教景
- 6代家景
- 7代孝景(英林孝景)
- 8代氏景
- 9代貞景
- 10代孝景(宗淳孝景)
- 11代義景
四代目は朝倉孫右衛門尉貞景(下野守)、五代目は朝倉孫右衛門尉教景(美作守)です。
この教景も幕府に貢献し、永享の乱や結城合戦などで功績があったため将軍である足利義教より教の偏諱を賜っています。
六代目は朝倉孫右衛門尉家景(下野守、為景、教景)と続き、七代目の朝倉孫右衛門尉孝景(禅正左衛門尉、敏景、教景)に至り、越前国の支配者としての地位を築きました。
好機は越前国だけに収まらず中央の権力争いも巻き込んで全土が戦乱に包まれた「応仁の乱」でした。
応仁の乱で東軍に寝返り越前国の支配者となる
朝倉氏の主家は、越前国・尾張国・遠江国の守護を務める斯波氏です。この斯波氏は斯波義敏の当主の代に家臣らと争って戦となり、敗北して東山東光寺に逃亡するも、細川勝元の調停で和睦するという事件が起こります。長禄元年(1457)のことです。ここから越前国は統治権を巡って争いが続いていくのです。将軍である足利義政は一時的に義敏から守護職を取り上げたり、斯波氏の傍流である渋川義廉を任じたりといった対応もしてきたのですが、政所執事の伊勢貞親の後押しもあって義敏が復権するなど斯波氏の家督を巡ってももめています。
ここで山名氏の武力蜂起によって貞親や義敏が追放されると、応仁元年(1467)に義廉が管領に任命され、山名持豊・義廉らの西軍と勝元・義敏らが衝突する応仁の乱が起こりました。
このときの朝倉氏当主・七代孝景(英林孝景)は、当初は西軍に味方し、義敏の父親の屋敷を攻撃するといった武功をあげています。しかし、将軍の義政は東軍に牙旗を与え、西軍の中心として活躍する孝景を勧誘して東軍に引き抜きました。
『朝倉始末記』や『大日本史料』によると、孝景が東軍に降った文明3年(1471)に越前国守護職に補任されたと記しています。一方で補任までは難しかったという説もありますが、朝倉氏が越前国の支配を公認されたのは間違いないでしょう。
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将軍に頼られる勢力となる
各地の乱の平定のために出陣
その後も朝倉氏は、義敏の子の斯波義良や越前国守護代の甲斐氏との争いが続き、孝景の後を継いだ朝倉孫次郎氏景の代になって、斯波氏を尾張国に追い出すことに成功しています。ただし氏景が亡くなった後、13歳という若さで朝倉孫次郎貞景が9代目の家督を継ぐと、朝倉氏内部でも反乱が起きました。孝景の末子である朝倉宗滴(教景)もまた、この謀反に参加しようとしていた人物のひとりですが、直前になって思いとどまり、貞景に密告したことで謀反は失敗に終わっています。宗滴はこの返り忠の功によって敦賀郡の郡司に任命されました。
10代目当主の朝倉孫次郎孝景(弾正左衛門尉)は、宗滴の協力を得て、国外に出陣する機会が多くなります。これは領土拡大のためではなく、室町幕府将軍からの要請によるものです。
この時期になると、各地では守護の家督を巡る争いや、守護と守護代の権力闘争が頻繁に起こるようになっていました。孝景はそんな各地の混乱を鎮めるために出陣したのです。朝倉氏は1万2千の精鋭を率いており、将軍にとってはとても頼りになる存在でした。
永正14年(1517)には、丹波国の一色氏の内紛が隣国の若狭国の武田氏にまで飛び火し、統治権を巡る争いがそれぞれ起きていますが、将軍の要請を受けた孝景は宗滴を派遣するなどして守護に加勢し平定しています。
『宣胤卿記』や『東寺過去帳』によると、永正16年(1519)には美濃国の土岐氏の内紛の鎮圧に出陣し、『朝倉宗滴話記』や『二水記』によると、大永5年(1525)には六角氏に攻められ苦戦していた北近江の浅井氏を助けたと記されています。
主家である斯波氏よりも上の官位へ
このように朝倉氏は幕府の親兵として近畿周辺の秩序維持に奔走しました。野心による領土拡大のための戦いではなかったという点が特殊といえるでしょう。この活躍ぶりにより、朝倉氏は将軍から様々な特権を与えられ、大永8年(1528)には供衆に加えられ、さらに天文7年(1538)には相伴衆に加えられるまでに地位が向上していきます。
11代目当主である朝倉孫次郎延景は、天文21年(1552)に将軍・足利義輝から義の偏諱を賜り、義景と名乗りました。浅井長政と手を結び、織田信長を苦しめたあの朝倉義景です。
偏諱を賜ったのと同時に、義景は左衛門督(長官)の官位にも就いています。これまでの朝倉氏の当主は代々左衛門尉でしたが、主家の斯波氏の官位である左衛門佐(次官)を抜き去ってさらに上の官位を得たわけです。紛れもない越前国の支配者であることが証明されました。
おわりに
下克上によって越前国の支配権を手に入れた朝倉氏ですが、最後は同じように下克上によって大きな勢力となった信長によって滅ぼされてしまいます。ただし朝倉氏は越前国の統治に専念しつつ、対外的には混乱を鎮める働きをしていたことが両者の大きな違いでしょう。だからこそ浅井氏は朝倉氏との同盟を尊重したのでしょう。もし、朝倉氏が本格的に領土拡大を行っていたら、信長に滅ぼされることもなかったかもしれません。
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【主な参考文献】
- 水藤真『人物叢書 朝倉義景』(吉川弘文館、1986年)
- 松原 信之『朝倉義景のすべて』(新人物往来社、2003年)
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